『令和紀抄 虎呂那事』という歴史書について

最近、家の屋根裏を整理していたら『令和紀抄 虎呂那事』という歴史書がうちから見つかりました。奥書には「令和十五年正月写了」とあり、令和15年時にはすでに写本が作成されたものだとわかります。うちから見つかったのは写本のようですが、調べてみたところ、これより古い本は見つからず、成立、作者ともに不明です。何か、この本についてご存知の方がいらっしゃいましたら、情報をお願いいたします。

大変珍しいものに思われましたので、ここにその翻刻と訓読案を掲げてみました。

被改令和之後、疫癘繁発、世人所患也、是号虎呂那、〈虎呂那者冠病之義也、此病自唐入本朝云々、〉抑於本朝者、令和元年十二月、此病忽出来了、則為後代、自其月之事、可書記也、
令和元年、〈平成三十一年四月三十日改元、依新帝御即位也、〉
十二月、
二十一日、始伝聞虎呂那之事、
令和二年、
三月、
十五日、始被宣緊急事態、迄四月十三日也、又賑給一十万円於天下、青鳥記曰、近来流行神被顕也、此号阿麻比古云々、又□□(欠字)武蔵守可重三密、頻宣〈みつなり、〉、若是異三密歟云々、
四月、
二十三日、不被撰斎王代、依近来疫癘也、〈弥為末代歟、〉然間不被行賀茂祭、
閏四月、
二十五日、祇園御霊会、依貞観之例被行了、
五月、
十二日、 丑刻、光物見関東、光如引白布、其長不知、又有鳴動云々、
七月、
四日、亥刻、光物再見関東、又有鳴動云々、
十七日、北野御霊会、依応仁大乱廃絶了、此度再興誠稀代之事也、
十一月、
二十四日、 鴨川水変赤色了、其躰如血云々、
令和五年十二月、目出度為而疫病已畢、

《訓読》
令和に改めらるる後、疫癘繁発し、世人患ふ所なり。是れ虎呂那と号す。〈虎呂那は冠病の義なり。此の病、唐より本朝に入ると云々。〉抑そも本朝に於いては、令和元年十二月、此の病忽ち出来し了んぬ。則ち後代の為、其の月の事より、書き記すべきなり。
令和元年、〈平成三十一年五月一日改元。新帝の御即位に依てなり。〉
十二月、
二十一日、始めて虎呂那の事伝へ聞く。
令和二年、
三月、
十五日、始めて緊急事態を宣せらる。四月十三日に迄るなり。又た一十万円を天下に賑給す。青鳥記に曰はく、近来流行神顕はるるなり。此れ阿麻比古と号すと云々。又た□□(欠字)武蔵守、三密を重んずべくして、頻りに宣す、みつなり。若し是れ三密に異なるかと云々。
四月、
二十三日、斎王代を撰ばれず。近来の疫癘に依てなり。〈弥いよ末代たるか。〉然る間賀茂祭を行はれず。
閏四月、
二十五日、祇園御霊会、貞観の例に依て行はれ了んぬ。
五月、
十二日、丑の刻、光物、関東に見ゆ。光、白布を引くがごとし。其の長、知らず。又た鳴動有りと云々。
七月、
四日、亥の刻、光物再たび関東に見ゆ。又た鳴動有りと云々。
十七日、北野御霊会、応仁大乱に依て廃絶し了んぬ。此の度の再興誠に稀代の事なり。
十一月、
二十四日、 鴨川の水、赤色に変じ了んぬ。其の躰、血のごとしと云々。
令和五年十二月、目出度して疫病已み畢んぬ。

以上訓読。
令和五年の十二月条だけ、文体があきらかに異なっており、何かしらの理由で書き加えられたものだろうと考えられます。同じようなものに、安政の大地震の際に描かれた瓦版にも、「地震は無事治まった」と書き安全を祈った例があり、これもそれに近いものかもしれません。

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