イソップのコウモリと、「社会学は弱者の味方」という誤解

よくある感想

2年前から縁あってとある私立大学で社会学の入門・概説的な講義を行っている。その際、E.デュルケームやR.コリンズなどを参照しながら、もはや社会学的思考の常套句となっている「社会の”当たり前”を疑う」とか「社会の半分”外”に立つ」という話をしています。
このような話をすると、必ず「(社会の)多数派だけでなく、少数派に目を向けることも大事なのだと思った」とか、「社会学は弱者の味方に立つ学問なのだと感じた」という感想が結構な数、出てきます(中には「社会学者はみんな左翼なのでしょうか」という疑問も…)。
このような感想に対して、私は「半分は正しいけれど、半分は誤解です」と答えるようにしています。
このブログを受講生のうち果たして何人が見ているかは知らないのですが、いい機会(?)なので、このよくある感想に対して答えておこうと思います。

システム論の誘惑:「全体社会」

社会学の歴史を見ると、特にA.シュッツ以降、「多数派の学問」から「少数派の学問」へとシフトした印象を受けます。
すごくざっくり言うと、初期の社会学者は「資本主義はどのように生まれたのか」とか、「近代と自殺」というような壮大なテーマを扱っていました。その際、対象となる「社会」とは人びとの集合であると同時に、「〇〇教の文化圏」とか「国家」のような大きな単位だったように思います。
その頂点が「構造-機能主義」や「A.G.I.L図式」で知られる「社会システム論」の提唱者、T.パーソンズです。ここでいう「システム」とは、それぞれの要素が依存・影響し合っているもの、つまり相互に原因となり結果となり合っているものを指します。例えば冷蔵庫のような家電製品を思い浮かべてください。一つの部品は、他の部品から独立しながらも同時に連動していて何が「中心」なのかわかりません。
システム論は、このような考え方を社会に適用した考え方です。つまり特定の要因だけを説明要因とせず、様々な要因が互いに連関し合っており、その相互連関を説明しようとする立場が社会システム論です(奥村隆、2014、『社会学の歴史Ⅰ』有斐閣アルマ)。
ですが、このようなシステム論には、ある「罠」があります。それは「全体社会」という概念です。
社会が「システム」なのだとしたら、何らかの要素=部品(サブシステム)はすべて関係/接続しているはずです。そうなのだとしたら、全ての諸要素を接続していくと、最終的に「全体社会」に私たちはたどり着くはずです。パズルみたいなものですね。
ですが、このような考え方はおかしいですね。もしもある社会学者が「全体社会」を観察しているとします。そのとき「社会学者=観察者」はいったいどこに立っているのでしょうか? 観察するには距離がないといけません。ですが、果たして「全体」を観察することのできる立場とは、どこなのか。空を飛ぶ鳥の視点からの絵を「鳥瞰図」と言いますが、「全体」をくまなく観察できる存在は、「神」ですね。社会システム論は、「神」の視点に立ちそうになってしまうのです(佐藤俊樹、2008、『意味とシステム』勁草書房)。

「虫」の視点と「意味世界」:シュッツ

こうした「神」の視点の誘惑に抗い、「虫」の視点の重要性を説いたのが、オーストリアからアメリカへ移住した現象学的社会学者のA.シュッツです。
これまためちゃくちゃざっくり言うと、シュッツは、人びとが言語や記号を使って行う「意味づけ」と「解釈」によって現れる「主観的な意味世界」を重視しました。
目下、新作『すすめの戸締まり』が公開中の新海誠の作品を思い浮かべてください。新海作品の風景は、写真から線をトレースしつつ、色を塗り重ねることで美しく見せています。「意味づけと解釈」とは、このような「着色」だと思ってくれればいいと思います。
シュッツからすると、人間は世界をありのままを見ることができず、何らかの色眼鏡によって世界を見ています。逆に言えば、人それぞれの「主観的な意味の世界(=着色された世界)」を理解することによって、「他者」や「社会」に迫ろうというのが、シュッツ(や、それに学んだP.L.バーガー&T.ルックマン)の立場です。
社会学の調査方法には、アンケート(質問紙)調査を統計的手法によって処理する「量的社会調査」と、インタビューを行って文字起こしデータを分析する「質的社会調査」とがありますが、後者の「質的社会調査」はシュッツやバーガーの活躍によって社会学の主流になってきました。

シュッツとマイノリティ

シュッツの仕事自体はめちゃくちゃ理論的で抽象度が高いものが多いです。ですが、「多数派/少数派」という二分法を使うならば、シュッツの出現が「少数派」と「社会学」のカップリングに寄与した点は大きいと思います。
先ほどシュッツは「主観的な意味の世界」を対象とした、と言いました。人それぞれ「主観的な意味の世界」は異なります。確かに階級や地域、世代、生育環境などによって、ある程度、「主観的な意味の世界」に共通性が出ることも確かですが、ほぼ同時に生まれ、見た目もそっくりな一卵性双生児であっても、現実を同じように生きているとは限らないということです。
もしも「現実」や「常識」は人の数だけあるのだとしたら、今の世界で「当たり前」であることが「当たり前」ではないとか、世界にはまだまだ「あなたの知らない世界」があるということになります。
さらに発展して、「現実」や「常識」は人の数だけあるのだから、「全ての主観的な意味の世界は、【私たちの生きている、この現実】においても同等に扱われなければならない」という考えも生まれてくるでしょう。もう少し噛み砕いて言うと「声なき声に耳を傾けることが大事だ」という考えです。
ただし、「私たちが当たり前だと思っていることは、当たり前ではない」ということと、「声なき声に耳を傾けることが大事だ」という考えは、微妙に異なります。両者は確かに「現実は一つではない」という認識を共有していますが、「全ての主観的な意味の世界は、【私たちの生きている、この現実】においても同等に扱われなければならない」「声なき声に耳を傾けることが大事だ」という考えは、私たちが生きている現実に存在する差別や偏見に対する「異議申し立て」とセットであるからです。
私も、一個人としてはこのような考え方には大いに賛同しますが、このような考え方は社会学の方法論ではなく、その人の「主義」だと思います。社会学をするということは、このような自らの主義主張からも自由になることであるはずだと、私は思います(私はM.ヴェーバーの「価値自由」をこの意味で理解しています)。

コウモリの立場

では、社会学の立場とは、どのような立場なのでしょうか。
イソップ寓話の一つに「ひきょうなコウモリ」という話があります。ある日、森の中で獣と鳥の争いが生まれます。両者は「敵」をやっつけるために味方を集めます。しかし、コウモリは、鳥に誘われれば自分は獣の仲間だと言い、獣に誘われれば自分は鳥の仲間だと言い、結局、両者のどちらからも仲間外れにされます
私はこのコウモリこそ「社会学者のモデル」だと考えています。確かに勝ち馬に乗ろうとしたコウモリは、獣と鳥にとっては「ひきょう」に見えます。しかし獣と鳥の板挟みに苦悩したコウモリの孤独、「居心地の悪さ」を彼らは知りません。さらに、結果として、獣と鳥はコウモリを「共通の敵」にすることで争いをやめます。ならば初めから争わなければよかったのではないか? このように、コウモリは獣でもなければ鳥でもないという「中途半端さ」ないし「居心地の悪さ」によって、逆説的に、「派閥争い=パイの奪い合い」そのものの無意味さを示しています
「社会」の中の「少数派」でいることと、「社会」に「居心地の悪さ」を感じることや、「社会」から「外(さ)れる」こよとは、微妙に違います。その違いの核心は「居場所」の有無です。
「多数派」でいることが楽なのと同様に、やや誤解を招く表現になりますが、「少数派」でいることもまた、ある種の「安心」があります。両者は共に「派閥」という「居場所」があるからです。こうした「派閥」どうしは争います。派閥争いは基本的にパイの奪い合いです。鳥と獣です。社会学者はこうした「派閥」から自由であるべきです。
大切なのは「社会」から「外れている」こと、「不適合」でいること、自分をイソップのコウモリのように、何の後ろ盾もない「居心地の悪い場所」に身を置くことです。これが「社会学者の立場」かな、と私は思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?