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V字回復の人生と努力中毒②

こんにちは。
前回は、僕のV字回復の人生と努力中毒に気づいたところまでを書きました。
今回は、なぜ努力中毒がいけないのか。について書いていきたいと思います。
努力って、いいことじゃないの?とか、頑張っても報われないことだってあるやん!と言う声は承知の上です。僕もそう思います。それでも、努力中毒になることだけは避けなければならないと考えています。

努力中毒について言いたいことは1つです。
それは、「思考停止してしまうよ」ってことです。

僕はビジネスでも、日常生活でも、思考停止した瞬間に終わりが訪れると考えています。
僕も24時間思考している訳じゃありませんが、思考することは大切ですよね。
普通に生活をしている中でも、思考停止する時間は短くしたいなあと思っています。夢を叶えるためにも、より感受性が豊かな人間になるためにも、思考することはエッセンシャルなことです。
何も考えていなけば、「サッカー選手になりたいのに、バスケ部に入って一生懸命頑張っている。」というような状況になりがちです。
抽象化すれば、努力の方向を間違っていることに気づかない。ってことですね。

「手段の目的化」という言葉があります。これは、努力の方向性を間違わせる大きな要因の1つです。
例えば留学。明らかに手段ですよね。
「まだ将来したいことが分からないから、英語や海外の文化を学び、選択肢を増やしたい。だから留学する。」これは正しく留学するという手段を選択できている状態です。
しかし、今「みんな留学するし、なんとなく自分も留学したいからする」という考えで留学し、結果的に良かったー。みたいな人って多くないですか?
もちろん否定する気はありません。ただ、思考していないので、得られたものや未来の成長のためのデータの蓄積は少なくなるな。と考えています。
留学のみならず、世間一般的に常識になっているもの、伝統とされていることを行動している場合、こう言った手段の目的化は起こりやすいです。それが害だと考えています。

前回のnoteでも書いた通り、僕は「こんなに頑張っているのに、なんで報われないんだ」「こんなに頑張っているのに、なんでもっと褒められないんだ」と思っていました。今でも思ったりします。
これは、まさにサッカー選手になりたいのに、バスケ部に入っている状態です。
しかも厄介なことに、これは1人では気づきにくいんです。

こんなことを書くと、「頑張ることに意味があるんだ。頑張って得るものもある」と言われそうです。それを否定する気はありません。実際正しいので。

僕は何か物事に対して行動を起こすとき、人の行動特性は2パターンあると思っています。
1つは量的に考える人。もう1つは質的に考える人。
僕は圧倒的前者です。
量的に考えることで、色んな視点から考えることができ、正しい努力ルートを選択することができるようになると考えます。
後者は、行動する前にデータや情報を集め、最初から最短距離"らしい"ものを選ぼうとすると思います。
どちらが良いとかではないです。
量的に考える人だって、最短距離らしい選択肢は常に考えていますし、質的に考える人だって、間違っていると思えばやり直そうとするはずです。


ただ、どちらが思考停止しやすいか。という観点だと話は変わってくると考えています。
僕の経験上、量的に考える人の方が思考停止しやすいと考えています。
それは、量が自分の真の目的を見えにくくするからです。
皆さんも一生懸命に頑張っている人を見れば、褒めたくなりますよね?
僕も、いっぱい頑張って、いっぱい褒められてきました。
実はそれが、承認欲求を刺激し、満足感に変わってしまい、その現状に心地よさを感じてしまうようになるのです。
これが、頑張っている自分が大好き。通称「承認欲求の塊ちゃん」です。
承認欲求ってこたつみたいなもんで、なかなか抜け出せないんです。
で、気づいたら目的も見えなくなって、自己嫌悪になると。
こうなると大変です、泣くことは避けられません。(僕の場合は)

「でも、頑張ることは悪くないし!一生懸命頑張れるのもすごいことじゃん!」って言われます。間違いないです。ただ、それは心が折れた時の慰め用にとっておいて、普段は使わないようにしましょう。
"正しく"頑張ることを評価し、目指すべきなんです。
常に、今の行動って目的のために合ってるかな?てか、そもそも目的ってなんだっけな?という問いを立てるだけでいいです。
思考ってそういうもんです。難しい問題を考えるためだけのものじゃないです。

承認欲求の塊ちゃん 思考停止ver.は、日本のみならず、世界中で発生すると考えていますが、僕は日本のある場面に、その原因が集約されていると考えています。
それは学校で宿題を忘れた場面。
先生に「宿題忘れました」って生徒が伝えます。やってなくて嘘ついたのか、本当に持ってくるのを忘れたのかはおいといて。
すると先生は「次から気をつけて」と言います。生徒は「以後気をつけます」って言います。
この場面。まさに思考停止ですよね。思考停止どころか、思考の「し」スラありませんよね。「以後気をつけます」って、何をどう気をつけるのか考えたことはありますか?
寝る前に、「絶対明日は持っていくぞ🔥」って思いながら寝るくらいしか思いつきません。
じゃあこの場面で先生が生徒に、「どうやったら忘れないで済む?」って問いかけたらどうでしょう。
おそらく最初は「気をつけます」って言いますが、徐々に「玄関に”宿題を持っていく”って張り紙します」とか、「勉強机に張り紙します」とか考えだすんじゃないでしょうか。
こうやって宿題を持っていくのを忘れないように思考して、その行動を評価する。これが正しい努力の評価だと思います。
まあ、宿題1つにしても、思考できる余白はいっぱいあるってことです。

僕は、頑張ることや努力を継続することは間違いなく素晴らしいことだと思っています。ただ、この資本主義の下で真に評価されるため、自分のなりたい姿になるため、人間として豊かになるためには、思考を止めないようにしなければならないと考えます。
頑張ることは悪くないし、頑張って得るもの(経験、同士など)も大切なものだとわかっています。それでも、真の目的を忘れないようにしましょう。

そして、こんな弱い部分を認められない人もたくさんいるはずです。
偉そうにツラツラと文を書いている僕も、完全に弱みを認められたのかというと、そうではありません。虚栄心は根深いです。
僕は「弱さを認めることこそ強さだ」という言葉は、「弱さを知り、それを補う強さを作り、弱さを少しでも強さに近づける」という意味だと捉えています。
そして、弱さを少しでも強み近づけるためにこそ、"正しい努力”が必要なんです。

人は常に間違っていくものです。目的を忘れるものです。 
常に自分を顧みれるように、同士と出会いましょう。
同士と出会うために、行動を起こしましょう。
行動を起こせない人は、それも認めてあげましょう。
どうしても行動ができない人は、僕に連絡ください。心に火をつけてみせます。
僕じゃ力不足だった人には、最高に熱い人を繋げます。 

これからも”目の前の物事に思考を巡らせ、常に未来と現在を結ぶ道筋を描きながら”頑張っていきます。

ご精読ありがとうございました。

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