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水に向かって濃い目の色が流入する映像がたまらなく好き

こんな感じのやつです

理由がよく分からないフワフワとした内容を投稿します
先日「幼少期」という詞を投稿しました。

これは実際は音楽があり、明るい前向きな進行です
20代の頃、現実に飲まれて「あ、このままだとあの頃の記憶を忘れちゃう」と焦って書きだしたものです

なんだか、それよりもっと前の原体験に近いような、そう思ってしまうのがその映像なんです
私は胎内記憶どころか1才2才の記憶もありません、3才でギリ(オマルに座れた喜びとか、蛇口に指突っ込んでビシャーってなったことや、温かいミルクを飲んで安心したこと)、4才以降はけっこう思い出せるのですが、そんなものです

小学生の頃は親の影響で映画が好きでした
フィクションノンフィクション、シンドラーのリストをはじめ残酷な描写を観ました
その頃から、このタイミングでこの国に生まれて、ただただラッキーなじぶんでしかない、そう思っていました

中学2年生のころアラニスモリセットのironic(皮肉)という歌がたまらなく好きになり その頃からミクロな視点とマクロな視点 どちらもあってどちらも本当で どちらにも正しさは無い というアキラメを学びました

この頃、遠く知らない人のためにお金で寄付をしたり無意味な同情をしたり、そうゆうことは私の理想から外れました
それをする人を否定するつもりは一切ありません
少なくとも私の場合は私の度量に見合わないと分かったからです
まったく想像もつかない未来があるのに、出過ぎたことはしない
知らない誰かを善意で助けて、知らない誰かが大きくなって、知らない誰かに自分の大切な人の命を奪われても恨まない人はいるのかもしれません
だけど、私のような小物にはそんな大それたことできません

「安易な善意は偽善」というのは私の個人的な価値観です
おそらくその頃に形成された価値観がベースとなり、40をすぎた私は若い子たちに言うのだと思います
「様々な情報が行き交い一時の感情で振り回されるかもしれないけれど、大きなことを言ったり言われたりすることよりも、足元を見渡して今近くにいる人に気付き、挨拶をしてください。」
これ、必ず言うことです。
隣の席になった子も何かの縁です。
嫌がらせをされて、でも謝ってくれた子は友達になれるかもしれない。

そっちのほうが大切だよ
大きなことなんてほとんどの人ができない
身近なことに「ありがとー」って言えることがどれだけサイコーなことかを知ってほしい
ぜんぶは伝わりませんよ
私は教祖ではないので、洗脳するつもりも無いし、教えを説くつもりもありません
だけどどっかで、心に残ってくれたらいいなぁ
って思ってます

ラッキーな人もアンラッキーな人も
消えるときは同じです
私の理想は消えるときにせめて
この絵の具のように徐々に均一になり
「ごめんね」「ありがとう」
と、感じたい

怒り、悲しみ、虚しさ、儚さ、喜びや快楽、そして「無」
そもそも何もなかった
絵の具が水に混ざりゆく様に、脳のフィルムにあらゆる情景を映すから見ていて飽きないのかもしれません
だけれど足掻きますよ
最後まで
なぜなら私の近くにはまだ私の好きな人たちがいるから

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