【メモ】尊敬が道を切り開くのか?
2021.02.23
1. 絶賛、「ほんとうにやりたかったことをやりなさい」実践中
前のnoteで書いたように、友人から紹介してもらった、この本を実践している。
ずっとやりたかったことを、やりなさい。
ジュリア・キャメロン (Julia Cameron) ¥1,158 (Kindle)
僕の現在の使い方は以下のとおりだ。
① この本は「実践すること」が重要なので、書かれた課題はトライしてみる。
② ところどころ気になるワード・腑に落ちないワードがあるので、
それらをWordファイルに抜粋してちょくちょく見返す。
(最近は半分くらいメモするようになってしまっている)
③ モーニング・ページとアーティスト・デートに取り組む
いま、4週目の部分を読んでいる状態。
2. モーニング・ページのやり方を変えてみた
昨日、この本を紹介してくれた友人とZoom飲みをした。
彼も愛着障害・AC克服に取り組んでいた人で、
欲求開発とかについてはむしろ彼に教わるところも多い。
僕は、モーニング・ページは朝、出勤前の15分くらいで、1ページの半分くらいだけ書いていた。
書くイメージとしては、
・ノート療法に近いかんじ
・理性さん的な思考で問いかけつつ、感情さん的な感覚で答える対話形式
これだと、今現在自分が何を考えているか、何を悩んでいるかなどはわかる一方で、考えながら書くから時間がかかるし、「考えたもの」が出てくる感じだった。
そんな話を彼にしたところ、「もっと脳汁を垂れ流す感じでやってますよ」
というアドバイスを受けた。
彼は、ちゃんと丸々3ページ書いていて、30分くらいで終わるらしい。
なるほど、脳汁垂れ流しか。
たしかに、ノート療法やってたときも、脳汁垂れ流しモードのときが一番感情さんが顔を出してきてた気がした。
そこで、今日のお昼休みのタイミングで、脳汁垂れ流しモードでやってみた。
とはいえ、いきなりどうやったらいいかわからなかったので、
・思考はしない(考えたものは書かない)
・字が汚くても気にしない(読み返さない前提)
・頭に浮かんだ「心象風景の映像を言語化してみる」
というかんじでトライしてみた。
そしたら、いままでとは全く違う内容になった。
・最初、脳汁ぶっしゃーみたいなことをひたすら書く
・日なたでやっていたので、「おひさまきもちいい」だけ書き続ける
・そしたらふと、通っていた高校の近所の田舎のスーパーが出てきたので、
スーパーだ、田んぼだ、この道で母親が車で怒涛のスピードで走ってて、乗ってるの怖かった、などの謎記憶が出てくる。
・すると、今度は川中島の戦いに出てくる妻女山が出てきたので(地元)、
上杉謙信!武田信玄!いざ勝負!カキーン カキーン、山本勘助、参ります!ってなって、書きながらにやにやしはじめる。
・そのへんで、「なんだこれ笑」って自分で突っ込んで冷静になると、
今度は本職の研究で扱っている分子名が出てきて、それがぐるぐる回ってそれ以上頭の中が進まないかんじになる(研究で行き詰まっているからかも)
・嫌になったので、思考を変える。
窓の向こうにバイパスが見えて、車運転したいなぁとか思っていたら、
自分の実家から父親の実家までの高速道路の映像がでてきたので、
途中のサービスエリアとかICとか、ここで大きくカーブするんだよな、みたいなことを書いていく。
・その途中に、葛飾北斎の美術館みたいのがあって、「ここ行きたいな!」と脇にメモする
…という具合に、非常にカオスな展開になった。
このやり方だと、「思考につまってペンが先に進まない」ということがないので、
たしかに30分くらいで3ページ書けた。
やりながら、「なるほど、こうゆう風に違うのか」と気づいたのでメモしておく。
・ノート療法の場合は、そもそも感情さんを見失っている状態なので、
対話形式にして出てきてもらう方が効果的だったように思う。
この場合、「心の中を分離させる」ことで、理性的部分と感情的部分をそれぞれ際立たせる、という構造になる。
・今回の「脳汁垂れ流しモード」の場合は、むしろ「理性的部分と感情的部分をぴったり重ね合わせるイメージ」で、なおかつ感情的部分からの発露と思われる心象風景をただただ描写することで、「思考」ではなく「感じているもの」をノートに投影する、という構造になる。
それぞれが良い効果がありそうな気がするので、しばらくは併用してやってみよう。
3. 「尊敬」がわからない
「やりたかったこと本」の中で、最もしっくりこないフレーズ・課題。
それが、「尊敬」だ。
これ…ほんとに心の底から、直感的に、わかりますか?
僕はよくわからない。
この、「よく使われている一般的な概念」が腑に落ちないという感覚。
ちょうど、「愛情」がわからない、「感謝」がわからない、というときのアレに近い…
例えば、芸能人で尊敬している人、というと、
hyde, 爆笑問題 太田光、ライムスター宇多丸、荻上チキ、ジェーン・スー、
などが出てくる。
なぜかというと、「すげー!」と心の底から思っているからだ。
身近な人だと、大学院時代の人たちにも、「頭の回転速いな」とか、
「喋りうまいな」とか、「ソフトボールまじでうまいな」など、
すげー!と思う人が色々いた。
では、この「すげー!」と思う感覚が、『尊敬』なのか?
ここで、似た言葉を出してみる。
「憧れ」だ。
小さい頃からの記憶を掘り出してみると、
三国無双にはまっていたころは諸葛孔明とか竹中半兵衛みたいな歴史上の人物に憧れてた気がする。
大学入った後、カラオケにはまったころにhydeとかギターのkenちゃんに憧れたりしたな。
そして最近は…いない。
言葉とは不思議なもので、遣い方を見ると本質的に理解できたりする。
ネットで簡単に調べてみると、「憧れ」は人にも物事にも使うようだ。
憧れのスポーツ選手、憧れの職業、憧れの結婚生活、など。
つまり、「憧れ」とは自分が実際のなりたいものとか、こうゆう状態になりたい!という理想、と言い換えることができる。
現在の僕は、「理想」とか「価値観」をぶち壊してしまっているので、「憧れ」という感覚が消えているのも、さもありなんというところか。
一方で、「尊敬」という言葉はどうやら「人にしか使わない」らしい。
そうすると、単なる「すげー!」とは違うことになる。
僕がhydeに感じるすげー!は、ラルクの曲に感じるすげー!と大差ない。
この感覚が近いということは、hydeに対して感じるものは「尊敬」とは違うものなのかもしれない。
同様に、荒木先生に対する「すげー!」と、ジョジョに対する「すげー!」も近い気がするから、ここも尊敬とは違う…のかも。
こうやって考えていくと、
「尊敬」というものを僕らは本当に理解しているのだろうか?
と疑問が深まってくる。
妻に聞いてみると、
妻はジェーン・スーさんを尊敬しているようだ。
感覚としては、「簡単にはなれないけど、自分の人生のけっこう遠い先の方にいる存在」らしい。
あと、生き方とかがすごい、と思うかんじ。
ふーむ…いいたいことはわかる、
けど、何かが腑に落ちない。
もうちょっとネットを調べてみると、
海外では、尊敬する人がいるってのはかなり重要で、
それはロールモデル(将来の自分像)にもなるらしい。
歴史上の人物、身近な先輩、etc...
そうすると、ますますわからなくなる。
憧れと、何が違うんだ?
わからんわからん…
僕はだんだん嫌になってきていた。
ところが、だ。
自分で書いた尊敬する人リストの中に、TBSラジオの崎山敏也記者の名前があった。
崎山記者は科学系のニュースを担当していて、現在も地道に原発関連の発信をしたり、など「すげー!」と思っていた人の一人だ。
いま、まさに苦悶している、「尊敬って何?」問題を考えているときに、
ふと、「崎山記者のところで働いてみたいな」という考えが浮かんだ。
今までラジオで働いてみたい、とかは考えたことはあったが、
記者として働くという発想はまったくなかった。
突飛な発想だし全く現実感はなかったが、おもしろいと思って色々妄想してみた。
そうすると、意外や意外、ニュースのための調べごとをするとか、原稿を書くとか、現地に取材にいくとか、妄想の中では全然苦ではなかった。
むしろ楽しいくらい!
(取材するときのコミュニケーションどうするんだ問題は、おいておこう)
自分が記者として働く、というイメージをしてみると、
今まで単純に「すげー!」と思っていた人たちが、
ある種のロールモデルのように感じられる、という感覚になった。
あの人みたいになってみたい、この人みたいになってみたい…。
単純になりたい!という「憧れ」というよりは、
少しずつでも近づいていってみたい、という山登りな感覚に近い。
これが、「尊敬」なのか?
深夜テンションで、一過性の風邪のようにそう思っているだけかもしれない。
後々見返したときのヒントになるように、ここに書き留めてこう。
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