自己紹介3。
東京を離れ、名古屋で働く。
短期的な仕事だったので、東京の家は残したまま名古屋へ向かった。まだ20歳だった僕には2ヶ月だけとはいえ、家賃が倍かかる状況は絶望的に苦しかった。
しかも名古屋では7歳年上の先輩2人との共同生活。自分のプライベートなど1秒たりとも無い。
『LA GRAND TABLE de KITAMURA』
日本人で初めてスイスの三つ星『ジラルデ』でスーシェフになった北村竜二シェフの開いた、グランメゾン。広々としたダイニングには80名近くの席があり、東京では考えられないような贅沢な空間が広がっていた。
厨房もとても広く、スタッフの数も多かった。
同世代の料理人も多く、慣れない名古屋の環境と、当時まだ苦手だった賄いに追われる日々。北村シェフの鋭い眼光から逃れるように仕事をしていたのを鮮明に覚えている。
それと同時に、トラディショナルなフランス料理のソースを経験出来たのは、後にも先にもこの店だけで、初めて舐めたソースビガラード(苦味の強いオレンジで作るソース)の衝撃的な旨さは、フランス料理の奥深さを僕に刻み込んだ。
毎朝80名分のパンを焼き、80本のオマールエビを掃除する。クリスマスにはその2倍の仕事をした。1年目の僕には殆んど地獄の様な環境だったが、同世代の他の料理人に負けたくない一心で働いた。
トラディショナルなフランス料理に触れる事が出来た貴重な機会も、初めて働いたお店を半年で辞めなければ得られないものだった。
知識としてではなく、経験として触れる事でより記憶に残り、舌に残る。
今の時代に想うことは、得られる情報が途轍もなく増えた事で、知識ばかりで実際に体験せず、技術として身に付けるということが減っている様に感じる。
写真を見ただけで食べたかの様に感じ、本を見ただけで出来るような気になる。
料理人とは、やはり技術職。知識も大切だが、1番は技術だ。
どんなにテクノロジーが進化しようとも、料理人の強さとは、包丁とフライパンだけでどれだけの美味い料理が作れるのか。
その強さの上にテクノロジーを駆使し、初めて本物の料理人と言えるのではないか。
自分がまだ24、5の頃は自分で肉や魚を買い、ひたすら捌き、焼き、食べていた。
出来ない事は沢山ある、しかしやった事のない事をいかに無くすかが大切だ。
0からスタートするのと、1を知っているかは雲泥の差。
机上の学びも大切だが、先ずはやってみる事。特にこれからの若い人達には先ず色々なものに自分で触れる事を大切にしてもらいたい。
名古屋での2ヶ月の生活を終え、東京へ戻ってきた。まだ新しいお店が出来るまでには時間がかかるらしく、また他の仕事を探す事に。
2倍の家賃がかかっていたこともあり、ノンビリしている余裕はなく、派遣のアルバイトに登録し直ぐに働き始めた。この時初めて料理以外の仕事をし、ベルトコンベアーで流れてくるモデムの解体作業や、ひたすら箱を作る仕事などもした。
お金の為とはいえ、やりたい事ではない仕事をするのが想像以上に苦痛だった。この時自分には料理しかないなと改めて思い、そのタイミングで下村シェフから知り合いのお店を紹介して頂き、残りの半年間を過ごす事が出来た。
とはいえ自分の時間がかなり有ったので、その間は専門学校の図書室へ行き、過去の専門料理を全て見返し、下村シェフの料理を全てコピーしてもらい自分なりに下村シェフの料理を勉強した。幸いな事にかなりの量のデータを手に入れる事が出来、その時改めて下村シェフの凄さを実感した。
下村シェフの料理はどんな料理で、何が特徴なのか。写真やレシピ、掲載されていた文章を見ながら少しずつ自分の中にイメージを蓄え、実際に調理場に入った時に直ぐ闘えるよう準備した。
何事にも準備をしておきたいタイプの僕は、事前に出来ることは可能な限り調べ、咀嚼し、自分の中に消化する。その上で実際に闘う時は瞬発力を重視する。考えなくても動けるように準備するのだ。野球の練習と同じように。
『Edition Koji Shimomura』がオープンした直後は僕はサービスをしていた。
調理場には3個上の先輩が居て、僕が調理場に入るスペースがなかったのだ。
ただチャンスは直ぐにやってくる。
事前に出来る限りの準備をしておけたことが、僕の闘う場所を調理場へと導いた。
昔の自分の文章は恥ずかしい。とにかく自分の想いをぶつけている。でも、なぜか楽しかったりする。僕は編集者でもライターでもないから、文章に対してのハードルが低いので何も気にせず載せられるのもいい(笑)
自分の思い出作りのようにこの自己紹介をまとめていきたい。
皆様の優しさに救われてます泣