見出し画像

その13:剣道と哲学(3)―神は存在するか―

 かなり前のことになるが、6歳年上の人が八段に合格した時のこと。「あの状況の中で(二次審査の二人目)、素晴らしい面でしたねえ」と言ったら、「あの面は神様が背中を押してくれたように感じたよ」と言った。私はこの一言にちょっと違和感を覚えた。「神」とか「神様」というと、まず「神様は存在するか」という疑問だ。「神様とは何だろうか」、「誰だろうか」という疑問である。しばらく考えてみたが埒が明かない。少々理屈っぽくなるので、手っ取り早く理解するために、かつての同僚で哲学担当のSさんに尋ねたら、分かりやすく教えてくれることだろうと電話した。

 ところが、一週間毎日電話しても出ないので、大学の教養事務室に問い合わせた。「佐々木先生は5月18日にお亡くなりになりました。心臓疾患でした」と言われてびっくりした。と同時に、「もう哲学のことを教えてもらえないのか」という喪失感で言葉を失った。そういう訳で「神の存在」は分からず仕舞いになってしまった。佐々木さんとのやり取りは、『私は人生のすべてを剣道から学んだ(1)』(pp.64)で紹介したので御参考の程。

          *

 哲学の入門書には、「哲学することとは、一つの事に没頭して限りなく探究を続けること」と記してある。剣道修行を佐々木流に解釈すれば、試合に勝つとか昇段が目的ではなく、精神的向上を胸に秘め、ひたすら稽古に励んでいる人のことを実践哲学者だと言っても言い過ぎではない。試合や段位は普及のための一つの手段であって目的ではない。剣道を修行していることに、自信と誇りを持つことが大事だ。

 しかし、もう佐々木さんとこういう話は出来なくなった。今後は自分で解決するしかないと思い直して、「神様」の話は無理として、背中を押してくれたようなという感覚を想像してみた。

          *

 「鍛錬に鍛錬を重ねた結果、意識を越えた技前を会得して無意識に出た打突」という表現がある。「百錬自得」という言葉に言い換えられるだろうか。「勘」という言葉もある。これは意識せずに、「無意識に出た打突」という言葉に繋がっている。「第六感」というのも難しい。五感以外にあるとされる感覚で、物事の本質を直感的に感じ取る心の働きである。

 剣道に応用するならば、面を打つぞ、小手を打つぞ、と思って打ったものは無意識ではない。「打つぞ!」と意識していると相手はそれを察知して避けるからその技は成功しない。しかし、無意識に出た技、「面擦り上げ面」や「面返し胴」、「出端面」や「出端小手」等の思わず出た技は避けることができない。こういう技が、「神様が打たしてくれた技」というのかもしれない。ただし、これは私の思いであって正解ではない。正しい技を繰り返し反復することによって会得した技、そういう技が、「あれっ、今のは何だ?」という無意識の技が出れば本物なのだろう。しかし、そういう技は覚えていないのである。何故ならば、無意識だから……。皆さんがそれぞれで考えてみて頂きたい。

 「神様が背中を押してくれた」。もしそうならば、神様を味方に付ければいいだろうということになる。どうしたら味方になってくれるだろうか。いろいろ考えたが、一生懸命そして一心不乱に稽古したら味方してくれるのではないだろうか。やっぱり稽古しかないのか。(佐々木さん、こういう話は難しいなあ。昔、私が厄介な質問した時、快く答えてくれたあなたに感謝します。)

          *

 令和2年(2020)5月18日、東京理科大学の元同僚佐々木亮さん(哲学担当)が心臓疾患で急死した。72歳だった。私にとって特別な存在だったので、あえて「松籟庵便り」に掲載さて頂いた。令和元年(2019)3月5日付の佐々木さんらしい葉書があったので記してみた。

拝復
「今が大切」(『剣道日本』4月号)をお送りいただき誠にありがとうございました。S教授にはいかなるパテントもありません。この人物はもうあなたのものです。いかように扱われようと、私ごときに異論反論なぞありはしません。僕は「今」哲学屋としてハイデガーの第二の主著と言われている『哲学への寄与―性起について』をなめるように読んでいます。哲学者に成れなかったものの最後の「あがき」です。それにしても「今」をどう捉えればよいのでしょう?? 「今」を語ることができるのか? 語ったとしたら、もう「今」ではない!古今東西の偉才たちが苦闘した事を今頃になって…。あなたがうらやましい。相手と対峙している剣先が触れる「今」を感じ得るのだもの!     お元気で。

令和2年(2020)11月3日
於松籟庵

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?