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その23:心が動く

 閑雲野鶴(かんうんやかく)という諺がある。「『閑雲』は大空にゆったりと浮かぶ雲。『野鶴』は野に気ままに遊ぶ鶴。何物にもしばられない自由な生活のたとえ」とある。

 東京は政府が発令した緊急事態宣言中で、当初2月7日までだったがさらに1ヶ月延びて3月7まで不要不急の外出は自粛である。しかし規則さえ守っていれば、「閑雲野鶴」の言葉通りだ。71歳だから用事もないので自由気ままである。その様な中、のんびり生活しているが年を重ねた今、私たちが修行していた若い頃の剣道が懐かしくなって、ふと考えたことがある。

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 いつ頃から始まったのかはっきり覚えていないのだが、「三ヶ所隠し」とか「三所隠し」が流行している。外国では「Three-Point Defense」と言うらしい。このような防御法は私たちの若い時代は行われていなかった。今や、日本発祥の「三ヶ所隠し」という防御法が世界中に普及したことを意味している。

 初めて竹刀を持った小学1年生の時、中段の構えは左拳が中心だから、上下左右に動かしてはいけないと父に教わった。その後も、左拳は常に正中線上において、もし相手が間合に入って来ても左拳は動かすな、左拳が左右にぶれたり、動かされたりしたら心を動かされた証拠で負けも同然なのだと厳しく言われた。そう言われても10歳前後の小学生には難しくて分からなかった。ところが、その言葉を実証することがあった。

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 60年も前のことをまだ覚えている。小学5年生の時、千駄ヶ谷にある東京体育館で開催された全日本剣道選手権大会を見学した。準決勝で(選手の名前は忘れたが)、一方の選手が小手を打った。私の席からは、その瞬間が良く見えて有効打突だと思っていたら、三人の審判旗はピクリとも動かなかった。試合が終わって、帰りの電車の中で思い切って父に聞いてみた。

「何故、小手に当たっているのに一本にならなかったのですか」と。

「〇〇が打った小手は確かに当たっていた。しかし当たっただけでは一本にはならない。打たれた側の左拳が正中線を外れていたり、構えが防御の形になっているときの小手は一本になる。あの試合では全くそういう状態にはなっていなかった。どういうことかというと、心を動かされると左拳が上の方に行ったり、左に行ったりする。心を動かさない、または動かされない修行をすることが剣道では大事なんだ」。

 その試合の主審をした父の言葉には説得力があった。しかしまだ10歳だったので、「心が動く」「心を動かす」とか「心を動かされる」ということが、どういうことか分からなかった。それを理解するのに20年くらい掛ったものである。しかし、あの試合の一部始終と父の説明は衝撃的だった。60年後の今でも覚えているのだから…。打突部位に当たっても一本にはならないことを初めて知った10歳の思い出である。

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 先日2月1日、清風高校の教員だった大野偉光先生から『恩師西善延先生生誕100年記念誌』という本が送られてきた。大阪の西善延先生は、平成23年(2011)12月6日93歳で御逝去された。私は50歳から60歳までの10年間月に一度の割合で大阪の清風高校の朝稽古と堺刑務所の体育館で行われている日曜会の稽古に参加して西先生に御指導頂いた。大野先生は初芝高校出身で、西先生は大野先生が高校2年生の時に剣道師範となられ、それ以後お亡くなりになるまで薫陶を受けたそうである。

 『記念誌』を拝読し、前述の「心を動かす」、「心を動かされる」ということをより理解することができた。西先生が師と仰ぐ長谷川寿先生(範士九段)との稽古の中でのやり取りがある。とても興味深いのでそのまま記すことにする。

 「わたしの竹刀が先生に当たるには当たるのですが、いくら当たっても先生の気持ちはピクリとも動かないのです。知らん顔なのです。打てば打つほど、当たれば当たるほど、いつの間にかわたしの方が心貧しく思う稽古になってしまうのです」。このとき西先生は64歳か65歳の頃の事と書いている。更にこうも記す。

 「先生に剣道のお話をおうかがいすると、『西さん、剣道というのはここだけのものですよ』と、ご自分の肚(はら)をたたかれていわれる。肚だけや、といわれた先生の言葉は忘れられません」。

 そして、西先生が74歳の時の言葉が奥深い。

「ついに先生に対し、わたしは納得いく打ちを出せずじまいでした。いくら打ち込んでもわずかな動きも現れない、あの心境に到達するにはまだまだ遠い道のりです」。

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 私が大阪に武者修行に行き始めたのは、西先生が83歳の時だった。西先生との初めての稽古はどうだったと聞かれることがある。堺刑務所の体育館で行われる日曜会の稽古だった。西先生が元に立たれる下座の所に、早く来た順に竹刀袋を置いてあった。東京から稽古に来たということで、日曜会の役員が一番先に稽古できるようにして下さった。

 そして皆が先生と私の稽古を見ていた。蹲踞して立ち上がり、しばらくして10センチ程「間」を詰めた。先生は何もしないで動かない。私は出た分だけ下がったら、先生は下がった分だけ前に出た。またしばらくして10センチ程「間」を詰めた。同じように何もしないで動かない。先程と同じように、私は出た分だけ下がったら、先生は下がった分だけ前に出た。どうすることもできなくなり、「間」を詰めて面に出た。先生は一歩も下がらず突に付けたので、私は出た分また下がった。先生はその分前に出た。もう一度同じことを繰り返したら後ろは壁だった。そしてどうすることもできなくなって捨身の面に出たら、そのままの位置で「摺り上げ面」。今まで打たれことがないような見事な面だった。私は思わず天を仰いでいた。この間10分、攻防は数歩、打って出た技は面を3本だけ。先生は「摺り上げ面」を一本だけ。私は息が上がり終わってから座り込んでしばらく立てなかった。その日から10年間月一度の武者修行が始まったのである。幸せな10年間だった。あの10年があって今がある。

令和3年(2021)2月11日
於松籟庵

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