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一乗谷山 光教寺のご紹介

一乗谷山 光教寺は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)のお寺です。この記事は、光教寺を紹介するリーフレットを、書きくだしたものです。


一乗谷と光教寺

戦国大名 朝倉氏が、越前国守護として5代103年に亘って栄えた一乗谷。当時、京の都を凌ぐといわれたこの狭隘な谷が、いつから一乗谷と呼ばれるようになったかは定かではありません。

天正元年8月(1573年9月)、5代朝倉義景は織田信長との戦いに敗れて大野で自害し、織田軍による放火によって3日3晩猛火に包まれた一乗谷は、一宇も残さず灰燼に帰しました。それから 400年後の農地改良事業が始まった頃から、地下に埋まっていた遺構が本格的に発掘され、現在の 「一乗谷朝倉氏遺跡」として整備されてきました。

一乗谷朝倉氏遺跡のマップ

光教寺は、この一乗谷最奥の浄教寺地区にあります。昔、足羽郡宇坂荘(荘園)に属していた一乗谷を南から北に向かって流れる一乗谷川の上流には、剣豪佐々木小次郎が“燕返し”をあみ出したと伝えられる一乗滝が、今も滔々と流れ落ちています。

盛夏の一乗滝

浄土真宗とは

宗祖 親鸞聖人
本山 西本願寺
本尊 阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
聖典 『浄土三部経』 (『仏説無量寿経』 『仏説観無量寿経』 『仏説阿弥陀経』) 、『正信念仏偈』(『教行信証』行巻末の偈文)、 『浄土和讃』 『高僧和讃』、『正像末和讃』、『御文章』(第8世蓮如上人のお手紙)
教義 信心正因・称名報恩 (信心往生、他力本願、悪人正機)

光教寺の沿革など

天正9年(1581年)
釋了心が願い出て、『大谷本願寺親鸞聖人傳記』が第11世 顕如上人から道場什物として御下付(正月16日)

「四幅の御影」の「四.証の巻」の裏書文書

享保元年(1716年)
寺岡宗映
は夢告によるに導かれて、小鷲谷の岩間から古箱に入った阿弥陀如来の木像(伝 源信僧都作)と絵像(伝 第10世證如上人御下付)を見つけたことから、光教寺と改称

元治元年(1864年)
「当寺第10代寺岡惠雄と門徒 三ツ屋甚助は、阿弥陀如来御 本尊の修繕のため、近江塩津から大津に向けて乗船間際、 甚助の背負った御本尊が突然米一俵余りの重さとなり急遽 陸路に変更、その船は難破し乗船客は溺死」、との言い伝え

明治元年(1868年)
明治維新・明治新政府誕生

昭和7年(1932年)
本堂移転・再建(第13代寺岡孝照、坊守すゑを)、元は現在の 納骨堂・駐車場の地に

昭和16年(1941年)
12月8日日米開戦→東アジア太平洋戦争に拡大

昭和17年(1942年)
「金属類回収令」によって梵鐘供出(10月11日に法要)

昭和19年(1944年)
1月、寺岡龍含再出征(中国大陸北支) →昭和21年3月生還

昭和20年(1945年)
8月15日大日本帝国降伏 →昭和27年日本国独立回復

昭和44年(1969年)
梵鐘再鋳・鐘楼再建

鐘楼

昭和45年(1970年)
本堂再建落成慶讃法要・親鸞聖人七百回大遠忌法要 (第14代寺岡龍含、坊守道子)


平成元年(1989年)
真如堂(納骨堂)建立  <区画納骨所ご希望の方はご相談ください>

真如堂(納骨堂)

平成9年(1997年)
第15代寺岡弘文住職継職法要


平成14年(2002年)
『四幅の御影』修復(きずな堂/京都 大入)

大谷本願寺親鸞聖人傳記(四幅の御影)

令和2年(2020年)
『方便法身尊形像』修復(向陽堂/福井)→ 2021年秋完了

アクセス


北陸道 福井ICから158号線天神橋経由にて約15分、あるいは 鯖江ICから河和田かわだ、金谷かなだん経由にて約20分

JR
福井駅2番線<越美北線>にて一乗谷駅まで17分。さらに、徒歩にて朝倉氏遺跡を経由して約50分か、 駅近くの朝倉氏遺跡博物館前からバスにて10分

バス
福井駅西口バスターミナル5番乗り場から浄教寺行きにて34分

京福バス<一乗谷東郷線>時刻表
光教寺周辺図

問い合わせ先

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