
【私の生き様】高卒ニート・工場ハケンから海外ベンチャー・起業まで経験した順風不満帆な人生
こんにちは。赤穂(あこう)です。
唐突ですが、私は人生を大きく変えてきた過去があります。
私は生まれて長い間、格差社会の煽りを受け続けてきた半生。いわゆる社会の底辺でした。
しかし、30代半ばを機に環境が180度変わり、怒涛の海外生活を経て人生を変えることができたのです。
そんな私の半生から学んだことがあります。
人生諦めなければ誰だって可能性がある。
そうです。人は諦めなければ私のような落ちこぼれの凡人でも人生を変えることが出来ます。
まずはこの2万文字あるnoteを諦めずに最後まで読んでみてください。
最後まで読むのは大変かもしれませんが、あなたの人生に何か少しでも伝わることがあると信じています。
1.少し複雑な幼少期の家庭環境

【ダメおやじ日本代表】
まずは少しだけ父親の話をさせてください。
当時は父親も若かったのでしょうが、ひとことで言うと私の父親はダメおやじでした。
ほとんど記憶にはありませんが、覚えている範囲で父は以下のとおり。
・いつも朝方までテレビを見ていて昼間は寝ている
・その様子からどうやら仕事はしていない
・私が泣いていてもいつも「うるさい」と怒鳴られた記憶
・父親のいる部屋にはいつも大量のタバコの吸殻
・花札や麻雀セットなどが散乱しており賭博の形跡
・とにかくパチンコ中毒
・モラハラDVで家族を破壊
遊びに連れて行ってもらった記憶などもなく、私にとって父はただただ怖い存在でしかなかった。
まさに「ダメおやじ」そのもの。
そして私が4歳の頃。いよいよダメおやじと決別する時が。
【お前、もう一回骨折ってくれへんか?】
ある時、母が離婚の経緯を私に話してくれたことがありました。
普段からタバコ、ギャンブル、ろくに仕事もせずの父。ずっと我慢を強いられ、辛い結婚生活だったと想像がつきます。
そして、ある決定的な出来事が起こるのです。
それは母が腕を骨折した時のこと。母は医療保険に入っていたのでなんとか保険金が下りたのですが、ここからが悪夢の始まりです。
なんと、仕事もしていない父はそのお金を持ってパチンコに明け暮れるという暴挙に出ました。
そして、保険金はすべてパチンコで跡形もなく消えたのです。
パチンコに負けて帰ってきた父はムシャクシャしていたのだろうか・・・
ある衝撃的な一言を母に向かって吐いた。
「お前、もう一回骨折ってくれへんか?」
※父とはそれ以来会っていませんが、さいたま市で生活保護を受けているみたいです。
いまだに顔も名前も年齢も住んでる場所もわかりませんが、35年ぶりに父を探す旅に出てみようと思います。その様子はYouTubeやnoteで企画にしますので、気になる方はフォローしてお待ちいただけますと幸いです。
2.母子家庭で育つ

【10代の母と私と兄】
私は母が19歳の時に大阪で生まれ、さらに二つ上の兄がいます。母は若くして二人のシングルマザー。
そんな母は、私たちを育てるため高卒認定を取得後、美容専門学校に行き美容関係の仕事に就いたのです。
女手ひとつで家族を支える多忙を極めた母。もちろん私たち子どもに付きっきりでいることは出来ず、家にいないこともしばしば。
必然的に一人で過ごしことが多くなりました。
【道しるべを失った少年】
友人の家に遊びに行ったとき、友人の両親が一緒にゲームしてくれたり、友人の家でご飯を食べたりしたことがあります。
ふと
「お父さんっていいな。家族っていいな」
と思ったことがあります。でも、私の家には父はいないし、多忙の母。
「もし私の家に父がいたら・・・もっと家族でどこかに行ったりご飯を食べたり・・・」
しかしそんな思いも叶うはずがなく、父の大きな背中を間近に見ることなく育ちました。
そして基本的には嫌なことを避け、小学校6年生になる頃には何事にも熱くなれない、無気力な少年になりつつありました。
【転げ落ちて行く中学生時代】
中学生になると、無気力生活に拍車がかかります。
地理の授業と体育以外には何も興味を持たず、小学校時代にある程度あった学力は、みるみると地に落ちていきました。
そして本当は野球部に入りたかったものの、声出しの迫力と坊主にするのが怖くて諦めました。
ただ私の中学では、基本的にどこかの部活に所属しないといけないというルールがあり、一番サボれて楽だと噂の卓球部に入ることに。
もうここまで来るとあとは転げ落ちるだけ。
勉強は一切せず部活にもほとんど顔を出さずに、卓球部の友人の家や自宅でゲームやテレビばかり。そして町一番の不良にも目を付けられ、意味もなく殴られたりパシられたりと奴隷のような扱いも受けました。

そんなどんどん陰キャになっていく無気力中学生にも、高校進学の時期がやってきます。
【THE・どん底】

もちろん高校を選ぶことは出来ず、専願(単願)で偏差値30台の地元私立高校に行くことになりました。
入学した高校は野球部とサッカー部が強く、甲子園や全国大会に出るようなゴリゴリの体育会系で、ほとんどが男子という学校です。
もちろん陰キャ無気力学生の私はまったくノリについていくことが出来ず、日を追うごとにどんどん影を落としていきました。
ここでも体育会系部活の人たちから目を付けられ、ラグビーやサッカーの授業で削りに削られた覚えがあります。
当時の私は気付いていなかったですが、なぜか下手くそな私にボールがよく回ってきたのです。
面白かったんでしょうね。陰キャが一生懸命プレーしている姿が。もちろん今なら何をされていたかわかります。
そういえば記憶が曖昧なのですが、なぜか弁当を持っていない日々がありました。なので、いつもお昼ご飯は食べないか、数少ない友人におかずを一口もらっていた記憶があります。
当時はどういった家庭環境だったのか。あまり覚えていないし、気にも留めないぐらい思考停止していたのかもしれません。
こんな感じで、相変わらず勉強にも興味を持たず部活にも入ることなく、無気力で記憶が曖昧な高校生活が過ぎていきました。
身長184cmの高身長ながらも体重56kgガリガリの70年代アイドルみたいな髪型。瓶底メガネをかけ、身だしなみも一切気にしない陰キャで無気力な私。

もちろん勉強も一切しないので学力も学年でほぼ最下位。
これからの進路も定まらないまま、イケてない高校生活もいつの間にか残り1年を切っていました。
【根強い格差が残っている現代社会】
前もって言っておきますが、家族とは基本的に仲は良いです。もちろん大変な中で私たち兄弟を育ててくれた母のことは尊敬しています。
しかし我が家庭は世間との格差が明らかにあったはず。
経済的格差、教育格差、情報格差、、、
育つ家庭環境によってこの辺りは大きく左右されます。
もちろん家族のせいにするつもりは1ミリもありませんし、基本的には人生におけるすべては自己責任だと考えています。
ただ幼少期から学生時代の私には、この格差や環境をひっくり返すほどの力や情報を持ち合わせていませんでした。
※これは私の家庭だけに限った話ではなく、現代社会での大きな問題になっています。日本政府を含めた日本人すべての責任なような気もしています。
【進路は閉ざされた】
高校3年生のときに、何かよくわからない全国模試みたいなものを全校生徒で受けたことがあります。(学生時代の記憶が曖昧なので何かはわかりません)
そのときに、まぐれで学校内でちょっといいスコアが取れてしまったのです。もちろん底辺高校なので全国で見たら平均以下ですが。
そこでずっとモヤがかっていた脳内が少し晴れた気がしました。
「どうせ大学には行けない」と興味を持つことすらしなかった私が、今後の進路について少し考えるようになったのです。
そして先生と母を交えた運命の三者面談が行われます。
結果は「学力も学費も足りません。就職しましょう」とのことでした。
なんか淡い期待を抱いていた自分が馬鹿らしくなって、また心を閉ざし無気力に戻ってしまいました。
そして残りの数ヶ月も記憶が曖昧なまま高校生活は終わり、気がつけばいつの間にか社会に出ていたのです。
※今となっては無理して大学に行かなくてもよかったなと思っています。同調圧力、惰性で大学に行っても、別にやりたい学問もなかったので。行けたとしてもどうせFランと呼ばれるような大学に行って、多額の奨学金という名の借金を背負うだけでしたから。
3.高卒ニートから工場派遣に

【ひとりで行動する勇気がない】
どうやって高校を卒業して社会に出たのかは覚えておらず、気づけばニート生活を送っていました。
偏差値30台の高校をかろうじて卒業だけした、無気力陰キャニートの出来上がりです。過去の話ですが、我ながら「どうしたんだ?何があったんだ?」と言いたくなります。
そして高校を卒業して早半年。相変わらず外の世界に出ることが怖く、ほぼ引きこもりニート状態でした。
コンビニにすらひとりで行けないビビリの私にとって、誰ひとりも知らないところで働けるはずなんてありません。
しかし、さすがに母にも「働け」と言われ始めました。
【いやいや働くことになった19歳の私】
ひとりで働くのが怖くて逃げていた私も、いよいよ働くときが来ました。
小学校時代の友人が工場派遣のアルバイトをしているのを知って、その工場で働かせてもらうことになったんです。
社会に出てはじめての長期間の仕事。やる気はないのでサボりつつも、なんとかそれなりにはこなしていました。
でも相変わらず夢も希望もないイケてない工場派遣。ちょっと気が緩めばすぐに無気力ニートに転落していたでしょう。
なんのために生きてるんだろう。変わらない毎日にふとそんなことを思い始めました。
【20歳になった私にとんでもない衝撃が】
私が働いていた工場は世界的にも有名な電機メーカー。その工場だけでも社員は1,000名以上いました。ほとんどが男性か既婚40代以上のパート女性。
そんな人間模様の工場でもある楽しみがありました。社員食堂に行くと毎日美人なお姉さんたちが挨拶をしてくれるのです。
その人たちは、各大手保険会社の外交員の方たち。
男性が多い職場なので、こぞって各保険会社が綺麗どころを送り込むという戦略(多分)。
その中でも一人飛び抜けた美人がいました。
日○生命の新卒の女性(Tさん)が、長谷川京子と小倉優子を足して2で割ったかのようなとびきりの美人です。
どこかで無謀とは分かっているものの、毎日その女性に会うのが楽しみで仕方ありませんでした。
こんなイケてない私にも毎日笑顔で話しかけてくれ、どこかで淡い期待を抱く日々を送ったのです。
【工場派遣3年目にしてまさかの展開が】
そして工場派遣も3年目に突入し、相変わらず夢も希望もない私は派遣会社からある打診を受けます。
「もう長いしまじめにやってくれてるみたいなので、あこうさんもうちの正社員に興味ありませんか?」
この話を聞いたときは嬉しくてたまりませんでした。
今まで誰かに認められることなんてなかった私が、始めて世の中から必要とされたような感覚だったのです。
「はい!前向きに検討させていただきます!」
もちろん二つ返事で答えました。
しかし、もっと私には重要なことがあったのです。
そう。例の日○生命Tさんのことです。
陰キャなりのアプローチは続けているものの、イマイチ釣れない"僕だけのマドンナ"(当時の月9で長谷川京子がヒロイン)が気がかりでした。
そこでどうやったらTさんに振り向いてもらえるかを考えることにしたのです。
【選んだ道は・・・】
日○生命のTさんに振り向いてもらえるか基準で今後のことを考えるのもどうかと思いますが、正社員になるメリットをいろいろ考えてみた結果。
派遣会社の正社員になったところで、夢も希望もないヒョロガリ陰キャには振り向いてもらえないことは明白でした。
そして、、、
「申し訳ありませんが、正社員は辞退させていただきます。と、同時に派遣自体も辞めさせていただきたいです」
結局、派遣会社の正社員登用を断ることにしました。ついでに工場での派遣も辞めることにしたのです。
そして工場から去る日。日○生命のTさんを呼び出しました。
もちろん振り向いてもらえるはずもなく木っ端微塵に玉砕されたのですが、なにか吹っ切れた感じがしたのです。
始めて自分の意思で想いを伝え、これからの道を選んだような気がしました。
どうやったら美人に振り向いてもらえるイケてる男になれるか。笑
そんな想いが沸々と湧いてきたのです。
このとき21歳。もう20年ほど前の話です。
4.私は地図が好き

【祖父からの誕生日プレゼント】
そういえば私は小学校時代から、なぜか祖父の車の中にある「関西道路地図」というものを眺めるのが好きでした。
当時はカーナビがなかったので、どんな車にも道路地図が載せてあったと思います。
それを家の中に持ち込んで、実際に地図の上をドライブしている気分になって四六時中、地図をなぞっていました。なんなら学校にまで持っていって眺めていました。
そして誕生日の日の朝。起きると枕元になんと関西だけではなく日本の全てが載った「全国道路地図」があったのです。
祖父からの世界最高の誕生日プレゼントでした。
車に乗れない小学生に「どんな誕生日プレゼントだよ」って思うかもしれませんが、僕もそう思います。笑
【地図にこの世の全てを捧げた小学生】
小学校4年生のときに地理の授業が始まって、ますます地図好きに拍車がかかります。
もう地図好きなんてものじゃなく、地図オタク、地図マニアの域です。
小学校の時はすべての都道府県と県庁所在地はもちろん、ほぼ世界すべての国旗や国名、首都を当てることが出来ました。
地理以外の授業中でもお構いなく地図帳を広げて、先生に教科書の角で何度も殴られました。笑
なぜか他の教科にはまったく興味が湧かないのに、地理の授業だけは楽しくて仕方ありませんでした。
多分、小学2年生のときに母の会社の慰安旅行でハワイに連れて行ってもらったのが要因なのかもしれません。
今まで家族でどこかに行くという経験が少なかったため、さぞかし刺激的で印象に残ったのだと思います。
おかげさまで学生時代はずっと地理の成績だけ合格点で、あとの教科は赤点のオンパレードでした。
【郵便物の中から光が見えた】
工場を辞めた私はすぐに友人が働いていた郵便局でのバイトを始めました。
そこで配達物を配達順に並び替える作業があるのですが、そのときにたまたま郵便物の中に「トラジャル旅行ホテル専門学校」という文字を発見。
気になったので学校名だけメモして、家に帰ってネットで調べてみました。すると、なんと旅行会社に就職するための学校だったのです。
地図オタクの私には衝撃的でした。旅行会社は大学に行かないと入社できないと勝手に思い込んでいたし、夢なんてどうせ自分が叶えられるはずがないと心の奥底にしまい込んでいたので。
それからはその学校に行くためにバイトを掛け持ちして、居酒屋やボウリング場、カラオケ屋など、陰キャの私はどこに行ったんだ?と思うぐらいの陽キャだらけのバイト先で働き始めたのです。
そしてなんとか200万円近く貯め、さらに奨学金200万円以上借りて旅行の専門学校に入学しました。
【念願の旅行会社に入ったものの・・・】
22歳でトラジャル旅行ホテル専門学校の旅行科に入学して24歳で卒業した私は、大阪・梅田のとある旅行会社に契約社員として就職することに。
しかし、まさかここから悪夢が始まるとは思ってもいませんでした。
・基本給117,000円
・残業代なし
・帰宅する頃には日付が変わる
・仕事が終わらずサービス休日出勤
・トラブルがあればサービス休日出勤
・パワハラ、セクハラ、モラハラの毎日
などなど。
入社してからすぐに、先輩たちから上記のような会社の劣悪な環境を聞かされました。先輩と言っても私より年下が多く、多分彼らからしても年上の私に愚痴を言いやすかったのだと思います。
入社して1週間後。沖縄にて新人研修があったのですが、私たち同期は先輩たちを救いたいという想いから、本部長に「大阪支店の労働環境がやばい」と伝えました。
すると研修中に大阪支店へ本社から通達が行き、研修が終わって関西空港に着いた頃、私の携帯に上司から電話がかかって来たのです。
「おい。お前たち。何を言ったんや?今すぐ寄り道せず支店に帰って来い」
明らかにお怒りモード。大阪支店に帰ると、支店内の空気が一変していました。
各課の役職者、上司たちから厳しい眼差し。大阪支店についてすぐに支店長室に連れて行かれ、こっぴどく叱られました。
そして、数ヶ月もしないうちにほとんどの同期は辞めてしまい、なんとか残った私には、容赦無くパワハラ、モラハラが行われたのです。
営業課に配属されていた私は、沖縄から帰ってきてすぐに一番立場の弱い課に左遷され、その後は上司たちから総スカンを喰らいました。
意味もなく怒鳴られみんなの前に立ってラジオ体操させられたり、ずっと上司に無視され続け席の前に立たされたり。
入社してまだ2週間しか経ってないのに、もうすでに窓際社員に。でもすぐ辞めるのは負けた気がして嫌だったので、会社や上司を心のなかでにらめつけながら仕事を続けました。
「こいつらゼッタイ見返してやる」と。
でもそれ以上に大事だったのは、上司への復讐でもなんでもなく、お客様の方向を向いて大好きな地図を見ながら旅行を提案するのがたまらなく好きだったのです。
【大人になって実際に地図の場所に行きたくなった】

1年目から総スカンを喰らい続けながらも見返してやるという意地と、お客様の喜ぶことなら何でもするという想いで必死に働く毎日。
そして、2年半がたった頃。所属課の上司から
「そろそろ主任になることも考えておけよ」
と言われたのです。
そういえば周りの反応も少しずつ変りつつありました。
一生懸命働く姿が認めてもらえたのか、徐々に話しかけてもらえるように。
それと同時に何か肩の荷が降りた気がしたのです。
あぁ。やっと見返すことができたのかな。
1年目の初っ端から出遅れまくった(自業自得)けど、嫌なことから逃げずに戦い続け、そしてお客様に向き合い続けてきた結果だ。
そしてそんな想いから上司にあることを伝えました。
「主任の話はありがたいのですがお断りさせていただき、会社自体辞めさせていただきます」
気づけばもう27歳になっていました。
そろそろ将来のことも考えないといけないけど、今の会社では未来が見えない。何か新しいことはじめないと。
そこで出てきたのが「実際に昔から地図で眺めていた場所に行きたい」という想いでした。
【英語力ゼロでヨーロッパ21カ国ひとり旅】

私は中学校の頃からずっと無気力人間だったため、中学から授業が始まった英語に関してはからっきしダメでした。
どれぐらいやばいかというと、be動詞がわからないし文型とか品詞とかも何も知らない状態。
そんな英語力でなぜか「地図で眺めてた場所に行きたい」という想いから、とりあえずスイス行きの航空券だけ握り締めて成田空港へ向かった。
しかし宿は取っておらず、さらに48日間でヨーロッパ21ヶ国をひとりで旅をするという無計画さ。
案の定、スイス・チューリッヒの空港に着いたものの、英語が読めないし電車の乗り方もわからず、空港から2時間出られないという幕開けでした。
その後もトラブル続きで、財布をなくして所持金10円で48時間ご飯を食べれず野宿したり、コンタクトを紛失してのび太くん状態になったり。
旅にトラブルはつきものというが、異国の地で英語力ゼロであれば尚更トラブル三昧なのは想像が容易い。
そんな中で最終的には48日かけてヨーロッパ21カ国をひとり旅し、ひと回りもふた回りも成長した気持ちで日本に帰ってくることができたのです。
5.二度目のどん底へ

【現実と理想のギャップに苦しむ】
日本に帰ってきた私は、調子に乗って何者かになったかのような気でいました。
「私は世界を見てきたんだ。世界にも目を向けているんだ」
そんな想いもどこかに持ちながら日本では転職活動をしました。
しかし、現実はそんなに甘くありません。ビジョンもやりたいこともハッキリとしていない私はことごとく不採用になり、どんどん無気力に戻っていきました。
海外で経験してきたことなんて、1ミリも認めてもらえなかったですし、理想を語っているというか、ただの現実逃避でしかなかったのかもしれません。
結局、転職活動のペースはどんどん落ちて行き、いつの間にか引きこもる日々が始まりました。
【再びニート生活へ】
ヨーロッパから帰ってきて半年を過ぎた頃。もう転職活動をほぼ行わなくなっていた私は、昼夜逆転のニート生活を送っていました。
派遣などで働いたこともあったのですがまたニートに戻ったりと、さらに1年ほどうだつの上がらない日々。
「もう28歳。何をしてるんだか」
そんな焦りを感じながらも、一度堕落してしまった現状を抜け出せずにいました。
今となってはわかるのですが、もし当時の私にコーチがいたら間違いなくこんなことにならなかったと思います。
【恐る恐る足を踏み出した先には泥沼】
そして29歳が迫ってくるころ。私は再び地元の工場派遣として働きに出ることに。家からも通いやすく基本的にはマニュアルに沿った単純作業だったので、すぐ仕事にも慣れていきました。
高卒で入社した10代の正社員たちと中年の派遣社員、40代〜60代の上司たちで構成されている職場。私はギリギリ20代だったので職場では比較的若いほう。それなりに可愛がってもらえてすんなりと職場に馴染みます。
しかし、まさかこれが泥沼生活の始まりとは思ってもいませんでした。
【私は井の中の蛙だが、大海を知っている】

ヨーロッパを旅したり旅行会社で働いてきた経験がある私は、工場の中ではまだ経験豊富な部類でした。
同僚の派遣社員たちは、高卒、中卒ばかりで、今までニートやパチプロ、フリーターで転々など、決して経験豊富でない人も多い。もちろん海外に行ったことすら無い人がほとんど。
彼らの話題の中心は、パチンコ、タバコ、酒、メイド喫茶、風俗、スマホゲーム、ア○ウェイ、楽して稼ぐ方法など。
高卒上がりの正社員の子たちも彼らにそそのかされ、みんな上記のどれかにはまっていくことに。
さらにサボりや遅刻は日常茶飯事。意識が低く損得勘定ばかりでものごとを判断する人が大半を占めていました。
ハッキリ言って夢や希望なんてあったもんじゃない。私はそんな職場環境を徐々に嫌うようになっていきました。
【日常と非日常】
ちなみに工場の勤務形態は三交替勤務で、夜勤→遅番→早番→夜勤といった感じで毎週シフトが変わる仕組みです。
不規則な生活が強いられ体調管理が難しく、平日の仕事終わりはいつも疲れてだらだら過ごしていました。
元をたどればやはり私も生粋のニート気質。こんな職場環境に嫌気がさしつつも、なかなか現状を打破できない「日常」がそこにはあったのです。
そんな望まない絶望的な「日常」を送りながらも、ギリギリのラインで自我を保つ「非日常」体験がありました。
それは「ひとり旅」です。
ちなみに大手企業の工場勤務でしたので、1週間から10日間ぐらいの長期休暇が年に複数回ある職場でした。
地図好き、旅好きの私は、長期休暇があると決まって国内外をひとりで旅していました。それは工場の「日常」では絶対に出会えない人や景色と出会える「非日常」からです。
旅に出るといつも決まって
「工場派遣を早く辞めて世界に飛び出したい」
と思うようになりました。
しかし、旅から帰ってくるとまたいつもの日常が待っている。これからどのように行動していけばいいのか。
そんな日常と非日常のギャップに悩まされる日々が続き、なかなかやりたいことも見つかりませんでした。
【いよいよ決断のとき。人生の分かれ目】

相変わらず未来が見えない私立ちにとって、入社して4年目でまたと無いチャンスがやって来ました。正社員登用試験です。
腐っても大企業の正社員です。給料はそこまで高くないけど、福利厚生はしっかりしているし、非正規雇用よりも安定した生活が送れるようになるのは明白。
もちろん周りの人たちは正社員試験にチャレンジし、何名か正社員になるものも出てきていました。
そして私も流されるように正社員試験にチャレンジし、とりあえず合格してしまったのです。
しかし、正社員の話や昇進の話が来る度に断ってきた私は、ここでも
「本当に人生このままでいいのか?」
と疑問を持ちます。
既に32歳。もしかしたら人生でもう二度と正社員になるチャンスは無いのかもしれない。でも死んだように毎日を過ごすのも耐えがたい。
どうしよう・・・
そしていよいよ上司に伝えるときが。
「すみません・・・やっぱり正社員になるのは辞めておきます」
結局、正社員を辞退するという道でした。昇進や正社員の話をいただいて辞退するはもう3回目。
これには工場中から疑問の声が。そりゃそうです。ロクな学歴、職歴がない派遣たちが多く集まった職場。それが大手企業の工場で正社員になれるなんて、私たちにとっては願ってもないチャンス。
正社員を目指してやってきている人がほとんどの中で、せっかく受かったのに辞退するやつがいるなんて信じられないでしょう。
工場内ではかなり物議を醸しましたが、私に未練はありませんでした。
【33歳の工場フリーターが次に選んだ道は】
とはいえ明確にやりたいことがあるわけでもなく、とりあえず後輩が独り立ちするまでその工場で働き続けることにしました。
「とにかく大海を知りたい。どんな形であれ海外に出たい」
漠然とした気持ちでしたが、退路を絶った私は振り返ることなく未来を見始めていました。
すると、ある日なんとなくネットサーフィンしていたら衝撃的な文字が飛び込んできたのです。
「フィリピン留学」
なんだこれは。
初めて聞く言葉でした。
「治安は?留学費用は?英語力ゼロでも大丈夫?」
いろんな不安が入り混じりながらも、毎日仕事から帰って来ては寝るギリギリまでパソコンにかじりつく日々。
21歳のときに郵便物の中から「トラジャル旅行ホテル専門学校」の文字を見つけたときぐらいに、衝撃的でワクワクしました。
毎日ネットで調べていくうちに、すでに頭の中では決まっていました。フィリピン留学に挑戦してやると。必ず英語を話せるようになって、人生逆転のきっかけをつかむんだ。
今考えると抽象的でビジョンも何もないですが、当時の私にとっては行動するのに十分すぎる材料になりました。
【ドリームキラーの存在】
いよいよフィリピン留学に行くことが決まり、上司や同僚に夢や目標の類を語り始めました。
みんなさぞかし応援してくれるんじゃないかと思っていましたが、それは一部の仲良い人たちだけだったのです。
この工場でしか働いたことのない40代以上の上司や、夢も希望もない同僚たちは、下記のような言葉を投げつけてきました。
上司A「フィリピン行ってフィリピンパブでも開くの?笑」「フィリピンに彼女作りに行くんやろ?」
上司B「辞めたら長期連休やな。まあ死ぬまでずっと連休になるんちゃうか?笑」
同僚C「これからどうするつもりなん?もったいない。ここ辞めたら俺らなんてどこも行くとこないで?」
冗談のつもりで言ったのかも知れませんが、井の中の蛙たち、いや、ドリームキラーたちにとっては確実に理解しがたい選択だったのでしょう。
確かに彼らにとっては、正社員を蹴って夢を語り行動しようとしている私は、少々都合の悪い存在だったのかもしれません。
彼らは小さい頃持っていた夢の類を何かしらの理由をつけて諦めてきたのですから。
夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれる。
※えんとつ町のプペルより
まるで私の働いている工場は日本の縮図でした。
しかし、逆に力になりました。まさにネット上のアンチのようです。笑
そして2016年7月20日。5年以上働いた工場とやっと決別することができました。
6.人生を変えるフィリピン・セブ島留学へ

【選んだ道のりは決して楽ではない】
2016年7月23日。あと2ヶ月後に34歳になるという私は、工場をやめた3日後にフィリピン・セブ島に渡航していました。
相変わらずbe動詞もわからない中で3か月間の留学生活がスタート。もう待ったなしです。
そして入寮の日にはすでに数名の日本人とも仲良くなり、順風満帆な留学生活が待っていると思っていました。この後に待ち受ける道のりがとてつもなく険しいなんて知る由も無く。
翌日、陰キャをいつの間にか卒業していた私は、語学学校の同期(バッチメイト)である新入生たちにどんどん話しかけていきました。
明るくて海外生活にも慣れているヤツ。バッチメイトにはそんな認識をしてもらえてたと思います。しかし、そこが私の留学生活のピークでした。
初日の午前中に行われた30名ぐらい参加した留学オリエンテーション。当たり前ですが、フィリピン人講師によってすべて英語で行われます。
まったく英語が聞き取れない私はどんどん不安になっていき、こっそり横の人に助けてもらっていました。
そして、まさかの英語で自己紹介をする流れになったのです。
もう終わりです。まったく何を話せばいいかわかりません。だってbe動詞もわからないのですから。
そしていよいよ私の番。あまりに話せないのを見かねてフィリピン人の先生が質問をして助けてくれました。
しかし、その質問がまったく聞き取れないのです。
周りからは失笑され、一気に目の前が真っ白になっていきました。
その後に4技能テスト(Speaking/Writing/Listning/Reading)があったのですが、緊張とストレスがMAXに達しました。この世の終わりかと思うぐらいの腹痛に襲われ、記憶が薄れていく中でテストとオリエンテーションが終了。
翌日・・・
テスト結果はバッチメイト(同級生、同時期入学生)60人の中でお見事最下位。be動詞もわからないならそりゃそうか。
4技能それぞれが1.0〜10.0点で評価される。
結果は以下のとおり。
・Writing→1.0(すなわち0点)
・Speaking→1.2(ほぼ0点)
・Listening→2.0(選択式なので0点の方が難しい)
・Reading→3.0(こちらも同様)
総合点は10段階でLEVEL1(Absolute biginner=完璧な初心者)という散々たる結果。
「これは来る場所を完全に間違えたかも、、、」
結局、実力テストで見事な大敗を喫した私は完全にお尻に火がついた。大口叩いて工場辞めてきて、やっぱり思ってるほど甘くなかったことを実感。
みんなが勉強に遊びに充実した日々を過ごす中で、基本的に誘いを断り続けストイックに英語学習に取り組む日々が始まります。
そういえば、高1の女の子にいつも英語を教えてもらってました。自分の半分以下の年齢の人に英語を教えてもらう。もうプライドなんかとっくに捨てていました。

写真は2か月目ものですが、最初に比べると結構伸びました。3か月後の卒業する頃には先生と日常会話が少しできるようになっていました。
【井の中の蛙、本当の大海を知る】
そして、セブ島留学で英語学習のほかにもう一つ大切な体験をすることがでいました。
それは留学生たちとの出会いです。
基本的には私のようなバックグラウンド(33歳の何もかもが底辺)を持った人はいません。
大学生や社会人の中でも、割と高学歴、輝かしい経歴を持った方や、経営者とたくさん会うことができました。
決して工場にはいないような人たちです。
いろんな人の話を聞いていくうちに、どんどん世界が広がっていく感覚がありました。数日前まで工場フリーターしていた私にとっては別世界です。
7.セブ島で運命が変わる

【留学中に運命を変える女性に出会った】
1ヶ月ぐらい経つと、語学学校にいる日本人はほとんど見たことある人ばかりになっていきます。
しかしある日、語学学校内では見たことのない女性Mさんを見かけたのです。
普段ならそこまで意識しないのですが、Mさんは群を抜いて美人で上品そうな方だったのですぐに気づきました。
たまたま話す機会があったのでいろいろ聞いてみました。
私「いつ入学したんですか?」
Mさん「私は普通の留学生ではないんです」
私「え?どういうことですか?」
Mさん「今は旦那の仕事の関係で親子留学に来ています」
私「そうだったんですね。(旦那さんも子供もいるんかーい)」
さらにもっと深く話を聞くと、旦那さんは日本で有名な留学エージェントを経営されていて、親子留学の事業展開のためにMさんが授業を受けているやらなんとやら。
最近までポンコツ底辺の私にとって、なんのことやらわからなかったのですが、とにかく旦那さんがすごい方というのはわかった。
そして数ヶ月後、このMさんが言ってくれた一言が今後の人生を大きく変えることになるなんて・・・
【ひとりの若手起業家に出会う】
3ヶ月の留学生活も終盤に差し掛かった頃。
Mさん「赤穂さん、留学終わったらどうするの?」
私は正直迷っていました。仕事で使えるには程遠い英語力。そして実際に何がしたいかはまだ決まっていない。
赤穂「東京で就活しようと思ってたけど、セブ島にはおもしろい人がたくさんいるし、もう一回留学に来るかどうか迷ってる」
するとMさんがセブ島で起業してる若くて面白い人を紹介してくれると言ってくれたのです。
その方は、セブ島IT留学という英語でプログラミングを学べる語学学校をセブ島で初めて立ち上げた若干26歳の若手起業家。
のちに人生の恩人になるKredo IT Abroad Inc.の横田猛夫氏(タケさん)でした。
横田猛夫氏
国費でアフリカ・ウガンダのマケレレ大学院に留学し、そのあとセブ島のQQ Englishに語学留学。そのままQQ Englishのインターン→正社員→マネージャーと、メキメキと頭角を現し、社内でIT留学事業を立ち上げる。
2016年8月にフィリピン政府公認のセブ島IT留学「Kredo IT Abroad .Inc」を、セブ島No.1のビジネス街「セブITパーク」内に設立。2019年12月には「セブITパーク」の最新ビルに校舎を移転し、生徒数が200名規模に急成長している。セブ島の若手経営者の中で実力No.1と言っても過言ではない。
※2019年12月の情報
後日、その方と会うために指定された場所は、とあるビル最上階のオフィス。
横田氏には、これからの時代に英語×ITがなぜ必要なのか?を話してもらった。
印象に残ったことは
・これからの時代は当たり前にITと英語が必要になってくるということ
・英語でITを学び最新の情報をキャッチアップして自身の市場価値を高める
・若干26歳の海外起業している横田氏のや考え方、理念、生き方が魅力的だった

ITというのは無縁だったけど、とにかくこれからの時代に必要そう。
そしてタケさんの半生や考え方がとてつもなく面白く、何か惹かれるものがありました。
「よし、この横田猛夫という人に賭けてみよう」
もちろん英語も全然話せないですし、英語でプログラミングを学ぶなんて持ってのほか。しかし、タケさんの近くで学びたい、新しい挑戦をしたい。その一心でIT留学することに決めたのです。
【ITは異次元の世界】

いよいよ2016年12月より2ヶ月のKredo IT留学がスタート。
正直かなり難しかったですが、今まで自分のパソコンすら持っていなかった私の世界は、ITの可能性により大きく広がりました。
そしてやはり予想的中。タケさんの周りにはたくさんの優秀な起業家や有名人がいたのです。国内外から多くの人がタケさんに会いに来ます。
時には授業そっちのけで起業家の方に挨拶したり、放課後にも起業家や現地で働いている人のところに何度も足を運びました。
もちろんIT留学に来る生徒さんも意識の高い起業家やサラリーマン、学生さんが大半でした。
2ヶ月のIT留学によって得たことは、ITにより世界が広がり、そして今までとは比べ物にならないぐらいの人との出会いを手に入れることが出来たのです。
まさに異次元の世界。
そしてIT留学が1ヶ月経った頃、私はもう一度セブ島に戻ってくると決めていました。次はいよいよセブ島現地で働くつもりで。
【セブ島IT留学中に現地での仕事が決まる】
私は常日頃からタケさんとMさんに「セブ島で仕事したい。自分でビジネスやれたら最高」と伝えていました。すると二人がある人を紹介してくれました。
タケさんのビジネスパートナー、そしてMさんの旦那さん(Yさん)だったのです。
Yさんはちょうどセブ島で旅行事業を始めようとしていました。そしてたまたまMさん、タケさんの知り合いである私が過去に旅行会社で働いた経験がある。
Yさん「二人の知り合いだし、もしよかったら一緒にやりましょう」
と声をかけてくれました。
もちろん二つ返事で快諾した私は、思わぬ形で3度目のセブ島に来ることが決まったのです。念願の海外で仕事をするという夢のような出来事がおきました。
【海外スタートアップで働くということ】
Yさんとセブでの旅行事業立ち上げメンバー(外注さん)に、もうひとり見たことがある名前がありました。
知っている方も多いとは思いますが、バンコク在住のマナブさん(マナブログ運営者、SNS総フォロワー100万人以上)という方です。
実はタケさんとマナブさんは同い年の友人で、過去にフィリピンで有名なWebメディアを立ち上げた仲間だったのです。
その繋がりでマナブさんと一緒に仕事をさせてもらうことになりました。
数ヶ月前まで工場フリーターだった私からすると、世界が変わり過ぎてもう何がなんだかという感じ。
そんな刺激的でワクワクする毎日。しかし、そもそもロクな仕事をしてこなかった私は、ほとんど事業立ち上げで活躍することができませんでした。
思ったより事業は伸びず、今後の進路を考えざるを得なくなった私は、大人しく負けを認めて日本に帰ろうとしていました。
すると、タケさんが見かねてなのか、Kredoに引き入れてくれたのです。それも第一号の正社員として。
またまた思わぬ形でスタートアップにジョインさせてもらえ、そこからは何がなんでも恩返しするつもりで働きまくりました。
それでもやはり結果が出せない日々が続き、必死に深夜まで勉強と仕事の毎日を1年続けたのです。
【33年間をすべて塗り替える濃厚な2年間のセブ島生活】
セブ島ではマナブさんをはじめ、有名人、芸能人、日本を代表する会社の創業者など、たくさんの人たちと交流を持たせてもらうことができました。
皆さんのおかげで、工場時代とはまったく違う環境で毎日を過ごすことができたのです。
まだまだ満足行く結果を出せたとは言えませんが、個人的にセブ島で学んで経験したことを表現したい。そして、ビジネスという形でタケさんやお世話になった方々に恩返しをしたいと思うようになりました。
そして約2年過ごしたセブ島を去ることにします。このとき35歳。
この2年間は間違いなく今までの33年間を何度も塗り替えられるぐらい濃厚な期間になりました。
8.帰国後に始めたのは・・・

【同じ境遇の人がたくさんいることを知った】
帰国して2年間学んだことを整理し、新たに始めたことはブログでの発信活動でした。
今までの私の経験や想いを書くことにしたのです。今書いているこのnoteのように。
一時期、毎日ブログを書いていた私は、マナブさんの影響もあってSEO対策(Google検索で自身の記事を上位に表示させること)が割と得意になっていました。
日を増すごとにブログを読んでくれる方が増え、それと同時に私のもとにたくさんの人生相談が寄せられるようになったのです。
全員とコンタクトを取り、テキスト、電話、対面で100名以上の無料相談に乗って来ました。
私の経験が少しでも彼らの役に立って欲しいとの想いからひたすら彼らの話を聞く毎日を送ったのです。
【私にできることはなにか】
もう30代後半に差し掛かっていく中で、若い人と同じようなフリーランス、ブロガーみたいな道に行くのは難しいと感じていました。
そこで「私にしかできないことはなにか」を徹底的に考え抜くことに。すると見えてきたことがありました。
それは、私に人生相談してくれる人たちに対してきっかけとなるようなチャンスを提供すること。
底辺だった私の人生が変わったきっかけ。それは紛れもなく海外に一歩踏み出したこと、セブ島留学、IT留学、そして海外で働いた経験でした。
9.大きな志を持ってスタートしたが・・・

【満を辞して新規事業スタート】
人生の恩人のタケさんに恩返しをしたい、お世話になったセブ島を盛り上げたい、そして私と同じような境遇の人にきっかけを作りたい。
大きな志を持って始めたのは、セブ島IT留学に特化した留学エージェント「IT留学ドットコム」というサービスでした。
2019年末から本格的な準備のためにセブ島に入り、2020年の春ごろに正式ローンチを目処に動き始めました。
2020年2月。まだサービスは正式にローンチしていないものの、さっそく複数名のお問い合わせをいただき、初月の売り上げ見込みは数百万円に登りました。
最高のスタートが切れる。やっと想いが形にできる。
そう思った矢先でした・・・
【コロナで留学事業は休業になり借金】
皆さんご存知のとおり、2020年3月。新型コロナウイルスの影響で全世界が混乱に陥りました。
フィリピンに関しても2020年3月16日から現在に至るまで全ての語学学校が休校となってしまったのです。そして2021年10月現在もフィリピンへの渡航禁止は続いています。
もちろん留学業界は全滅です。私も例外ではありません。
私は全リソースを留学事業にかけていたので、結局留学費用の返金なども重なって夏頃には一時的に借金借金を背負うことになりました。
10.コロナショックから現在まで

【留学事業の見通しはまったく立たず】
そんな状況からか、いろいろ声をかけてくださる経営者の方も何名かいらっしゃいました。
国内留学事業やオンライン英会話などの教育事業を提供してる方からもお仕事をいただけたり。
しかし、最終的には私が海外で体験したような震えるようなものには出会えなかったのです。
そうなると、お金を稼ぐためだけに仕事をしてしまいそうな自分が嫌で、結局どれもお断りさせていただくような形になりました。
【コロナになったからこそ新たに出会えたこと】
正直な話をすると、コロナ禍になってからこれからの道に迷いました。
そりゃ、自分の全てを賭けてきた、人生を変えてくれた「留学」「海外」がなくなったのですから。やりたいことなんてすぐに見つかりません。
「コロナ禍の中で自分のやりたいことってなんだろう」
2020年夏ごろから自分と向き合う時間がかなり増えました。
そんな中で出会ったのが「コーチング」と「筋トレ」です。
まさにどちらも自分と向き合うもの。
まだどちらもそこまで経験を積んでいるわけではありませんが、今やりたいこと、熱量を注いでいるものです。
人生を変えてくれる。「筋トレ」と「コーチング」にはそんな力があると思っています。
11.最大のピンチである今思うこと

【コロナ禍においても守りに入らない】
正直、まだピンチを脱したとは思っていません。
経済的にも仕事的にもまだまだ不安定。そして今熱中し始めているものも始めたばかり。
しかし、ここでまた工場派遣に戻るわけにはいきません。基本的には守りに入らずに勝負していくことにしました。
正直、将来的な不安はあります。親も心配しているでしょうし、39歳にもなって何をしているんだ 。とも思います。
でも今まで散々お金や安定のために夢を見ないフリして、やりたくもないフリーター生活を送ってきました。
ここでまた生活のためだけにバイトに出たら、いよいよ這い上がって来れなくなるんじゃないか。
だったらギリギリまで勝負しようじゃないか。そんな気持ちで日々過ごすことにしました。
【日本人であるという利点を活かすべき】
今、私が住んでいるのは日本。フィリピンじゃありません。
もしフィリピンで無職だったら死活問題ですが、日本は最悪ホームレスになってもなんとか生きていけるし生活保護だってあります。(もちろん受ける気はありませんが)
それぐらい治安が良く、安定した国です。お金がなくなったぐらいで死にはしません。何度だって這い上がってこれる。
そういう意味では恵まれた国に住んでいるんです。
逆になんとでも生きていけるという安心から、昔の私は挑戦ができなかったのも一つの学び。
今となっては、日本という国の利点を最大に活かしてギリギリまで挑戦しようというのが今の考えです。
【今さらビビっても仕方ない】
正直、今までの人生で後悔していることがあります。
それはどんなことであれ「挑戦してこなかった瞬間」です。
学生時代に遡ると、グレることもなければ、バイト、勉強、部活に熱中することもありませんでした。
仮にグレていれば、そこで何か学ぶことがあったのだと思います。もちろん人に迷惑をかけることはダメですが、例えば少年院に入っても何かしら学ぶことがあります。
しかし、学生時代も社会人時代も無気力で過ごす時間、すなわち何も行動しない期間が長すぎました。そのせいで「失敗」も「成功」もすることなく時間が過ぎていきました。
「何もしないことが一番の失敗」であり後悔です。
なので、30代半ばになってブレーキが壊れたようにやらかしまくりました。
もうコロナで無職になろうが借金背負おうが、そんなことはそこまで重要ではありません。
言い訳してやらかさないことの方が後悔するだろうから。
「今まで散々やらかしまくってきたんだったら、これからも人とは違うことをやらかしていこうじゃないか」
今はそんな想いです。
【馬鹿にされてなんぼ】
人と同じことをやっても意味がありません。しかし、新しいこと、知らないことには批判が集まるのも日本の特徴。
だったら馬鹿にされ、叩かれたときがチャンス。
それは新しいことを始めた証拠、みんなが知らない世界なのかもしれないと。
イノベーションの始まりはいつだってそう。馬鹿にされてからが始まりです。
これからもリスクを取って最速でビジョンに向かって走っていきたいと思います。批判されながらも。
12.これからのビジョンとやりたいこと

【私のビジョン】
私は今までの人生を通じて、明確なビジョンがあり、ミッションがあります。
それは「人生を変える機会を提供し、自分と同じような境遇の大人をひとりでも減らす」そして「この世の中から格差社会を無くす」ことです。
ふさわしくない言葉に言い換えると、「イケてない底辺のクズたちの底上げをする」ということ。まさに昔の自分のことです。
人生を賭けてそんな世界を作っていくことが私の生きるひとつの使命であり、ビジョンであると考えています。
【これからやりたいこと】
そんなビジョンを達成するためにやりたいことがあります。
それはビジネスを通じて「人生を変える機会を提供できる教育事業、キャリアサポートをしたい」ということです。
私が考える「人生を変えるために必要な要素」をいくつか紹介します。
・英語などの外国語で何かを学んだり実践する
・プログラミング、Web3、VRやAIなどITリテラシーの向上
・マーケティング
・筋トレ
・コーチングや心理学、脳科学
・国内外の壮大な景色
・宗教や哲学など精神世界
・海外の慣習や文化
・世界の仲間たちと繋がる
・宇宙や地球、生物の歴史に触れる
私が触れてきたもののの中で適当に抽出しましたが、人生を変えるためにはぜひこの辺りを挑戦していって欲しいです。
そして何よりも大事なこと。
それは継続することです。
自分の夢、目標を達成するためには、挑戦と失敗を繰り返して続けていくしかありません。
僕は何歳になっても今が一番若いと思って挑戦し続けます。2023年の4月からタイ・バンコクに行きます。その後の動きは決まっていませんが、世界一周などして海外に拠点を移す予定です。
コロナで海外に行けていなかったので、やっと海外に行けるようになってきた今。思いっきり好きなことを海外でやらかしてやろうと思っています。
13.このnoteを通じて私が伝えたいこと

【これからが本当のスタート】
今、コロナによって大変な状況に置かれている人や、将来に不安を抱えている人もたくさんいると思います。もちろん私もそのうちの一人です。
世界一の少子高齢化。失われた30年。労働人口減少。社会保障負担増。経済衰退。シルバー民主主義。
聞けば聞くほど明るいニュースのない日本ですが、まだ日本に生まれた恩恵は受けられるはず。挑戦して失敗してもやり直しだって効きます。
選ばなければ仕事はあるし、生活保護だってもらえる。路上で寝てても安全だしなんとでもなります。こんな国は日本しかないと思います。
だったら日本人である以上、やるしかないでしょ。
「大変」と書いて「大きく変わる」チャンスですから。
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