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その31:海外剣道交流(1)

 昭和44年(1969)、19歳から始まった海外との剣道交流は、私にとって好奇心を強く刺激されるものだった。初めての時のことは鮮明に覚えている。夏休みが始まって直ぐにハワイへ3週間。他の島は別にして、オアフ島での宿泊は従姉夫婦の家に居候して島内にある剣道場で一日置きに稽古をした。

 昭和30年代の海外旅行は仕事や視察、留学というはっきりした目的があっての旅行のみで、しかも特定の認可が必要だった。自由に海外旅行ができるようになったのは、昭和39年(1964)からで年一度と決められていた。私はその5年後にハワイに行ったので、一人で、好きな時に、好きな所に、好きなように行って剣道をすることなど、今にして思えば、かなり無謀で新しい試みだったような気がする。これも現地に従姉夫婦が住んでいたことに加えて、昭和38年(1963)に父が戦後初めて全日本剣道連盟の派遣で、アメリカ本土とブラジルに派遣され、その帰りにハワイにも立ち寄りハワイ剣道連盟の赤城昇会長はじめ多くの方々と懇意になっていたお蔭であった。

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 滞在中のある日、テレビの画面がチラチラして映りが悪くイライラしたことがあった。日本と違って通訳がいないから何をやっているのか全く理解できなかった。従姉の高校生の息子と二人でテレビを見ていたが彼は日本語がしゃべれないし、親たちは仕事に出掛けていなかった。正直なところ、アメリカのテレビは映りが悪いなあ、くらいにしか思っていなかったのだ。

 帰国直後、自宅でテレビを見ていたら、アポロ11号の月面着陸で大騒ぎだった。あの映像は月面着陸のライブ映像だったのだ。7月20日のことで、歴史的瞬間をアメリカのテレビで見たことになる。日本では鳥飼久美子さんが同時通訳したので友人たちはよく理解できたらしい。今思えば笑い話だ。

 アームストロング船長が言った言葉が有名である。

「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」。  

うまいことを言うなあと思った。私も初めて外国の地を踏んだから思い出深い。私にとっても小さな一歩だったが、未来のための大事な一歩だった。

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 滞在中は、文化の違いにどれほど強い刺激を受けたか分からない。海外での見聞は、私の好奇心をより強く刺激した。知識の質も変わった。自分の行動に責任を持つことも学んだ。一人旅というのは人を成長させてくれる。行くか止めるか、イエスかノーか等を自分で判断しなくてはならない。言葉も苦労した。高校まで学んだ英語が全然通じず役に立たなかった。早くて分からないから、ゆっくり喋ってくれと何度もお願いした。そして相手の国の文化を知らないと摩擦が起きてしまうことも学んだ。外国人が日本人の中にいると、発想や感じることがいろいろ違うところが多いと言うが、私は逆の立場だった。そのことを象徴する出来事があった。剣道をやっている人の中にハワイ大学の教授がいて、講義を見に来てみないかと誘われて行った。講義を受けている女子大生がビキニ姿だったことにびっくり仰天した。そういう経験の中から、剣道を通しての50年の交流を何回かに分けて書いてみようと思う。

40歳から本当の人生が始まる(アンジェラ・トゥジンスキー女史)

 海外との本格的な剣道交流は40歳からと言ってよい。71歳の現在まで84回剣道交流をした。もちろん仕事ではない。これは勤めが大学だったからできたことで、普通はそうはいかなかったと思う。そういう意味では東京理科大学に感謝している。定年退職の挨拶は、平成27年(2015)3月31日にイギリスからの帰国当日で、成田空港から電話による大学事務局長への帰国報告のついでだった。

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 平成2年(1990)4月からイギリスに初めて長期滞在した。それまでは義兄と一緒に西ドイツに5回行った。5回目のドイツでの忘れられない思い出は1990年3月、2週間の滞在だった。イギリスに行く前に義兄が、英語に慣れておいた方がいいということで、ベルリンで開催されたヨーロッパ大会に備えてドイツチームの強化練習を手伝い、大会を見学した。

 強化練習の合間にはあちらこちらを観光した。当時、旧東ベルリンに行くにはブランデンブルグ門をくぐらなければならない。前年の1989年11月9日、ベルリンの壁が撤廃されて東西ドイツが統一されたが、門ではまだパスポートが必要だった。東側に兵士が怖い顔をしてパスポートを検閲していた。門を抜けて目の前にあるオペラハウスで、有名なオペラを鑑賞した楽しい思い出が残っている。オペラ以外のことが楽しかったのだが……。

 訪れたのは、統一の4ヶ月後で、まだ少し混乱の名残りがあった。旧東ベルリンの街を車で観光したが、前を走る車はガソリンの質が悪く真っ黒な排気ガスがモクモク出ていた。そのせいか街全体がくすんだ感じで空気が悪く、街路樹の葉っぱが黒ずんでいた。別の日には、ベルリンの壁を採取しにラルフ・レーマンとハンマーを腰に差して出掛け、カケラを持ち帰った。そのカケラは今、ベランダの植木鉢の中で静かに眠っている。

 ヨーロッパ大会翌日の早朝、義兄と別れてイギリスに移動した。ロンドンに行く機内の隣の席に日本人の父娘がいた。さよならパーティーで飲み過ぎて二日酔いだったが、向こうから話しかけてきたので世間話をしていたら順天堂大学の医師だった。私が剣道の話を始めたら「剣道時代の小澤誠さんを知っている」というのでビックリした。入院中の小澤誠さんを担当している一人だと言っていた。世間は狭いし、剣道界はもっと狭い。

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 19歳の時の一人旅の経験から、何かの縁で外国に行くことがあったら片言の英会話くらいできないと意思が伝わらないから勉強しておこうと思っていた。ある時、野間道場の会員ジョン・クラークが英会話の教師だと紹介された。これは都合がいい、ということで1985年頃から彼に自宅に来てもらって英会話を習っていた。1987年の11月、ジョン・クラークがイギリス人のデニス・スミスを連れて遊びに来た。その時いろいろな話をしたがデニスから、

「イギリスに行くとしたら、ロンドンがいいか、田舎がいいか」

と質問された。都会はどこも同じような気がしたので、田舎出身の私はイギリスの田舎はどんなものか興味を持った。

 それから2年後。東京理科大学から海外留学の機会をもらうことになり、どこへ行くのか決めなくてはならなくなった。外国に行ってもどうせ剣道しかやらないのだからどこにしようか。アメリカは広過ぎるし、ヨーロッパは言葉がいろいろあって大変だし、東南アジアは暑いし等々勝手な想像をしたが、その時デニスのことを思い出し、「イギリスだ。しかもイギリスだったら田舎だ」と決めた。その後はデニスと連絡を取り合い、彼が勤務するノッティンガム大学ということに落ち着いた。もしかしたら私の後半の人生は、その時に決まったのかもしれない。

ジョンクラーク

1989年9月ジョン・クラークと。山梨県白州の「正心館」にて

※元BKA(British Kendo Association)理事長ジョン・クラーク氏は、令和2年(2020)7月20日に御逝去されました。慎んで御冥福をお祈り致します。

令和3年(2021)5月1日

於松籟庵

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