あさきゆめみし

今年の大河「光る君へ」を見ていてどうしても読み返したくなり再読。初めて読んだ時には作画の美しさに目を奪われていたのだが、読み返すごとに紫の上が病に倒れてからの思いや、浮舟が匂の宮と薫の間で思い詰める様子が強く感じられるようになった。光源氏は紫の上を最も愛している、大切な人だと自身信じていながら、彼女の資質をこの上ないすばらしいと思いながら、「女の身でありながらよくぞこれほど」と思う。つまりは女は男よりも能力が下、男に導かれるものとしか思っていないのだ。匂の宮にしても薫にしても、浮舟を自分と対等には見ずに見下している。そしてそのことは彼らにとって、何の疑問を持つこともない当たり前のことなのだ。宇治十帖編での八の宮は娘である大君と中の君の行く末を案じ、頼りになる男君に縁付かせようとするが、本人たちの意思は全く問題にされない。そしてその構図はこの場合だけでなく、朱雀院と女三の宮の場合でも同じで、この時代のスタンダードであることがわかる。後ろ盾のないこと、官位のある親兄弟がいないことは、暮らしに事欠くということなのだ。そんな中で、紫の上は「女が真に自由になるには出家しかない」と思い、浮舟もまた仏の道に救いを求めたのだろう。現代においても未だ、女性が男性から対等に見られないことは多い。しかし、女性が真に自由になる道が出家しかない状況ではなくなってきた。性別がどうあれ、人が人として尊重される世の中に少しでも近づくように願ってやまない。

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