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その32:海外剣道交流(2)

樫の木剣友会との27年 1⃣

 樫の木剣友会のリーダーで剣友のトレバー・チャップマンは、不治の病を患い丸2年間病と闘ったが、平成29年(2017)10月19日、60歳になる直前に亡くなってしまった。時間が経つのは本当に早い。私よりも10歳位若いのに本当に残念でならない。イギリスとの剣道交流はほとんど樫の木剣友会を中心としたものだった。そういう意味でトレバーの存在が大きい。

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 40歳の時、大学のサバティカルリーブ(研究休暇)でイギリスに長期滞在した。形は留学だったが、私としては遊学の方が相応しい。

 私が滞在したノッティンガム大学のキャンパスは市の中心部からバスで20~30分の所にあった。宿舎は最初大学構内にあるゲストハウスだった。2階建で1階に寝室が1部屋とダイニングとキッチンそれにバスルーム、2階に寝室が3部屋あり、バスルームもあるという大きな一軒家。「何なんだ、この広さは」と思った。私一人で住むには広過ぎると困惑した。翌日デニス・スミスに聞くと、家族5人で来ると思ったと言うのだ。家族5人ならちょうど良いが、今回は私一人だと言うと、「確かに広い。でもゆったりしていて過ごしやすいのではないか」と言う。まあいいか、と思って一晩寝てみた。誰もいない家で静かだったが、4月の初旬で風が強く、建物の周囲は大木に覆われていたから恐ろしい音がして眠れなかった。

 翌日、「静か過ぎて眠れないから、人の気配がする部屋に交換して欲しい」とデニスに頼んで学生食堂の隣に代えてもらった。本当は静か過ぎて怖かったのである。新しい部屋はダイニング、キッチン、バスルーム、寝室の4つに区切られていて私には快適だった。朝は学生より早く食堂に行き好きなものを食べた。何しろ壁の向こうは食堂だったから、食いしん坊の私には居心地が良かった。それに窓のカーテンを開けると学生たちの行動が見えて楽しかった。学生というのは日本もイギリスも同じだなと思ったものだ。

 イギリス到着後、最初の日曜日に町へ出たらとても賑やかだった。ところが、キャンパス周辺は市の中心から離れているので静かだったが、唯一のスーパーマーケットは休みだった。おまけに学生食堂も日曜日は営業していなかった。そのため日曜日の夜なのに、買い置きはないから食べるものが何もなく、お腹がグーグー鳴って目が回りそうだった。失敗を早めに経験したお蔭で、それ以来一度も空腹を味わうこともなく過ごすことができた。

トレバーと剣道形

 剣道の稽古は着いた翌日から始まった。月・水・金の週3回で午後7時から9時までの2時間。興武館と同じ曜日、同じ時間帯だと思って何となく親近感がわいた。道場は古い体育館だったが床は木だった。バスケットボールや体操のために造られていたので、少し堅かったが木の床は有難かった。膝や腰の痛みが起らなかったのは幸いだった。道場は床が命とはよく言ったものである。

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六段昇段を祝い一刀流溝口派之形をBKAセミナーで演武

 しかし、体育館で驚いたのは、稽古をする床の上に土足で上がって平気な顔をしている事だった。これが紳士の国イギリスかと思った。

 イギリスに着いて2日後の稽古で迷った。自分の常識だけが正しいと考えることは、最も大きな誤解を生むからだ。それに欧米では土足で家の中に上がるのが常識だから、言うべきか黙ってイギリスの習慣に従うべきか。迷った結果、衛生ということを考えたらやっぱり言うべきだと思って床の雑巾掛けを提案した。幸い次の稽古の時に、皆が古いバスタオルを自宅から用意し喜んで雑巾掛けをしてくれた。修行の場を清掃することは日本の文化だ。それ以外にも、人が文化を普及することを考えると気を付けなければならないことが沢山ある。道場内だけではなく、朝から晩まで見られていることを自覚して置かなければならない。一挙手一投足を見られていると思って行動することが大事である。

 最初の稽古で、基本技術と並行して日本剣道形の稽古をすることが大事なことを伝えた。トレバーはそれに応えて1時間の形稽古を率先して行った

1. 相手から目を離さないこと。
2. 瞬きをしないこと。
3. 一本一本を一呼吸で行うこと。(これは苦しいので途中で一度呼吸してよいことと訂正した。)

 トレバーはこの3つをよく守った。この人は正直な人だなと思ったほどだ。相手から目を離さないで演武することは誰でもできる。しかしトレバーは極端で、太刀7本が終わり相手の目を見ながら瞬きもせず後ろ向きに下がった。ここまでは誰でもやるが、さらに小太刀と交換するために膝を着いて持ち替えるときも、相手から目を離さないために小太刀を手探りで探したのである。「そこまでやらなくてもいいのだけどなあ」と思ったと同時に、この人は本当に素直だなと思った。何も言わずに黙っていたら、そのうち要領を覚えて相手から目を離さず持ち替えることができるようになったから不思議だ。

 瞬きをしないこともそうだった。剣道形10本、瞬きをしないと約7~8分瞼を開けたままである。最初は皆が涙をぽろぽろ溢しながら形の稽古をしていた。しかし慣れとは不思議なもので、何時しか皆瞬きをしなくなった。

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 スポーツだけではなく各界の指導者に「どういう人が伸びますか?」という質問をすると、「素直な人が伸びる」とほとんどの人が答える。素直な人は言われたことをよい方に考え、受け止める心を持っているからだ。そういう性格でないと言われたことを吸収できないと思う。指導者はその人が伸びるようにアドバイスするわけで、押さえ込もうと思っていないわけだから、素直な人は技術的にも人間的にも向上するのだろう。

 特に剣道は、毎回同じ基本稽古を繰り返し、単純な技の稽古の繰り返しで退屈である。技術的にも昨日と今日とはほとんど変わらないようだけど、素直な人は確実に向上する。それを続けて行けば、いつ伸びたか分からないけれど確実に向上する。素直ということは、目上の人の言うことをただ愚直に鵜吞みにするということではない。それには「誠実」という意味も含まれている。

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 最初に会ったときトレバーは初段だった。剣道形と基本だけの稽古を週3回休まず行い、1ヶ月後に昇段審査に臨みトレバーは二段、デニスは三段に昇段した。

 二段に合格して数年後、三段を受験するために初めて東京にやって来た。東京はホテル代が高いので興武館に泊めた。剣道具と寝袋持参で3週間宿泊した。朝起きたら顔を洗う前に雑巾掛けと鏡に向かって素振り500本が条件だった。「私にとって、道場の床とあなたの顔とどちらが大事かというと、道場の床の方が大事なのだ」といつも冗談で言っていた。

 トレバーは毎日6時に起きてやり通し、床がきれいになった。週1・2回講談社野間道場にも連れて行った。そのときは雑巾掛けと素振りは免除したが、帰宅後素振りをしていたようだった。その効果があり三段は無事に合格した。審査は新宿区剣道連盟の審査会で受験した。合格発表後、新宿剣連の羽柴稔惇会長が全員に講評の挨拶をしたが、このときの言葉を今でも忘れない。

「合格した諸君、誠におめでとう御座います。しかし一言苦言を申し上げる。剣道形はなってない。三段に合格した外国人が一番上手かった。日本人は何をやっているんだ。外国人を見習ってもっと剣道形の稽古をしなさい」。お叱りの講評だった。その人こそトレバーだ。オランダのアントン・バーガスもその場に一緒にいたので良く覚えていることだろう。それ以後彼らは大の親友となり、アントンは2005年から始まったBKA剣道セミナーにも、毎年オランダ・ロッテルダムからイギリス・ノッティンガム州Ollerton村にやって来て通訳をしながら稽古をした。

令和3年(2021)5月11日
於松籟庵

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