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短編【真夜中の囁き】小説

「先輩って、ご結婚されて何年になります?」
「ん?俺?あー、もう十二年だな」

コロナの終息宣言が出て五年が経った。今ではあの頃は大変でしたねえ、と言う昔話のネタのひとつになっている。聞くところよると高校の社会科の教科書にも発端から終焉まで、各国の対策の成功と失敗が記載されているらしい。歴史の一部になったのだ。今でもコロナは続いてはいるが死亡者は居ない。正確には合併症での死亡者はいるが、コロナウイルス自体での死亡は、もう居ない。しかし実際はコロナの罹患者数はピーク時とほぼ変わってはいない。そのデータを掲げて2020年から2024年までの政府のコロナ対応を過剰だった、マスクなんて不用だったと言う者もいるが咽喉元過ぎれば何とやら。

俺はコロナ前に今の会社に入社した。その頃は、社員同士の特に先輩後輩での飲み会を積極的にやりたがる者なんて居なかった。俺もそうだった。上司の愚痴に付き合うのが嫌だった。ところがコロナが明ければ、その価値観が少し変わっていた。後輩の方から飲みに誘う風潮が全国的にいつの間にか出来上がっていた。

コロナ禍で上司との飲み会に参加したことの無い新入社員が、不快な経験をした事がないから。と言うのが原因ではないかとテレビのコメンテーターは言っていた。


「へぇ、十二年。結構経ってますね。いまでもラブラブですよね。社内でも有名ですよ。先輩の愛妻ぶりは」

そして今、俺はコロナ入社の遠藤と居酒屋にいる。

「まあね。高校生からの付き合いだからね。俺は女はアイツしか知らないし、アイツも男は俺しか知らない」
「マジっすか!女遊びとかしたいって思わないんですか?」
「思わないね。アイツと一緒にいる時が一番楽しいから。やばい!お前がそんな事言い出すから家に帰りたくなった。もう俺、家に帰るわ」
「なに言ってるんですか」
遠藤は笑ってビールを飲んだ。

「お前は何年になる?結婚して」
「僕ですか?二年…もうすぐ三年目ですね」
「そうか、じゃあお前もまだラブラブだろ?」
「んーー。ウチはあんまり会話とか無いっすねー。子供が出来れば少しは変わると思うんですけど」
「家事とか手伝ってるか?」
「え?」
「やってねーな。そんなんだから会話がなくなるんだよ」
「先輩はやってるんですか?」
「当たり前だろ。食事が終わったら食器洗いはするし、休みの日は掃除機もかけるし。そうしないと、お前、いつか愛想を尽かされるぞ」
「うちは大丈夫です。あ、思い出した。…ちょっと、のろけちゃっていいですか?」
「どうぞ」
「この前、残業で遅くに家に帰った時なんですけど」
「残業?うちは」
「あ、やべ。すみません、ちょっと仕事が残っちゃって。まあまあ。で!もう時間も時間だから流石に妻はもう寝てるんですよ。それで、起こさないようにそっと寝てる妻の耳元で『奥さん!旦那さんが交通事故で亡くなりましたよ!』って何回も呟いたんですよ」
「何してんだよ」
遠藤は笑っている俺のグラスにビールを注いだ。

「そしたら妻が寝ながらシクシク泣き出したんです。もう、俺、それ見て何だか感動しちゃって。当たり前だけど、俺が死んだらコイツ泣くんだなぁって思って」
「へぇ」
「翌朝、妻が言うんです。俺が死んだ夢を見たって。もちろん寝てる時に耳元で俺が何をしたのかは内緒にしてますけど。今度、先輩もやってみて下さいよ。感動して、よりいっそう、自分の奥さんを大切にしようと思いますよ」
「バカ、そんな事しなくても」

感謝してるよ、と笑い合ってその場はお開きになった。

家に着いたのは深夜一時過ぎ。妻はもう寝ていた。結婚して十二年。俺は今も変わらず妻を愛している。妻も、そうだろう。

ふと、遠藤が言っていた、あの戯言を思い出した。俺は寝ている妻の耳元に囁いた。

「奥さーん、旦那さんが、交通事故に遭いましたよー」

んーーー。と妻が煩そうに眉をひそめる。

「奥さーーん、旦那さんが、交通事故で全身を強く打って、亡くなりましたよー」

んーーーーーーん。妻は寝返りを打って向こう側を向く。俺はそれを追いかけて。

「奥さーん、旦那さんが死にましたよー」
「ふふ…ふふ、ふふふふふ」

妻は嬉しそうに笑った。とても、嬉しそうに寝ながら笑っていた。


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