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その12:磨く

 父は昔、暇があったら本を読め、本を読んで教養を身に付けよと言った。

コロナ禍の中、新しく買うより今まで読んだ本を棚から引っ張り出して読む方が多かった。いつも思うのだが、前に読んだ時とは違った新しい発見がある。今回も、何でこんな大事なことに気が付かなかったのだろうか、と思うことが多かった。

 享保14年(1729)に刊行された佚斎樗山著『天狗芸術論』を読んで、また剣道の面白さを発見した。講談社学術文庫で840円という低価格だから上達したいと思っている人は一読を薦める。ここでは文字数の関係があるので、さわりだけを記して紹介だけに終わる。

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 私が道場で時々話をしている中に、「個性や他の剣士が持っていない魅力や能力を自ら見出しそれを磨いていく。それがその人の剣風になる」と。それには先ず、自分自身を知ることから始まるのだが、最終的にはその人の剣道観に繋がっていく。どういう剣道に憧れるかは人それぞれ異なる。そういうことを考えると「見取り稽古」というものは疎かに出来ない。

 いい例がある。袴田大蔵先生の得意技で、私が「袴田胴」と名付けた「返し胴」である。この技は、先生が八段審査(二次審査)の最後に決めた返し胴で、私はそれを見逃さなかった。最初はできなかったが、1年間その技を磨いたらできるようになったのである。「これは!」と思ったら、時間が掛かってもやってみる価値がある。他にも幾つかあるのだがまだ完成していない。そのうち何とか……。

 では剣道観はどこから生まれるかというと、その人の人生観が大きく関係している。つまり、剣道観=人生観なのだ。個性や魅力や能力を自分で見出すと記したが、剣道の基礎・基本はどんな名人達人でも最初に習うことは同じである。だから、かなり稽古しないと個性や魅力は出て来ない。まして自分で発見するのはかなり難しい。大事なことは、基礎・基本を教えてくれた先生の言葉を信じて、時間があったら剣道のことを考え、工夫を凝らし、道場に足を運んで技を試し、疑問があれば質問する。このようにして修行を続けて習熟し、自分でその理合を理解することである。

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 『天狗芸術論』という本はとても参考になる。剣道の技術習得の順序として、まず基本動作と基本技術を習得し、次の段階で応用技術を身に付けることになる。技に習熟していなければいくら心が剛だといってもその心の働きに応えることはできない。「技」は「気」によって修錬するのである。「気」は心の働きに応じて「体」を使うものである。「気」は生き生きと活動して停滞することなく、剛健で屈しないことが最も大事だ。

また、技には必ず理合がある。それが個人の心と体に備わった機能と合致する。つまり、自分のことを知るというのはそのことを言っている。

 私が安藤先生の剣道に憧れて、ああいうふうにやりたいなあ、と思っても無理だということだ。それは人それぞれ持っているものが違う。身長が違う、筋力が違う、顔も違う、あの目と対峙したら目をそらしたくなるのは私だけではなかったと思う。ではどうしたら良いのか。安藤先生が持っていないものを見付けて対抗するしかない。見付けられれば、のことだが……。私の場合はいくら工夫しても無駄に終わってしまった。でも工夫することに意義があるのではないかと思っている。

「体は『気』に従い、『気』は心に従う」

 心が動揺しなければ、「気」も動揺しない。心が平静で囚われるものがないときは、「気」もまた和んで心に従い、技も自然に応じる。心にこだわりがあるときは、「気」がふさがって手足が役に立たなくなる。剣道は心と体に本来備わっている能力の応用である。どのように動こうとも、その前に形を生じないようにしなくてはならない。形や様相のあるものは、本来の能力を絶妙に用いたものではない。たとえわずかでも思いを動かすことは、「気」に形が生じ相手はその形が生じたところを打ってくる。

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 柳生流の極意「三磨之位」で工夫することを説いているが、初心の頃から何の技もなしに工夫だけをしても骨折り損となる。技をたくさん習得することは大切だから、その技を自分が持っている個性(気と体)を応用していつでも使えるように工夫することだ。これを習得するには自分で繰り返し稽古するしかない。何故ならば、『私は人生のすべてを剣道から学んだ』(3)で「教えられる間」と「教えられない間」があると書いた。これこそまさに「教えられない間」なのである。これを会得した暁には、立派な技としてその人の個性(剣風)になることだろう。

 そもそも剣道はその大部分が「『気』の修錬」である。技を離れて「気」を修錬しようとしても手掛かりが何もなく修錬しようがない。「気」を修錬して習熟すれば、心の問題に到達する。それまでの時間が速いか遅いかの違いがあるが、それは人それぞれの個性(特質)によるものである。

 因みに、この「便り」は私が言っているのではない。佚斎樗山が『天狗芸術論』に書いていることの中で、「なるほど」と思っている部分を伝えているだけである。「気」とは何か、を知りたければ、五木寛之氏が「気を発見した」と書いているから『気の発見』を読むと良い。この本は道場の本棚に置いてあるので皆さんに薦めます。

令和2年(2020)10月25日
於松籟庵

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