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男性にとって「若年妊娠」とはどのような経験か

1.「若年」カテゴリーは何を問題化しているのか

 先日「若年妊娠」について意見を求められることがありました。「若年妊娠」という言葉自体は、基本的に未成年者の妊娠を指すようですが、年齢層的にはもう少し幅広く運用されているようです。厚生労働省の令和元年人口動態統計月報年計では、令和元年度の出生数の総数が865,234人で、うち7,782人の母親が19歳以下と報告されています。また「平成23年人口動態統計月報年計(概数)の概況」(https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai11/kekka02.html)には、母親の年齢別にみた出生数の年次推移が記載されています。これによれば、平成23年の14歳以下の出生数は29人、15歳から19歳で13,273人であることがわかります。平成23年の出生総数は1,050,698人ですから、約1.3%が19歳以下の母親による出産ということがわかります。統計的には小さな数値ですが、「若年」の場合のリスクとして、身体的の機能的問題や経済的な不安定さ、精神的な成熟さなどが問題とされてきました。例えば、健康的な妊娠継続および出産に向けては、定期的な妊婦検診や栄養・健康指導等が必要不可欠です。胎内の子の成長とともに、母体が取るべき栄養量や質は変わっていきます。周囲の指導や援助を受けて、食生活から整えていくことが健康的な出産に向けた第一歩です。ところが「若年妊娠」の場合、妊婦健診や栄養・健康指導の意義を理解できなかったり、保護者に妊娠継続を反対されている場合には、保護者の援助が受けられないこともあります。産後の生活設計や経済的問題への不安を抱えているケースも少なくなく、社会的にも様々なリスクに直面しがちです。少子高齢化に歯止めが掛からない日本社会において、安心して出産を迎えるための支援と援助は必要不可欠です。合わせて、以後の育児支援やフォローアップも重要でしょう。
 少しずつ、若年の妊産婦への支援が拡充される中、やや置き去りとなっているように感じるのが「男性側への支援」です。


2 「男性という身体」は加害者なのか?

 「若年妊娠」という問題は、男性にとってはやや語りにくさを伴います。なぜかといえば「妊娠させた側」であるという加害者性を伴う話題となるからです。この加害性は、特に「人工妊娠中絶」という問題を思い浮かべてみれば頷けるでしょう。10代の妊娠は「突発的」で「予期せぬ」ものでもあり、戸惑いのほうが大きいはずです。このまま妊娠を継続するか、それとも妊娠を中断するか、大きな決断を迫られます。後者の道を選択した場合、「人工妊娠中絶」という方法を取ることになります。この人工妊娠中絶を、あえて強い言葉で表現するならば、女性にとって「自らの身体を傷つける行為」といえるでしょう。理由はどうであれ、自らの胎内に芽生えた「命の成長」を、外的な処置によって中断させるわけですから。医療的に十分な治療がなされるとはいえ、根付いたものを引き剥がすということは「自らを傷つける」ことに等しいわけです。
 一方、「妊娠させた側」である男性は、同じ経験を「誰かの身体を傷つけることを容認/黙認する行為」として経験します。それは、「他者を害する決断」という、ある種の加害性を指摘できます。もちろん、ここで男性側の責任を問題化したいわけではありません。ただし、行為選択としては「自分を傷つける」ではなく「他人を傷つける」ことを了解する。その点においての「加害性」です。そもそも妊娠によって身体の変化を実感する女性とは異なり、妊娠初期に男性が「命の変化」を感じる場面は極めて少ないものといえます。月経が遅れる/止まる、つわりの気配を感じる等は、女性にとって「妊娠」を実感する大きな変化です。同じようなレベルでの変化を、この時期に男性が感じることは極めて困難と言えるでしょう。そのため、女性にとっては身体的な変化を伴って経験される「命の成長の中断」は、男性にとっては実感を得ることがないまま過ぎ去ってしまうのも、どこか致し方ないことと言えます。「命の成長を中断させる」という極めて重い決断をしていたにも関わらず、その実感を得ることができないということは、リアルタイムで女性の苦しみに寄り添うことを難しくするばかりか、本当の意味で問題を理解することも難しくしていることでしょう。
 また、10代の出産と関連して語られる母子世帯問題でも同様です。ひとり親であるということは、父親が不在という状況と同じことを意味します。この「父親不在」の背景には様々な事情があるわけですが、若年妊娠の場合、そこでの中心的な語りは「父親が逃げてしまった」というものです。筆者も、10代の若年妊娠に対する支援の現場で、当事者や支援者が「相手の男性が逃げてしまう」「妊娠を告げたら連絡が取れなくなってしまった」「自分の子どもではないと言われた」と語るなど、男性が目の前の命から目を背けたという趣旨のエピソードを、数多く耳にしてきました。そうした語りからは、目の前の命に向き合うことなく「逃走」した男性たちへの怒りや呆れといった感情が渦巻いているのをひしひしと感じます。「逃げた」という言葉に象徴されるように、「我が事」として寄り添う道を選択しなかった男性に対する「加害性」が強く主張されているわけです。
 こうした「男性の加害性をめぐる語り」は支援の現場にあふれていて、そのような男性の在りようは、妊娠という事実から逃げることのできない「女性の被害性」をより強調させます。これ以上の被害を回避するべく、母子の保護を最優先とした支援が開始されるため「妊娠させた側の男性」のことは二の次・・・となりがちです。もちろん、子を持つ親である筆者にとっても、「(男性の)逃走のストーリー」は聞いていて気持ちの良いものではありません。しかし、なぜ「逃走」が起きるのか。ここであえて「男性という身体にとっての妊娠・出産・育児」を考えてみたいと思います。

3 逃げられる状況の中で「逃げない」決断ができるか

 男性にとっての妊娠・出産・育児という経験には、「逃げられる状況の中で『逃げない』決断ができるかどうか」という葛藤が常に隣り合わせにあるといえるでしょう。前掲のように、女性の場合、妊娠や出産は自らの身体的変化を伴って経験されます。人工妊娠中絶が受けられるのは妊娠22週未満ですから、妊娠を継続するか中断するかの決断にはタイムリミットが存在します。身体の変化を実感しながら、保護者に話ができるか、理解を得られるか、学業はどうするか、経済的にはどうなるか等々、幾つもの課題を「自分ごと」として考えなければなりません。いわば「逃げられない状況にあるからこそ、逃げずに考えるしか道がない」というわけです。
 一方、男性はどうでしょうか。パートナーに妊娠を告げられたとしても、それを実感することから始めなければなりません。それは、目に見える身体的変化や実感を伴わないものを理解するということでもあります。理解の過程では、「本当に自分の子だろうか」という疑念も湧くでしょう。それは「自分の子だ」と認めることが、すなわち「自分ごと」として問題を捉える始まりになるからです。仮に「自分の子ではない」と言ってしまえば、そもそも将来に関わる諸問題を考える必要すらなくなります。10代の予期せぬ妊娠は、男性の側からみれば「そもそも当事者として直面するか」という選択から始まるといえるわけです。
 ここで妊娠継続を選択した場合、母親となる女性とともに「若年」がもたらす様々な諸問題に向き合うことになります。女性と同様に、保護者への説明や学業継続の問題、経済的な課題等々、頭を悩ませることも多いでしょう。また、性交渉が両性の合意に基づくものであったとしても、「妊娠させる側」である男性に対する周囲の目は厳しいかもしれません。なんとか出産までたどり着いたとしても、今後は育児が待っています。10代の同級生が青春を謳歌するなか「親」としての責務を果たすことは容易ではありません。「逃げたい」という気持ちと闘わなければならないこともあるでしょう。男性にとっての困難は、ここで「逃げる」という道が残されているがゆえに生じる「葛藤」への対処を迫られることにあります。
 もちろん、女性の側が「逃げる」という選択をすることも不可能ではありません。施設養護や里親制度など、いくつかのオルタナティヴが存在します。しかし、日本社会では親子関係において、父子よりも母子の関係を重視する価値観が、いまだに一般的です。妊娠中の身体的な母子の繋がりはもちろん、出産後も母親を育児の主体と考える社会的期待は大きいといえます。例えば、離婚調整の場で親権を争った場合などは「母子優先の原則(母性優先の原則)」が採用されます。生物学的に胎内で子どもを育む「女性という身体」は、妊娠過程から始まる「愛着形成」において重要な役割を果たしており、出産により身体的な接続が遮断されてもなお、情緒的・心理的なつながりを保持することが強く期待されています。社会的にも「育児の中心は母親」という意識は依然として根強く、男性の育児休業取得率の伸び悩みに影響を与えていると言えます。その点でいうと、子を放棄することへの社会的責任は、より母親に強く現れていると考えることができます。社会的な「育児の中心は母親」というプレシャーに抗うことは容易ではなく、また妊産婦自身がその価値観に囚われていることもしばしばです。それが「逃げ道がない」という実感につながっていると考えられます。
 こうした社会的期待、性別役割分業意識という観点でも、男性の方が「逃げる」ことが許容されがちであると言えます。「逃げる」行為にも様々なバリエーション(種類)とグラデーション(程度)があり、例えば「育児協力をせずに仕事に没頭する」なども、広い意味での「逃避」にあたると言えるのではないでしょうか。日常生活の中に潜む「逃げる口実」「逃げ道」を選択せずに、常に「向き合う」という選択をし続けられるのか、これは初めから「逃げ場がない」と覚悟を決める「女性」とは異なる苦しさである可能性があります。
 筆者自身が「女性」という身体で出産を経験しているので、その点では「男性にとっての妊娠・出産・育児をめぐる苦しみ」を理解するのは容易ではないでしょう。ですが、この葛藤を他の例で置き換えてみれば、理解が深まるように思います。例えば、薬物依存症の問題を考えてみましょう。薬物の所持・使用により少年院や刑務所といった矯正施設に収容された場合。司法の施設である矯正施設への在院・在所中は、物理的に「薬物」と距離を置くことが可能です。施設内での所持品や生活は徹底的に管理されており、薬物を持ち込むことなどできないからです。薬物が手に入らないので、「薬物を使わないでいる生活」を維持するしか選択肢はあり得ません。ところが、社会生活を再開すれば、いつでも薬物を入手できる環境の中で「薬物を使わない選択」を積極的にし続けていくことが求められます。前者が受動的な選択(できないのでしない)だったのに比べて、能動的な選択(できるけどしない)へと意味的に変化を遂げるわけです。薬物依存症からの回復は「生涯にわたり『使わない日』を続けていく」という果てしない道のりです。気の遠くなるような忍耐と努力が必要でしょう。だからこそ、薬物依存症をはじめとしたアディクション治療には「(能動的な選択をする/選択を応援してくれる)仲間」が必要とされるわけです。
 男性にとっての妊娠・出産・育児への関与とは、まさに後者の「能動的な選択」を日々続けていくことを意味すると考えられます。そして、上記の例示がある程度妥当性があるのならば、男性にとっての妊娠・出産・育児という経験には「仲間」が必要であると考えられます。若年の場合は、周囲が青春を謳歌しているという点でも、その葛藤や苦悩は大きくなるでしょう。その葛藤や苦悩に寄り添う他者の必要性は、成人のそれ以上とも考えられるわけです。
 そして、仮に「妊娠継続をしない」決断をするにしても、若年の場合は特に「男性側」へのケアも重要と言えます。計画したものでなければ「妊娠」という経験は、女性にとってだけではなく、男性にとっても青天の霹靂と言えるでしょう。そして、その過程で「誰かを傷つける行為を選択する」ことを余儀なくされるわけです。自分の関与した行為の結果として、自分ではない誰かが強く傷つくことになる。このことは、若年であればなおのこと大きな「傷」となるでしょう。その選択の重みに逃げ出したくなってしまう心境を否定することは難しいものです。


4 若年男性へのケアに必要なこと

 とはいえ、予期せぬことだとしても、逃げ出したくなるほどの選択だったとしても、それが「逃げて良い」ということを意味するものではありません。ここまでの例示から考えられるのは、「『今日も逃げなかった』という日」を続けていくには支えてくれる仲間が必要ということです。また「逃げる」という選択を踏みとどまることのできる、社会的なサポートも必要でしょう。若年男性に対するケアは、以後の妊娠・出産・育児という経験をネガティヴなものにしないためにも、また後ろめたい思いで経験することがないようにという点でも検討されるべきと考えます。
 また、もう少し踏み込んでいえば、妊娠・出産・育児をめぐる経験の違いについて、性別に関わらず互いに理解を深める機会を持つべきでしょう。女性の側にも、一連の経験を誰もが同じように感じていることを前提とするのではない意識や態度が必要だからです。筆者自身の経験からしても、妊娠・出産・育児という経験には、同じ場面での解釈のズレが生じることが、しばしば起こります。例えば、筆者が妊娠中にはこんなことがありました。あれは、妊娠も後期に差し掛かった頃でした。胎内の子どもは動きが活発で、服の上からでも胎動がわかるほどよく動いていました。内側から蹴られると、踵や肘と思われるものを視覚で確認できることも多く、こちらからトントンと叩くと、同じような箇所を内側から蹴りだしてきます。妊娠を知る学生は、そのやりとりを楽しんでいましたし、筆者にも「胎動を通したコミュニケーション」として、その行為自体にポジティヴな感情を持っていたものです。ところが、肝心の夫は「動いたよ」と知らせても目を向けようとはしませんでした。遠慮しているのかと「触ってみれば」と声をかけてみますが、気乗りしない表情を隠しません。そればかりか動くお腹をみて「気持ち悪い」と顔を背けてしまったこともありました。当時、その様子に強い落胆の気持ちと「父親になれるのか」という不安な気持ちを抱いたものです。ところが、この「胎動を通してコミュニケーション」という場面を、夫は全く別の場面として理解していたことがわかったのです。
 この「胎動を通したコミュニケーション」という場面を夫はどのようにみていたのか。大きなお腹がボコボコと勝手に動いている、何かがお腹の中で自己主張をしている、まるでホラー映画のワンシーンのようにみえていたというのです。確かに、パートナーのお腹が日に日に大きくなって、ある時から「お腹の中にいる何か」が内側からボコンボコンとお腹を揺らし自己主張を始めるわけですから、「客観的に見ている側」からすれば恐怖体験かもしれません。また、お腹を蹴られている筆者自身に痛みはないのか、その胎動そのものが「正常な体験」の範囲なのか、目で見ているだけではわからない「感覚」に不安な気持ちの方が大きかったようです。母体としての筆者は、夫にとっての「不安な毎日」を、日に日に強くなる胎動にむしろ「生命力の強さ」を実感しながら生活をしていたわけです。同じ日々を送っているにも関わらず、そこに対する意味づけが180度異なっていたということ。「気持ち悪い」という夫の言葉の真意を確かめることをしなければ、夫の不安な気持ちに気づくこと機会は永遠に失われたことでしょう。
 同じように「保護者」としての責任を分かち合うにも関わらず、片方は強い身体的変化を実感を伴って経験し、一方は実感を持てないまま観察するという「視点の違い」は、互いの解釈への無理解を容易に引き起こしてしまいます。その点でも「若年妊娠」とキーワードとした支援が「(産む側である)女性」を対象とすると同時に、男性側への支援も対象とすることが望ましいでしょう。そして、若年男性へのケアとして何が必要かを考える時、私たちは双方の思い込みやステレオタイプ的な「女性像/男性像」を捨てる必要があるわけです。その手がかりとなるのは、男性にとっての妊娠・出産・育児とは、どのような経験なのかに関する「男性側の語り」です。その点でも「若年妊娠」の問題は、性別に関係なく語り合える場が必要となるでしょう。


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