記紀と出雲口伝、それぞれのウソ


はじめに

近年、日本建国の真実を明らかにしようとする発信者の情報が増えている。
私が特に注目しているのは、RAPT(愛媛在住のBlog執筆者・宗教家)、そしてToland Vlog(You Tuber)である。
RAPTの視点は、天皇家に対してやや誹謗中傷的であるが、Toland Vlogの視点は、より好意的であり、大きな意図により歴史は動かされているような感覚を覚える。RAPTが歴史に関して活発に執筆をしていたのはCOVID騒動が始まる以前であり、その当時の状況を考えると、非常に鋭い視点で歴史を考察していたと言える。
Toland Vlogは最近登録者も増加している、勢いのあるYou Tuberだが、彼ら以外にも考え方の学校Yoshi sun TV、大人ノ学校、コヤッキースタジオ、むすび大学小名木善行、など日本の真実の歴史を考察するYou Tuberは増えており、お互いに刺激を受けている感もあり、情報発信の勢いの盛り上がりを感じる。

その中でも大きく取り上げたいテーマは、題して「記紀と出雲口伝、それぞれのウソ」である。
日本神話の「出雲の国譲り」では、アマテラスの子孫(天津神系・天孫族)が、スサノオの子孫(国津神系・出雲族)に勝利し、出雲族は大社を建ててもらう事を交換条件に、出雲(現在の島根県)に引きこもり、勝った天孫族の子孫が、のちの初代天皇・神武天皇であることが書かれている。
天孫族である天皇家の書いた記紀(古事記・日本書紀)が、現在日本では正式な歴史書とされているが、出雲族は代々一族の中から記憶力・賢明さなどを考慮して選び抜いた一人に、勝者である天孫族が抹殺した、真実の歴史(出雲族から見た)を、口伝として語り継いでいた。
出雲“口伝”と言いながら、なぜ明るみに出たのかというと、日本屈指の歴史小説作家として今なお高名な司馬遼太郎、その産経新聞記者時代の同僚であった富當雄氏が、そのじつ出雲王家の富家の末裔であり、最後の出雲口伝の正当な後継者であることを自ら明らかにし、彼の死後その息子が、その全容を書籍として出版したのだ。

記紀と出雲口伝の内容は、その大筋は一致しており、最終的に日本の支配者になったのは天津神系の神武天皇であることは、出雲口伝も認めるところであるが、細部を紐解けば、数々の矛盾があることがわかる。

今回取り上げる、私が「歴史書のウソ」と思う部分には、下記がある
・記紀が隠したかった、天皇家の祖・徐福
・神武天皇の即位年代2600年前は、日本建国が秦建国より早いことの主張
・現在の島根県よりはるかに大きい出雲王国の範囲

・記紀が隠したかった、天皇家の祖・徐福

Toland Vlogが動画として伝えた、記紀と出雲口伝の矛盾の中でも、特に衝撃的な内容は、「徐福は、天皇家の重要な祖先のひとり」という内容ではないだろうか。
徐福は、古代史ではよく知られた存在であり、秦の始皇帝に「中国の東方の海上には、蓬莱山という霊山があり、そこには不老長寿の妙薬がある」と進言し、大量の船・人員・財宝を譲り受け日本に航海したが、そこで王になり二度と戻ってこなかった、という伝説は日本・中国とも、広く知られている。
記紀では、徐福と現在の皇室の血縁に関する記述は無いが、出雲口伝では、徐福が計3回来日し、日本の王になるべく積極的に立ち回り、出雲王家と婚姻関係を結んだことが詳記されている。さらに、徐福は、出雲族の女性の間に生まれた息子と娘(母は出雲族の本家と分家の、異なる女性)を結婚させ、生まれた孫、叢雲が日本の初代天皇となったと記述しているが、彼の妻の情報などから、「叢雲」=神武天皇であることは、ほぼ間違いないとされる。
秦の始皇帝は、紀元前3世紀の人物とされているので、同じく徐福も紀元前3世紀の人物のはずである。叢雲は徐福の孫であり、神武天皇の紀元前7-6世紀という記述とは矛盾する。
さらに、秦の始皇帝に援助された徐福が、日本建国に大きくかかわっていたとすると、独立国としての日本の立場も、危ぶまれる。正史である記紀は、この点において、徐福の存在を明かすことが出来なかったのではないか。

・神武天皇の即位年代2600年前は、日本建国が秦建国より早いことの主張

中華が、はじめて統一されたのは、有名な秦の始皇帝によってであるが、徐福と秦の始皇帝の関係を考慮すれば、日本建国は、秦の歴史より長いことにしないと、記紀のウソがひょんなところから明らかになる可能性がある。神武以降の歴史を、秦の歴史より長くするために行ったウソの痕跡が、初期の天皇の異常に長い寿命(現在の医学でもまれな120歳越えの天皇も複数いる)ではいか、と思われる。

・現在の島根県よりはるかに大きい出雲王国の範囲

Toland Vlogでは、九州南方の海底に存在した海底火山・鬼海カルデラの紀元前5300年頃の大噴火により、その降灰地域である九州・中国・四国・近畿の大部分にヒトが住めなくなり、東日本または朝鮮半島・中国などの国外に避難していったと考察されている。
さらに、青森県の三内丸山遺跡が最盛期を迎えたとされる縄文時代中期(5500-4400年前;Wikipediaより)の大規模な遺構は、その多くが東日本に集中していることが明らかになっている。
もちろん、徐福が来日した紀元前3世紀とは年代が大きく離れているため、出雲王国の拠点が西日本の、特に現在の島根県に集中していた可能性は否定できないが、鬼海カルデラの大噴火を乗り越え、東日本から拡大したはずの出雲王国が、現在の島根県の小さな範囲に、政治・文化の拠点を集約していたというのは、いささか不可解である。
出雲口伝の記述した徐福来日の範囲にも矛盾がある。出雲口伝では1回目が現在の山口県、2回目が現在の島根県、3回目が現在の福岡県に来日したことになっているが、徐福が目指した蓬莱山は、現在の富士山であるだろうという予測は、広く知られているうえ、富士山のふもとの神社の宮司末裔が記した宮下文書では、徐福は富士山を訪れたと記述されており、徐福が西日本しか訪れなかったという出雲口伝の記述とは、大きく矛盾している。
私は、出雲王国の西王家の拠点は、現在の島根県かもしれないが、東王国の拠点は、近畿より東(東海から東北のどこか)であった、というのが真実では無いか、と予測する。
 
史書というものは、自分たちに都合の悪いことは書き残さないものであり、天孫族(および、その子孫である現在の天皇家)、出雲族それぞれにとって都合の悪い部分を、つなぎ合わせ補うように読むことが必要であると思う。


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