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世界文様散歩2 先ずは日本から

前回、アイヌの文様について少し触れました。ですので今回もまず日本の文様について語っていきますね。

とても馴染みのある日本の文様に「家紋」があります。家を表した日本固有の紋章で、起源は平安時代に遡ります。出身を表していますから、つまりこれもアイデンティティの現れですよね。奈良時代までは装飾目的として文様が描かれたことが多かったようですが、平安時代に入り貴族社会の下、各家固有の目印として活用され始めたとのこと。鎌倉時代には武家の間でも普及し、武家社会にも定着していったと考えられています。

また、日本の文様といえば誰もがイメージしやすい着物の柄があります。江戸時代の町人文化の下では華やかで大柄の文様の流行や、武家の格式高い礼服の文様であった「小紋」も、歌舞伎役者が身につけたことがきっかけとなり庶民への広がりにもなりました。江戸幕府から派手な柄の着用が禁止された時期(奢侈(しゃし)禁止令)には、着物の表の色柄には制約がありましたが、小物や裏地に派手な文様を施すなどして「粋」な着こなしを楽しんでいたようです。文様はアイデンティティですから、色柄を制約され自由に表現ができなかった時代はさぞ厳しかったと推察しますが、そんな時代だからこそ当時の新しい発想「粋」が生まれたのでしょう。

このように、日本には独特の文様の歴史があります。それは、江戸時代に実施された鎖国が他国からの影響を小さくしたので、国内の状況を強く反映する形になったためです。しかしそれ以前に、諸外国からの伝播はしっかりと受けていました。例えば、江戸時代にすでに存在し現代でもよく知られる「かすり柄」。この技術は、実はアジアのインドネシアが起源という説があります。ヨーロッパからアジアまでのルートを、人、モノ、工芸、宗教など様々な文化が行き来したご存知のシルクロードは、鎖国よりもずっと以前から存在します。そして、いわゆる王道のシルクロードだけではなく、小さな貿易関係も数多く存在していました。そしてシルクロードの終着地が何処なのかについても、奈良などの諸説があります。あらゆる文化や技法が大小様々なルートで広がっていた時代と言えますが、布を織る技法に絞って着目すると、アジアから琉球王朝へのルートも一つ重要な視点であると考えられます。そこについては次回触れることとして、今回はもう一度平安時代に視点を戻します。

平安時代、神社仏閣などに施す文様も、とても重要な役割を担っていました。写真は京都の平等院鳳凰堂内の装飾で、極楽浄土を表したものになります(筆者による模写)。繧繝彩色(うんげんざいしき)という技法、いわゆるグラデーションの様に彩色を施したもので、宝相華(ほうそうげ)と言う架空の花をモチーフにした唐草文様になります。「極楽」を表していますのでまさに夢のような景色、死への恐怖を和らげるための装飾、人の願いや希望が込められています。文様は個人のアイデンティティの表現や魔除け・お守りのみならず、宗教観の願いや希望まで担う。文様の仕事は実に多岐に渡っており本当にきりがありませんが、人が古代から「より良い方向に進む」ための大切なツールとして、いつも人に寄り添い、傍にあったように思います。そしてそれは、紛れもなく現代のデザインであり、無限の可能性を秘めていると感じます。

今回の最後に、日本最古の文様について少し触れます。それはやはり縄文時代の文様といえると思います。先に触れたアイヌの文化は擦文文化になりますので、縄文はそれよりもさらに広い範囲の文化です。縄文といえばデコラティブな装飾の火焔土器が有名です。まつりごとのために造られた説もありますが、煮炊きをする道具であった説としては、一手間加えたことで柔らかくなったり美味しくなったりして食べられる様になったことへの「感謝」や「崇拝」などが込められているとも言われています。また、縄目文様を施した土器もありますが、それらの縄の意味は「結界」であったとも言われています。しめ縄の様に、不浄なものを中に入れないという意味が込められていたとされたり、また、縄で蛇をかたどって「生命力」や「再生力」などを表現したものという説もあります。何れにしても、人は文様を施す時に、何かにつけポジティブな意味や思いを込めているのですよね。いろんな意味の「幸せ」を表現しているとも言えそうです。

ちなみにテキスタイル(布)の最古の文様は、「縦格子柄」と言われています。いわゆるシマシマ模様です。シマシマの色の組み合わせも無限に存在します。無限の存在は唯一無二になり、これもアイデンティティの表現ですね。

読んでいただきありがとうございました。


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