ニート・フリーター・工場派遣からセブ島留学で英語とITを学び人生を変えた話【生き様note】
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こんにちは。
現在はメンタル&キャリアコーチ、IT留学アドバイザーをしております"あこさん"こと赤穂浩司(@kouji_akou)です。
唐突ですが、私はどん底から人生を大きく変えてきた過去があります。
私は生まれて長い間、格差社会の煽りを受け続けてきた半生。いわゆる社会のどん底でした。
しかし、30代半ばを機に環境が180度変わり、怒涛の海外生活を経て人生を変えることができたのです。
そんな私の半生から学んだことがあります。
そうです。人は諦めなければ私のような落ちこぼれの凡人でも人生を変えることが出来ます。
「自分はまだまだこんなものじゃない」「もっといろんなことに挑戦したい」など、もっと人生を好転させていきたい人は、ぜひこのnoteを最後まで読んでみてください。
最後まで読むのは大変かもしれませんが、あなたの人生に何か少しでも伝わることがあると信じています。
また、noteの最後にはお知らせがありますので、ぜひ興味のある方は最後まで読んでいただければ幸いです。
1.少し複雑な幼少期の家庭環境
【ダメおやじ日本代表】
まずは少しだけ父親の話をさせてください。
当時は父親も若かったのでしょうが、ひとことで言うと私の父親はダメおやじでした。
ほとんど記憶にはありませんが、覚えている範囲で父は以下のとおり。
遊びに連れて行ってもらった記憶などもなく、私にとって父はただただ怖い存在でしかなかった。
まさに「ダメおやじ」そのもの。
そして私が4歳の頃。いよいよダメおやじと決別する時が。
【お前、もう一回骨折ってくれへんか?】
ある時、母が離婚の経緯を私に話してくれたことがありました。
普段からタバコ、ギャンブル、ろくに仕事もせずの父。ずっと我慢を強いられ、辛い結婚生活だったと想像がつきます。
そして、ある決定的な出来事が起こるのです。
それは母が腕を骨折した時のこと。母は医療保険に入っていたのでなんとか保険金が下りたのですが、ここからが悪夢の始まりです。
なんと、仕事もしていない父はそのお金を持ってパチンコに明け暮れるという暴挙に出ました。
そして、保険金はすべてパチンコで跡形もなく消えたのです。
パチンコに負けて帰ってきた父はムシャクシャしていたのだろうか・・・
ある衝撃的な一言を母に向かって吐いた。
※父とはそれ以来会っていませんが、さいたま市で生活保護を受けているみたいです。
いまだに顔も名前も年齢も住んでる場所もわかりませんが、35年ぶりに父を探す旅に出てみようと思います。その様子はYouTubeやnoteで報告できたらと思います。
気になる方はフォローしてお待ちいただけますと幸いです。
2.母子家庭で育つ
【10代の母と私と兄】
母が19歳の時に私は大阪で生まれ、さらに二つ上の兄がいます。母は若くして二人のシングルマザー。
そんな母は、私たちを育てるため高卒認定を取得後、美容専門学校に行き美容関係の仕事に就いたのです。
女手ひとつで家族を支える多忙を極めた母。もちろん私たち子どもに付きっきりでいることは出来ず、家にいないこともしばしば。
必然的に兄弟で過ごすことが多くなりました。
【道しるべを失った少年】
小学生の頃はいわゆる「鍵っ子」で、休日も家族でどこかに行くといったことはほとんどありません。
一般的な家庭は、両親が居て家族旅行をしたり、宿題を見てもらったりがあると思います。
しかし、私の家庭では目が届かないせいもあり、良くも悪くも自由でほとんど親からも注意されることなく過ごしていました。
何を考えることもなくボーッと過ごすことが増えていきました。
そして基本的には嫌なことを避け、小学校6年生になる頃には何事にも熱くなれない、無気力な少年になりつつありました。
【転げ落ちて行く中学生時代】
中学生になると、無気力生活に拍車がかかります。
地理の授業と体育以外には何も興味を持たず、小学生の頃は多少出来た勉強も、中学生活になるとみるみると周りから遅れを取ります。
さらに本当は野球部に入りたかったものの、声出しの迫力と坊主にするのが怖くて諦めました。
ただ私の中学では、基本的にどこかの部活に所属しないといけないというルールがあり、一番サボれて楽だと噂の卓球部に入ることに。
もうここまで来るとあとは転げ落ちるだけ。
勉強は一切せず部活にもほとんど顔を出さずに、学校が終わったら家に帰ってゲームやテレビばかり。そして町一番の不良にも目を付けられ、意味もなく殴られたりパシられたりと奴隷のような扱いも受けました。
そんなどんどん陰キャになっていく無気力中学生にも、高校進学の時期がやってきます。
【THE・どん底】
もちろん内申点、学力が低すぎて行きたい高校を選ぶことは出来ず、先生に「もうここしかない」と言われ、専願(単願)で偏差値30台の地元私立高校に行くことになりました。
入学した高校は野球部とサッカー部が強く、甲子園や全国大会に出るようなゴリゴリの体育会系で、ほとんどが男子という学校です。
もちろん陰キャ無気力学生の私はまったくノリについていくことが出来ず、日を追うごとにどんどん影を落としていきました。
ここでも体育会系部活の人たちから目を付けられ、休み時間にわざとサッカーボールをぶつけられたり、ラグビーやサッカーの授業で削りに削られた覚えがあります。
当時の私は気付いていなかったですが、なぜか下手くそな私にボールがよく回ってきたのです。
面白かったんでしょうね。陰キャが一生懸命プレーしている姿が。もちろん今なら何をされていたかわかります。
そういえば記憶が曖昧なのですが、なぜか弁当を持っていない日々がありました。なので、いつもお昼ご飯は食べないか、数少ない友人におかずを一口もらっていた記憶があります。
当時はどういった家庭環境だったのか。あまり覚えていないし、気にも留めないぐらい思考停止していたのかもしれません。
こんな感じで、相変わらず勉強にも興味を持たず部活にも入ることなく、無気力で記憶が曖昧な高校生活が過ぎていきました。
身長184cmの高身長ながらも体重56kgガリガリの70年代アイドルみたいな髪型。瓶底メガネをかけ、身だしなみも一切気にしない陰キャで無気力な私。
もちろん勉強も一切しないので学力も学年でほぼ最下位。
これからの進路も定まらないまま、イケてない高校生活もいつの間にか残り1年を切っていました。
【根強い格差が残っている現代社会】
前もって言っておきますが、家族とは基本的に仲は良いです。もちろん大変な中で私たち兄弟を育ててくれた母のことは尊敬しています。
しかし我が家庭は世間との格差が明らかにあったはず。
経済的格差、教育格差、情報格差、、、
生まれ育った環境によってこの辺りは大きく左右され、その環境を打破するのは非常に難しいのです。
もちろん家族のせいにするつもりは1ミリもありませんし、基本的には人生におけるすべては自己責任だと考えています。
ただ幼少期から学生時代の私には、この格差や環境をひっくり返すほどの力や情報を持ち合わせていませんでした。
※これは私の家庭だけに限った話ではなく、現代社会での大きな問題になっています。個人レベルでどうこうなる話ではなく、国や企業が力を合わせていかなければ是正は難しいでしょう。
【進路は閉ざされた】
高校3年生のときに、何かよくわからない全国模試みたいなものを全校生徒で受けたことがあります。(学生時代の記憶が曖昧なので何かはわかりません)
そのときに、まぐれで学校内でちょっといいスコアが取れてしまったのです。もちろん底辺高校なので全国で見たら平均以下ですが。
そこでずっとモヤがかっていた脳内が少し晴れた気がしました。
「どうせ大学には行けない」と興味を持つことすらしなかった私が、今後の進路について少し考えるようになったのです。
そして先生と母を交えた運命の三者面談が行われます。
結果は「学力も学費も足りません。就職しましょう」とのことでした。
なんか淡い期待を抱いていた自分が馬鹿らしくなって、また心を閉ざし無気力に戻ってしまいました。
そして残りの数ヶ月も記憶が曖昧なまま高校生活は終わり、気がつけばいつの間にか社会に出ていたのです。
※今となっては無理して大学に行かなくてもよかったなと思っています。同調圧力、惰性で大学に行っても、別にやりたい学問もなかったので。行けたとしてもどうせFランと呼ばれるような大学に行って、多額の奨学金という名の借金を背負うだけでしたから。
3.高卒ニートから工場派遣に
【ひとりで行動する勇気がない】
どうやって高校を卒業して社会に出たのかは覚えておらず、気づけばニート生活を送っていました。
偏差値30台の高校をかろうじて卒業だけした、無気力陰キャニートの出来上がりです。過去の話ですが、我ながら「どうしたんだ?何があったんだ?」と言いたくなります。
そして高校を卒業して早半年。相変わらず外の世界に出ることが怖く、ほぼ引きこもりニート状態でした。
コンビニにすらひとりで行けないビビリの私にとって、誰ひとりも知らないところで働けるはずなんてありません。
しかし、さすがに母にも「働け」と言われ始めました。
【いやいや働くことになった19歳の私】
ひとりで働くのが怖くて逃げていた私も、いよいよ働くときが来ました。
小学校時代の友人が工場派遣のアルバイトをしているのを知って、紹介でその工場で働かせてもらうことになったんです。
社会に出てはじめての長期間の仕事。やる気はないのでサボりつつも、お金はもらえるのでほとんど休むことなく出勤だけはしていました。
でも相変わらず夢も希望もないイケてない工場派遣。ちょっと気が緩めばすぐに無気力ニートに転落していたでしょう。
なんのために生きてるんだろう。変わらない毎日にふとそんなことを思い始めました。
【20歳になった私にとんでもない衝撃が】
私が働いていた工場は世界的にも有名な電機メーカー。その工場だけでも従業員は1,000名以上いました。ほとんどが男性か既婚40代以上のパート女性。
そんな人間模様の工場でもある楽しみがありました。社員食堂に行くと毎日美人なお姉さんたちが挨拶をしてくれるのです。
その人たちは、各大手保険会社の外交員の方たち。
男性が多い職場なので、こぞって各保険会社が綺麗どころを送り込むという戦略(多分)。
その中でも一人飛び抜けた美人がいました。
日○生命の新卒の女性(Tさん)が、長谷川京子と小倉優子を足して2で割ったかのようなとびきりの美人です。
どこかで無謀とは分かっているものの、毎日その女性に会うのが楽しみで仕方ありませんでした。
こんなイケてない私にも毎日笑顔で話しかけてくれ、どこかで淡い期待を抱く日々を送ったのです。
【工場派遣3年目にしてまさかの展開が】
そして工場派遣も3年目に突入し、相変わらず夢も希望もない私は派遣会社からある打診を受けます。
この話を聞いたときは嬉しくてたまりませんでした。
今まで誰かに認められることなんてなかった私が、始めて世の中から必要とされたような感覚だったのです。
もちろん二つ返事で答えました。
しかし、もっと私には重要なことがあったのです。
そう。例の日○生命Tさんのことです。
陰キャなりに話しかけたりしているものの、お客さんとしか見てもらえない日々。
そりゃ当たり前の話です。
それでもアホな私は、Tさんにどうやったら振り向いてもらえるかばかりを考えていました。
そして色々考えてみた結果。。。
【選んだ道は・・・】
そもそも小さな派遣会社の正社員になったところで、夢も希望もないヒョロガリ陰キャには振り向いてもらえないことは明白でした。
そして、、、
結局、派遣会社の正社員登用を断ることにしました。ついでに工場での派遣も辞めることにしたのです。
やりたいことはわからないし、どうやったらイケてる男になれるのかわからないけど、今のままでは絶対に無理だと思い決断しました。
そして工場から去る日。日○生命のTさんを呼び出しました。
もちろん振り向いてもらえるはずもなく木っ端微塵に玉砕されたのです。
しかし、自分の中でなにか吹っ切れた感じがしたのです。
始めて自分の意思で想いを伝え、これからの道を選んだような気がしました。
どうやったら美人に振り向いてもらえるイケてる男になれるか。笑
そんな想いが沸々と湧いてきたのです。
このとき21歳。さあこれからどんな人生になるのか。
4.私は地図が好き
【祖父からの誕生日プレゼント】
そういえば私は小学校時代から、なぜか祖父の車の中にある「関西道路地図」というものを眺めるのが好きでした。
当時はカーナビがなかったので、どんな車にも道路地図が載せてあったと思います。
それを家の中に持ち込んで、実際に地図の上をドライブしている気分になって四六時中、地図をなぞっていました。なんなら学校にまで持っていって眺めていました。
そして誕生日の日の朝。起きると枕元になんと関西だけではなく日本の全てが載った「全国道路地図」があったのです。
祖父からの世界最高の誕生日プレゼントでした。
【地図にこの世の全てを捧げた小学生】
小学校4年生のときに地理の授業が始まって、ますます地図好きに拍車がかかります。
もう地図好きなんてものじゃなく、地図オタク、地図マニアの域です。
小学校の時はすべての都道府県と県庁所在地はもちろん、ほぼ世界すべての国旗や国名、首都を当てることが出来ました。
地理以外の授業中でもお構いなく地図帳を広げて、先生に教科書の角で何度も殴られました。笑
なぜか他の教科にはまったく興味が湧かないのに、地理の授業だけは楽しくて仕方ありませんでした。
多分、小学2年生のときに母の会社の慰安旅行でハワイに連れて行ってもらったのが要因なのかもしれません。
今まで家族でどこかに行くという経験が少なかったため、さぞかし刺激的で印象に残ったのだと思います。
おかげさまで学生時代はずっと地理の成績だけ合格点で、あとの教科は赤点のオンパレードでした。
【郵便物の中から光が見えた】
工場を辞めた私はすぐに友人が働いていた郵便局でのバイトを始めました。
そこで配達物を配達順に並び替える作業があるのですが、そのときにたまたま郵便物の中に「〇〇旅行専門学校」という文字を発見。
気になったので学校名だけメモして、家に帰ってネットで調べてみました。すると、なんと旅行会社に就職するための学科があったのです。
地図オタクの私には衝撃的でした。旅行会社は大学に行かないと入社できないと勝手に思い込んでいたし、夢なんてどうせ自分が叶えられるはずがないと心の奥底にしまい込んでいたので。
それからはその学校に行くためにバイトを掛け持ちして、居酒屋やボウリング場、カラオケ屋など、陰キャの私はどこに行ったんだ?と思うぐらいの陽キャだらけのバイト先で働き始めたのです。
そしてなんとか200万円近く貯め、さらに奨学金200万円以上借りて旅行の専門学校に入学しました。
【念願の旅行会社に入ったものの・・・】
22歳で旅行の専門学校に入学して24歳で卒業した私は、大阪・梅田のとある旅行会社に契約社員として就職することに。
しかし、まさかここから悪夢が始まるとは思ってもいませんでした。
などなど。
入社してからすぐに、先輩たちから上記のような会社の劣悪な環境を聞かされました。先輩と言っても私より年下が多く、彼らからしても年上の私に愚痴を言いやすかったのだと思います。
入社して1週間後。沖縄にて新人研修があったのですが、私たち同期は先輩たちを救いたいという想いから、本部長に「大阪支店の労働環境がやばい」と伝えました。
すると研修中に大阪支店へ本社から通達が行き、研修が終わって関西空港に着いた頃、私の携帯に上司から電話がかかって来たのです。
明らかにお怒りモード。大阪支店に帰ると、支店内の空気が一変していました。
各課の役職者、上司たちから厳しい眼差し。大阪支店についてすぐに支店長室に連れて行かれ、こっぴどく叱られました。
そして、数ヶ月もしないうちにほとんどの同期は辞めてしまい、なんとか残った私には、容赦無くパワハラ、モラハラが行われたのです。
営業課に配属されていた私は、沖縄から帰ってきてすぐに一番立場の弱い課に左遷され、その後は上司たちから総スカンを喰らいました。
意味もなく怒鳴られみんなの前に立ってラジオ体操させられたり、ずっと上司や先輩に無視され続けたり。
入社してまだ2週間しか経ってないのに、もうすでに窓際社員に。でもすぐ辞めるのは負けた気がして嫌だったので、会社や上司をにらめつけながら仕事を続けました。
「こいつらゼッタイ見返してやる」と。
でもそれ以上に大事だったのは、上司への復讐でもなんでもなく、お客様の方向を向いて大好きな地図を見ながら旅行を提案するのがたまらなく好きだったのです。
【大人になって実際に地図の場所に行きたくなった】
1年目から総スカンを喰らい続けながらも見返してやるという意地と、お客様の喜ぶことなら何でもするという想いで必死に働く毎日。
そして、2年半がたった頃。所属課の上司から
と言われたのです。
そういえば周りの反応も少しずつ変りつつありました。
一生懸命働く姿が認めてもらえたのか、徐々に話しかけてもらえるように。
それと同時に何か肩の荷が降りた気がしたのです。
1年目の初っ端から出遅れまくった(自業自得)けど、嫌なことから逃げずに戦い続け、そしてお客様に向き合い続けてきた結果だ。
(実際はブラックな環境すぎて先輩が辞めていくから繰り上がりで昇進の話が来ただけだと思う。笑)
そしてそんな想いから上司にあることを伝えました。
気づけばもう27歳になっていました。
そろそろ将来のことも考えないといけないけど、今の会社ではブラックすぎて未来が見えない。何か新しいことはじめないと。
そこで出てきたのが「実際に昔から地図で眺めていた場所に行きたい」という想いでした。
【英語力ゼロでヨーロッパ21カ国ひとり旅】
私は中学校の頃からずっと無気力人間だったため、中学から授業が始まった英語に関してはからっきしダメでした。
どれぐらいやばいかというと、be動詞がわからないし文型とか品詞とかも何も知らない状態。
そんな英語力でなぜか「地図で眺めてた場所に行きたい」という想いから、とりあえずスイス行きの航空券だけ握り締めて成田空港へ向かった。
しかし宿は取っておらず、さらに48日間でヨーロッパ21ヶ国をひとりで旅をするという無計画さ。
案の定、スイス・チューリッヒ空港に着いたものの、英語が読めないし電車の乗り方もわからず、空港から2時間出られないという幕開けでした。
その後もトラブル続きで、財布をなくして所持金10円で48時間ご飯を食べれず野宿したり、コンタクトを紛失してのび太くん状態になったり。何度警察のお世話になり笑い者にされ、何度差別を受けたか。
旅にトラブルはつきものというが、異国の地で英語力ゼロであれば尚更トラブル三昧なのは想像が容易い。
しかし、そんな大変なことを何倍も上回るぐらい素敵な旅だったと思います。
綺麗な景色を見て、美味しいご飯を食べ、たくさんの人の優しさに触れ、異文化を体験することができました。
そして最終的には48日かけてヨーロッパ21カ国をひとり旅し、ひと回りもふた回りも成長した気持ちで日本に帰ってくることができたのです。
5.二度目のどん底へ
【現実と理想のギャップに苦しむ】
日本に帰ってきた私は、調子に乗って何者かになったかのような気でいました。
そんな想いもどこかに持ちながら日本では転職活動をしました。
しかし、現実はそんなに甘くありません。低学歴でろくなキャリアも歩んできておらず、ビジョンもやりたいこともハッキリとしていない私はことごとく不採用になり、どんどん無気力に戻っていきました。
海外で経験してきたことなんて、1ミリも認めてもらえなかったですし、理想を語っているというか、ただの現実逃避でしかなかったのかもしれません。
結局、転職活動のペースはどんどん落ちて行き、いつの間にか再び引きこもる日々が始まりました。
【再びニート生活へ】
ヨーロッパから帰ってきて半年を過ぎた頃。もう転職活動をほぼ行わなくなっていた私は、昼夜逆転のニート生活を送っていました。
派遣や日雇いなどで働いたこともあったのですが、またニートに戻ったりとさらに1年ほどうだつの上がらない日々。
そんな焦りを感じながらも、一度堕落してしまった現状を抜け出せずにいました。
【恐る恐る足を踏み出した先には泥沼】
そして29歳が迫ってくるころ。私は再び地元の工場派遣として働きに出ることに。家からも通いやすく基本的にはマニュアルに沿った単純作業だったので、すぐ仕事にも慣れていきました。
高卒で入社した10代の正社員たちと中年の派遣社員、40代〜60代の上司たちで構成されている職場。私はギリギリ20代だったので職場では比較的若いほう。それなりに可愛がってもらえてすんなりと職場に馴染みます。
しかし、まさかこれが泥沼生活の始まりとは思ってもいませんでした。
【私は井の中の蛙だが、大海を知っている】
ヨーロッパを旅したり旅行会社で働いてきた経験がある私は、工場の中ではまだ経験豊富な部類でした。
同僚の派遣社員たちは、高卒、中卒ばかりで、今までニートやパチプロ、フリーターで転々など、社会経験が乏しい人も多い。母子家庭、両親と縁が切れているなど、育ってきた環境も私と似たような人が多い職場でした。
彼らの話題の中心は、パチンコ、タバコ、酒、メイド喫茶、風俗、スマホゲーム、マルチ商法、楽して稼ぐ方法など。
高卒上がりの正社員の子たちも彼らにそそのかされ、みんな上記のどれかにはまっていくことに。
さらにサボりや遅刻は日常茶飯事。意識が低く損得勘定ばかりでものごとを判断する人が大半を占めていました。
ハッキリ言って夢や希望なんてあったもんじゃない。私はそんな職場環境を徐々に嫌うようになっていきました。
【日常と非日常】
ちなみに工場の勤務形態は三交替勤務で、夜勤→遅番→早番→夜勤といった感じで毎週シフトが変わる仕組みです。
不規則な生活が強いられ体調管理が難しく、平日の仕事終わりはいつも疲れてだらだら過ごしていました。
元をたどればやはり私も生粋のニート気質。こんな職場環境に嫌気がさしつつも、なかなか現状を打破できない「日常」がそこにはあったのです。
そんな望まない絶望的な「日常」を送りながらも、ギリギリのラインで自我を保つ「非日常」体験がありました。
それは「ひとり旅」です。
ちなみに大手企業の工場勤務でしたので、1週間から10日間ぐらいの長期休暇が年に複数回ある職場でした。
地図好き、旅好きの私は、長期休暇があると決まって国内外をひとり旅していました。それは工場の「日常」では絶対に出会えない人や景色と出会える「非日常」に触れるためです。
旅に出るといつも決まって
と思うようになりました。
しかし、旅から帰ってくるとまたいつもの日常が待っている。これからどのように行動していけばいいのか。
そんな日常と非日常のギャップに悩まされる日々が続き、なかなかやりたいことも見つかりませんでした。
【いよいよ決断のとき。人生の分かれ目】
相変わらず未来が見えない私立ちにとって、入社して4年目でまたと無いチャンスがやって来ました。正社員登用試験です。
腐っても大企業の正社員です。給料はそこまで高くないけど、福利厚生はしっかりしているし、非正規雇用よりも安定した生活が送れるようになるのは明白。
もちろん周りの人たちは正社員試験にチャレンジし、何名か正社員になるものも出てきていました。
そして私も流されるように正社員試験にチャレンジし、とりあえず合格してしまったのです。
しかし、正社員の話や昇進の話が来る度に断ってきた私は、ここでも
と疑問を持ちます。
既に32歳。もしかしたら人生でもう二度と正社員になるチャンスは無いのかもしれない。でも死んだように毎日を過ごすのも耐えがたい。
どうしよう・・・
そしていよいよ上司に伝えるときが。
結局、正社員を辞退するという道でした。派遣会社の正社員、旅行会社での昇進の話をいただいた時と同じように栄転の話を辞退するはもう3回目。本当に諦めが悪いものです。
そして、正社員を断ったという話が工場中に出回った時に次々と疑問の声が。
そりゃそうです。ロクな学歴、職歴がない派遣たちが多く集まった職場。それが大手企業の工場で正社員になれるなんて、私たちにとっては願ってもないチャンス。
正社員を目指してやってきている人がほとんどの中で、せっかく受かったのに辞退するやつがいるなんて信じられないでしょう。
工場内ではかなり物議を醸しましたが、私に未練はありませんでした。
【33歳の工場フリーターが次に選んだ道は】
とはいえ明確にやりたいことがあるわけでもなく、とりあえず後輩が独り立ちするまでその工場で働き続けることにしました。
漠然とした気持ちでしたが、退路を絶った私は振り返ることなく未来を見始めていました。
すると、ある日なんとなくネットサーフィンしていたら衝撃的な文字が飛び込んできたのです。
「フィリピン留学」
なんだこれは。
初めて聞く言葉でした。
いろんな不安が入り混じりながらも、毎日仕事から帰って来ては寝るギリギリまでパソコンにかじりつく日々。
21歳のときに郵便物の中から「〇〇旅行専門学校」の文字を見つけたときぐらいに、衝撃的でワクワクしました。
毎日ネットで調べていくうちに、すでに頭の中では決まっていました。フィリピン留学に挑戦してやると。必ず英語を話せるようになって、人生逆転のきっかけをつかむんだ。
今考えると抽象的でビジョンも何もないですが、当時の私にとっては行動するのに十分すぎる材料になりました。
【ドリームキラーの存在】
いよいよフィリピン留学に行くことが決まり、上司や同僚に夢や目標の類を語り始めました。
みんなさぞかし応援してくれるんじゃないかと思っていましたが、それは一部の仲良い人たちだけだったのです。
この工場でしか働いたことのない40代以上の上司や、夢も希望もない同僚たちは、下記のような言葉を投げつけてきました。
冗談のつもりで言ったのかも知れませんが、井の中の蛙たち、いや、ドリームキラーたちにとっては確実に理解しがたい選択だったのでしょう。
確かに彼らにとっては、正社員を蹴って夢を語り行動しようとしている私は、少々都合の悪い存在だったのかもしれません。
彼らは小さい頃持っていた夢の類を何かしらの理由をつけて諦めてきたのですから。
まるで私の働いている工場は日本の縮図でした。
しかし、逆に力になりました。まさにネット上のアンチのようです。笑
そして2016年7月20日。5年以上働いた工場とやっと決別することができました。
6.人生を変えるフィリピン・セブ島留学へ
【選んだ道のりは決して楽ではない】
あと2ヶ月後に34歳になるという私は、工場をやめた3日後にフィリピン・セブ島に渡航していました。
相変わらずbe動詞もわからない中で3か月間の留学生活がスタート。もう待ったなしです。
そして入寮の日にはすでに数名の日本人とも仲良くなり、順風満帆な留学生活が待っていると思っていました。この後に待ち受ける道のりがとてつもなく険しいなんて知る由も無く。
翌日、陰キャをいつの間にか卒業していた私は、語学学校の同期(バッチメイト)である新入生たちにどんどん話しかけていきました。
明るくて海外生活にも慣れているヤツ。バッチメイトにはそんな認識をしてもらえてたと思います。しかし、そこが私の留学生活のピークでした。
初日の午前中に行われた30名ぐらい参加した留学オリエンテーション。当たり前ですが、フィリピン人講師によってすべて英語で行われます。
まったく英語が聞き取れない私はどんどん不安になっていき、こっそり横の人に助けてもらっていました。
そして、まさかの英語で自己紹介をする流れになったのです。
もう終わりです。まったく何を話せばいいかわかりません。だってbe動詞もわからないのですから。
そしていよいよ私の番。あまりに話せないのを見かねてフィリピン人の先生が質問をして助けてくれました。
しかし、その質問がまったく聞き取れないのです。
周りからは失笑され、一気に目の前が真っ白になっていきました。
その後に4技能テスト(Speaking/Writing/Listning/Reading)があったのですが、緊張とストレスがMAXに達しました。この世の終わりかと思うぐらいの腹痛に襲われ、記憶が薄れていく中でテストとオリエンテーションが終了。
翌日・・・
テスト結果はバッチメイト(同級生、同時期入学生)60人の中でお見事最下位。be動詞もわからないならそりゃそうか。
4技能それぞれが1.0〜10.0点で評価される。
結果は以下のとおり。
総合点は10段階でLEVEL1(Absolute biginner=完璧な初心者)という散々たる結果。
結局、実力テストで見事な大敗を喫した私は完全にお尻に火がついた。大口叩いて工場辞めてきて、やっぱり思ってるほど甘くなかったことを実感。
みんなが勉強に遊びに充実した日々を過ごす中で、基本的に誘いを断り続けストイックに英語学習に取り組む日々が始まります。
そういえば、高1の女の子にいつも英語を教えてもらってました。自分の半分以下の年齢の人に英語を教えてもらう。もうプライドなんかとっくに捨てていました。
写真は2か月目ものですが、最初に比べると結構伸びました。3か月後の卒業する頃には先生と日常会話が少しできるようになっていました。
【井の中の蛙、本当の大海を知る】
そして、セブ島留学で英語学習のほかにもう一つ大切な体験をすることがでいました。
それは留学生・現地で働いている人たちとの出会いです。
基本的には私のようなバックグラウンド(33歳の何もかもが底辺)を持った人はいません。
大学生や社会人の中でも、割と高学歴、輝かしい経歴を持った方や、経営者とたくさん会うことができました。
決して工場にはいないような人たちです。
いろんな人の話を聞いていくうちに、どんどん世界が広がっていく感覚がありました。数日前まで工場フリーターしていた私にとっては別世界です。
7.セブ島で運命が変わる
【留学中に運命を変える女性に出会った】
1ヶ月ぐらい経つと、語学学校にいる日本人はほとんど見たことある人ばかりになっていきます。
しかしある日、語学学校内では見たことのない女性Mさんを見かけたのです。
普段ならそこまで意識しないのですが、Mさんは群を抜いて美人で上品な方だったのですぐに気づきました。
たまたま話す機会があったのでいろいろ聞いてみました。
さらにもっと深く話を聞くと、旦那さんは日本で有名な留学エージェントを経営されていて、親子留学の事業展開のためにMさんが授業を受けているやらなんとやら。
最近までポンコツ底辺フリーターの私にとって、なんのことやらわからなかったのですが、とにかく旦那さんがすごい方というのはわかった。
そして数ヶ月後、このMさんが言ってくれた一言が今後の人生を大きく変えることになるなんて・・・
【ひとりの若手起業家に出会う】
3ヶ月の留学生活も終盤に差し掛かった頃。
私は正直迷っていました。仕事で使えるには程遠い英語力。そして実際に何がしたいかはまだ決まっていない。
するとMさんがセブ島で起業してる若くて面白い人を紹介してくれると言ってくれたのです。
その方は、セブ島IT留学という英語でプログラミングを学べる語学学校をセブ島で初めて立ち上げた若干26歳の若手起業家。
のちに人生の恩人になるKredo IT Abroad Inc.の横田猛夫氏(タケさん)でした。
後日、その方と会うために指定された場所は、とあるビル最上階のオフィス。
横田氏には、これからの時代に英語×ITがなぜ必要なのか?を話してもらった。
印象に残ったことは
ITというのは無縁だったし、ノートパソコンも持ってないし、デスクワークは苦手。でも、タケさんいわく、とにかくこれからの時代にITは必要そう。
そしてタケさんの半生や考え方がとてつもなく面白く、何か惹かれるものがありました。
もちろん英語もまだまだ話せないですし、英語でプログラミングを学ぶなんて持ってのほか。しかし、タケさんの近くで学びたい、新しい挑戦をしたい。その一心でセブ島IT留学することに決めたのです。
【ITは異次元の世界】
いよいよ34歳でIT未経験のポンコツが2ヶ月のKredo IT留学に挑みます。
正直かなり難しかったですが、今まで自分のパソコンすら持っていなかった私は、ITに触れることで大きく可能性を感じました。
そしてやはり予想的中。タケさんの周りにはたくさんの優秀な起業家や有名人がいたのです。国内外から多くの人がタケさんに会いに来ます。
時には授業そっちのけで経営者・起業家の方に挨拶したり、放課後にも起業家や現地で働いている人のところに何度も足を運びました。
もちろんIT留学に来る生徒さんも意識の高い起業家やサラリーマン、学生さんが大半でした。
2ヶ月のIT留学によって得たことは、ITにより世界が広がり、そして今までとは比べ物にならないぐらいの人との出会いを手に入れることが出来たのです。
まさに異次元の世界。
そしてIT留学が1ヶ月経った頃、私はもう一度セブ島に戻ってくると決めていました。次はいよいよセブ島現地で働くつもりで。
【セブ島IT留学中に現地での仕事が決まる】
私は常日頃からタケさんとMさんに「セブ島で仕事したい。自分でビジネスやれたら最高」と伝えていました。すると二人がある人を紹介してくれました。
タケさんのビジネスパートナーであり、そしてMさんの旦那さん(Yさん)を紹介してくれました
Yさんはちょうどセブ島で旅行事業を始めようとしていました。そしてたまたま私が過去に旅行会社で働いた経験があったのもあって、とんとん拍子で話が進み、、、
と声をかけてくれました。
もちろん二つ返事で快諾した私は、思わぬ形で3度目のセブ島に来ることが決まったのです。念願の海外で仕事をするという夢のようなことがおきました。
【海外スタートアップで働くということ】
Yさんとセブでの旅行事業立ち上げメンバー(業務委託)に、もうひとり見たことがある名前がありました。
知っている方も多いとは思いますが、バンコク在住のマナブさん(マナブログ運営者、SNS総フォロワー100万人以上)という方です。
実はタケさんとマナブさんは同い年の友人で、過去にフィリピンで有名なWebメディアを立ち上げた仲間だったのです。
その繋がりでマナブさんと一緒に仕事をさせてもらうことになりました。
数ヶ月前まで工場フリーターだった私からすると、世界が変わり過ぎてもう何がなんだかという感じ。
そんな刺激的でワクワクする毎日が始まります。
最初はホームページ内の記事コンテンツを作成していたのですが、もちろんWeb記事なんて一回も書いたことがない。
しかし、腐っても現地の事業責任者。毎日深夜まで寝る間を惜しんで勉強と仕事を頑張りました。
合間で現地での宿泊、車、船などの手配を全て英語で、そして下見や飲食の準備、団体のお客様のアテンドなど。
もう明らかに私のキャパを超えていました。
しかし、そもそもロクな仕事をしてこなかった私は、事業立ち上げでほとんど活躍することができませんでした。
結局思ったより事業は伸びず、今後の進路を考えざるを得なくなった私は、大人しく負けを認めて日本に帰ろうとしていました。
すると、タケさんが見かねて(留学事業の業務の方が向いていると思ってもらえたのかも)なのか、Kredoに引き入れてくれたのです。それも第一号の正社員として。
またまた思わぬ形でスタートアップにジョインさせてもらえ、そこからは何がなんでも恩返しするつもりで働きまくりました。
それでもやはり結果が出せない日々が続き、必死に深夜まで勉強と仕事の毎日を1年続けたのです。
【33年間をすべて塗り替える濃厚な2年間のセブ島生活】
セブ島ではマナブさんをはじめ、有名人、芸能人、日本を代表する会社の創業者など、たくさんの人たちと交流を持たせてもらうことができました。
皆さんのおかげで、工場時代とはまったく違う環境で毎日を過ごすことができたのです。
まだまだ満足行く結果を出せたとは言えませんが、個人的にセブ島で学んで経験したことを表現したい。そして、ビジネスという形でタケさんやお世話になった方々に恩返しをしたいと思うようになりました。
そして約2年過ごしたセブ島を去ることにします。このとき35歳。
この2年間は間違いなく今までの33年間を何度も塗り替えられるぐらい濃厚な期間になりました。
8.帰国後に始めたのは・・・
【同じ境遇の人がたくさんいることを知った】
帰国して2年間学んだことを整理し、新たに始めたことはブログでの発信活動でした。
今までの私の経験や想いを書くことにしたのです。今書いているこのnoteのように。
一時期、毎日ブログを書いていた私は、マナブさんの影響もあってSEO対策(Google検索で自身の記事を上位に表示させること)が割と得意になっていました。
日を増すごとにブログを読んでくれる方が増え、それと同時に私のもとにたくさんの人生相談が寄せられるようになったのです。
全員とコンタクトを取り、テキスト、電話、対面で100名以上の無料相談に乗って来ました。
私の経験が少しでも彼らの役に立って欲しいとの想いからひたすら彼らの話を聞く毎日を送ったのです。
【私にできることはなにか】
もう30代後半に差し掛かっていく中で、若い人と同じようなフリーランス、ブロガーみたいな道に行くのは難しいと感じていました。
そこで「私にしかできないことはなにか」を徹底的に考え抜くことに。すると見えてきたことがありました。
それは、私に人生相談してくれる人たちに対してきっかけとなるようなチャンスを提供すること。
底辺だった私の人生が変わったきっかけ。それは紛れもなく海外に一歩踏み出したこと、セブ島留学、IT留学、そして海外で働いた経験でした。
9.大きな志を持ってスタートしたが・・・
【満を辞して新規事業スタート】
人生の恩人のタケさんに恩返しをしたい、お世話になったセブ島を盛り上げたい、そして私と同じような境遇の人にきっかけを作りたい。
大きな志を持って始めたのは、セブ島を中心としたIT留学に特化した留学エージェント「IT留学ドットコム」というサービスでした。
2019年末から本格的な準備のためにセブ島に入り、2020年の春ごろに正式ローンチを目処に動き始めました。
2020年2月。まだサービスは正式にローンチしていないものの、さっそく複数名のお問い合わせをいただき、初月の売り上げ見込みは数百万円に登りました。
そう思った矢先でした・・・
【コロナで留学事業は休業になり借金】
皆さんご存知のとおり、2020年3月。新型コロナウイルスの影響で全世界が混乱に陥りました。
フィリピンに関しても2020年3月16日から全ての語学学校が休校となってしまったのです。(※現在は再開しています)
もちろん留学業界は全滅です。私も例外ではありません。
私は全リソースを留学事業にかけていたので、数百万円の売り上げ見込みが消え、留学中の方への留学費用の返金なども重なりました。
そして夏頃には一時的に借金を背負うことになりました。
10.コロナショックから現在まで
【コロナ禍になったからこそ気づいたこと】
コロナで全ての仕事を失い苦悩を抱えていた頃、いろいろ声をかけてくださる経営者や仲間がいました。
教育関連、スポーツ関連、Web関連、動画関連、コーチングなど、さまざまなお仕事をいただき、なんとかコロナ禍の中でも生き延びることができたのです。
しかし、コロナを言い訳に自分自身の事業から目を背けてきた3年間でもありました。
正直な話をすると、コロナ禍になってからこれからの道に迷いました。
そりゃ、自分の全てを賭けてきた、人生を変えてくれた「留学」「海外」がなくなったのですから。やりたいことなんてすぐに見つかりません。
そんな中、2023年はもう一度原点に戻って
と自問自答を繰り返しました。
確かにコロナで留学事業は一度無くなったものの、海外や起業で経験してきたこと、学んできたこと自体は無くならない。
低学歴・低収入の20代。ニート・フリーター・ブラック企業で苦しんでいたところから人生を変えてきたことには変わりない。
私と同じような境遇にいる人にとっては「何か価値が提供できる」と信じてやってきました。
【Give&Giveの精神】
そして2023年になってある2つの答えに辿りつきました。
それはコロナ前に起業して結果が出ていた時にやっていたこと。
私がコロナ前に起業できたきっかけが上記の2つでした。
Webメディアで私のことを知ってもらい、そこから無料で人生相談に乗る。
同じような境遇で困っている人に無料で価値提供をしていると、回り回ってお仕事につながることが多かったのです。
人から何かをしてもらう前に、まずは自分のできることをする。
Give&Takeの精神。いや、Give&Giveで自分のできることをしていると最終的に意外なところから大きなリターンがあるものなんです。
見返りを期待せずに自分を必要としてくれる人のために、大切な人のためにまずは自分のできることをする。
私の原点はここにあったのです。
【私が読者のあなたにGiveできること】
私は海外留学、海外就職、起業を通じてたくさんの仲間に支えられてきました。
こんな出来損ないでも人生を大きく変えることが出来たのは、間違いなく皆さんのおかげです。
一生かけて恩返ししていきたいと思わせてくれる人たちでした。
たくさんの仲間たちに支えてもらった分、私も世の中に還元したい。
そういった想いで私のできることを考えました。
それは、無料で一人でも多くの人の相談に乗ること
ひたすら今自分のできることを続けていけば、読者様も私も何か見えてくるものがあると信じています。
【どんな人に相談して欲しいか】
このnoteをここまで読み進めてくれた方で、下記に当てはまる方はいませんか?
現在、私はキャリアやスキルアップのアドバイス、コーチングなどを仕事にしています。
人の相談に乗るプロとして活動させていただいているので、無料とはいえ、何か力になれるのではないかと考えています。
もちろん無理な勧誘などはありませんのでご安心ください。
せっかく最後までこのnoteを読んでくださる方に、まずは自分のできることをしていくのみです。
ぜひあなたの話を聞かせてくれませんか?
その時にぜひ簡単にこれまでの経歴や悩んでいることなど、自己紹介と合わせてLINEからご連絡いただけますと幸いです。
ぜひ私と一緒に人生変えていきましょう!!
よかったら下記もチェックしていただけますと嬉しいです!!
Twitter:@kouji_akou
Instagram:@kouji_akou
【最後に】
私はどん底から這い上がってきた経験を武器に、多くの人の「人生を変える」を実現し続けます。
私の残りの人生全てを賭けて、この沈みがちな日本社会を少しでも底上げしていきます!
いつかこのnoteを最後まで読んでくださった方と、一緒にこれからの明るい日本の未来を作っていけたらと思っております!
もし記事を読んで応援してくださる方は、お気持ち程度でサポートしてくださると嬉しいです!今後の活動費に充てさせていただきます!ありがとうございます!