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その30:克堪克忍(よくたえ よくしのぶ)

 令和3年(2021)3月末、縁あって群馬県前橋市在住で大学の先輩鈴木孝宏先生から、今まで見たこともないほど大きな扁額を預かった。明治・大正・昭和の剣道界を代表する高野佐三郎範士が揮毫した額である。寄贈して下さった方は、群馬県高崎市に住む荒木流学心館岡田道場の五代目岡田素教氏である。将来、我が国剣道界のために尽くす学生や剣友会会員のために、この扁額を日体大の剣道場に掲げることが目的である。

克堪克忍 (2)

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 岡田家では運搬の際に、どこかにぶつけて破いたり傷をつけたりしてはいけないと、この額を丁寧に布で包み、紐で結わいて寄贈してくれた。一週間ほど拙宅に保管し大学に運んで、どのような字が書かれているかワクワクしながらも恐る恐る紐を解いて布を広げた。が、右から二つ目の文字が読めない。四文字のうち三文字までは理解できたがどうしても一字読むことができなかった。立会ったのは5人だったが、私を含めて誰も読むことができなかった。

 心残りだったが、取り敢えず師範室に保管して文字が分からないまま帰宅した。この日は稽古日だったから、翌日『漢和辞典』と『書体辞典』で調べようと思っていた。ところが夜の稽古の時、拙宅から扁額を運搬してくれた興武館館員の日髙亨(あきら)さんが、インターネットで調べたら見付かったと言って、コピーして持って来てくれた。アナログ人間の私は、インターネットで調べることなど思い付かなかった。分からないことを調べるのに、今はそういう方法があるのか……。

コピーには以下のように書かれていた。

 「堪忍(かんにん)-たえしのぶこと。剣道の修行はこの堪忍の連続である。修行とは文字通り『行を修める』ことであるから道の修行に忍耐は必要不可欠。それも、ただ堪え、ただ忍ぶのではなく、克(よ)く堪え、克(よ)く忍ぶことが肝要である。『孟子』では、よく堪え(堪え尽す)、よく忍ぶ(忍び尽す)ことが修行の目的を達成する早道であることを訓えている」。

 この部分は範士九段佐藤貞雄先生が『克堪克忍』と揮毫した「書」の説明書きである。佐藤範士は、大正10年(1921)、新潟県中蒲原郡横越村から上京し、神田にあった明信館本部修道学院に入門して高野佐三郎先生の下で修行した。佐藤範士が「克堪克忍」という書を揮毫した理由を孫の玉川学園教諭佐藤二郎八段に聞いた。授業の合間の短い休み時間だったが快く説明してくれた。

 皇紀2600年(昭和15年・1940年)に、高野佐三郎先生から「克堪克忍」と書かれた書を頂き、その書は額にして現在も自宅の一室に掲げてあるそうだ。さらに佐藤範士は御自分でも「克堪克忍」と揮毫し、師範をされていた玉川学園の剣道場の玄関に掲げてあるとのこと。

 盈進義塾興武館の館員鈴木敏郎君が玉川大学工学部で剣道部出身だが、毎日その額を見ながら稽古に励んだことだろう。

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  30年前、盈進義塾興武館の「盈進」の意味が知りたくて父に尋ねたことがあった。

 「それは『孟子』に書いてあるから自分で調べろ」と言われ、書店に行ったら(上)、(下)二巻あった。取り敢えず(上)だけ買って読んだがなかった。父に「(上)にはなかった」と言ったら、「じゃあ、(下)にあるんじゃないか」と言われてまた買いに行った。(上)は264ページだったが、(下)は約2倍の厚さがあり514ページ。「これを読まなくてはならないのかあ」と唖然とした。読み進んで行ったら、(pp.79)にあったので、案外早いうちに見つかったとひと安心して父に報告した。

 父曰く「折角買ったのだから最後まで読んだらどうだ」。それもそうだな、と思って全部読んだが、かなり時間が掛かったことを覚えている。

 その本には証拠が残っている。私の読書法は知る人ぞ知るで、大事な箇所や心に残った箇所に赤線を引いたり、自分の思いを書き留めたりする癖がある。だから図書館で調べて、「これは参考になる」と思った本は書店で購入してきた。人に本を貸すと、「赤線が引いてある所だけ読んだよ。それだけで充分だった」と言われたりする。最後に赤線が引いてある箇所は本文442ページの中の(pp.431)だった。聖人の言葉なので二つ程書いて置く。

 「尊貴な人に自分の意見を述べる時には、気後れせずに相手を呑んでかかれ。その人の堂々たる富貴の様子を眼中におくな」(pp.429)。私は在職中にこれを見習ったために、大学幹部から随分叱られた苦い思い出があるが、後には周りが評価してくれた。もう一つ、「人の本心(善)を養い育てるには、いろいろの欲望を少なくするよりも良い方法はない」(pp.431)。

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 30年前を振り返り、折角の機会なのでもう一度『孟子』を最初から読み直し、「克堪克忍」という四文字を探すことにした。コロナ感染症流行(変異型を含む)による第4波に備えて、「まん延防止等重点措置」に伴う外出自粛を利用し、与えられた時間を有効活用しようと思う。このような機会を与えて下さった寄贈者の岡田素教様、この縁を繋いで下さった鈴木孝宏先生に感謝している。

 これからの修行のために2300年前の聖人の言葉を噛み締めているところだが、再読しながら感じていることがある。文明・文化は進歩したが、人の心の中は2300年前と全く変わっていないことに気付く。

令和3年(2021)4月21日

於松籟庵

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