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〈大きな物語〉とまいチク解釈学 ―大塚英志とビックリマンを通じて―

・ヴィックリマンチョコを箱買いしてみたら~、 ル~タ~レ~ダ~エ~ヴォ~ル~タ~ガ~エ~ルVS白塗りゼウス!。でした~

 こんにちは、コウ・メダユーです。今日は、以下のツイートを通じて議論を行っていきます。

 なんだかよくわかりませんが、まずは普通に解釈を行っていきましょう。
下の句の「ル~タ~レ~ダ~エ~ヴォ~ル~タ~ガ~エ~ル」はハッキリとしませんが、「エル」で終わっていることから恐らく天使の名前でしょう。有名な天使には「カマエル」や「ガブリエル」などが存在することは周知の通りです。また、「ル~タ~…エ~ル」を天使と仮定すると、キリスト教から見た異神であるゼウスと戦っていることは自然に思えます。
 
 つまり、この「まいチク」は以下のように読み解けます。「ヴィックリマン」を箱買いしたコウメ氏は、その付録のシールを通じて、「ル~タ~レ~ダ~エ~ヴォ~ル~タ~ガ~エ~ルVS白塗りゼウス」という物語を読み取ったのだと。

 さて、この時点ではこの作品は、捻りのない駄作に過ぎないように思います。しかし、何故小梅氏が「ヴィックリマン」を題材に選んだかを考えてみると、この作品に深みが出るのです。

・大塚英志と「ビックリマン」

 では、「ビックリマンチョコレート」について考えていきましょう。日本で最初に「ビックリマンチョコレート」について議論を深めた人物としては大塚英志の名が挙げられるでしょう。
 大塚は、1980年代に流行ったロッテの「ビックリマンチョコ」を消費する子どもたちが、「チョコレート」を目的としているのではなく、その付録である「シール」を目的としていたことに気づきました。
 当時、実際に「シール」を手に入れるために購入された「ビックリマン」の、本体であるウェハースチョコレートが大量に捨てられ、社会問題となったようです。
 子どもたちは「シール」を通じて何を楽しみ、何を消費していたのでしょうか。大塚は、「ビックリマン」の仕掛けを以下のようにまとめます。

①シールには一枚につき一人のキャラクターが描かれ、その裏面には表に描かれたキャラクターについての「悪魔界のうわさ」と題される短い情報が記入されている
②この情報は一つでは単なるノイズでしかないが、いくつかを集め組み合わせると、漠然とした〈小さな物語〉― キャラクターAとBの抗争、CのDに対する裏切りといった類の ― が見えてくる
③予想だにしなかった〈物語〉の出現をきっかけに子供たちのコレクションは加速する。
④さらに、これらの〈小さな物語〉を積分していくと、神話的叙事詩を連想させる〈大きな物語〉が出現する
⑤消費者である子供たちは、この〈大きな物語〉に魅了され、チョコレートを買い続けることで、これにさらにアクセスしようとする

大塚英志『定本 物語消費論』角川書店、2001年、10頁。

 つまり、子どもたちは、シールに描かれる断片的な情報である〈小さな物語〉をもとに、その背後にある神話的叙事詩たる、〈大きな物語〉にアクセスしようとしていたのでした。これを大塚は「物語消費」と名付けています。

・「物語消費」としての「まいチク」

 大塚の議論を振り返ったところで、我々は驚くべき事実に突き当たります。実は、「まいにちチクショー」そのものがこの「物語消費」そのものではないか、という事実です
 確かに、「まいチク」は日々の小梅氏の悲劇を断片的な形式で記している〈小さな物語〉の集積といえます。更には、物理法則を無視した物語の展開は、まさしく「神話的叙事詩」を思い浮かばせます。例えば、「まいチク」は以下のような神話学的解釈をも許容します。

  地球を吹っ飛ばす小梅氏はまさしく、シヴァ神の如き存在であり、確かに「まいチク」は神話的叙事詩の如く読み解けるように思えます。

 しかし、ここに大きな陥穽があります。
 大塚のいう「物語消費」は、背後に「大きな物語」があることを前提としていました。ですが、「まいチク」の背後に「大きな物語」は存在するのでしょうか?

 確かに、冷静になって考えると、個々の物語が支離滅裂な「まいチク」の背後に体系的な「大きな物語」があるようには思えません。むしろ、「まいチク」は断片的な小さな物語の群でしかなく、そこに体系的な整合性は存在しない、と考えたほうが良いかもしれません。まいチクは、コウメ太夫によるランダムなエネルギーの散発でしかないのだ、と。

 もちろん、「まいチク」の背後に「大きな物語」の存在を想定してまいチクの解釈を続けることも可能です。しかし、今作は、そうしたスタンスのまいチク解釈学(コウメソドロジー)に一つの問題を突きつけました。いまいちど今作を見てみましょう。

  ここで、何が「チクショー」なのかを考えてみましょう。小梅氏は、「ヴィックリマン」を箱買いし、数多くの断片的な〈小さな物語〉を消費したにも関わらず、得られた情報は「ル~タ~レ~ダ~エ~ヴォ~ル~タ~ガ~エ~ル」と「白塗りゼウス」という〈小さな物語〉でしかなかったのです。これは、大塚が②で述べている「キャラクターAとBの抗争」に相当します。 
 つまり、小梅氏は数多くの物語を消費しても、その背後にある〈大きな物語〉へのアクセスが不可能だったことを「チクショー!」と述べているのです。

 この状況は、陥穽に陥った我々と同じ状況です。まいチク解釈学者は、どれだけ数多くの「まいチク」を通じ、その背後にある〈大きな物語〉にアクセスしようとしても、必ずその手前の〈小さな物語〉で立ち止まってしまうのです。

 ここに来て、我々は選択を突きつけられました。「まいチク」解釈を行う我々は選ばなければならないのです。〈大きな物語〉を信じるモダニストか、〈小さな物語〉のみを信じるポストモダニストかを。
 私には、コウメ太夫氏が今作を通じ、〈物語〉の間で苦しむ我々を嘲笑っているかのように思われるのです。

【引用・参考文献】
・大塚英志『定本 物語消費論』角川書店、2001年
【ヘッダー画像引用元】

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