【メモ】悪と正義と、善と不正と

2021.03.29

特に書くつもりもなかったのですが、
なんかビビッと感知してしまったので、書き留めておく。

僕は最近、ジョジョの考察を書いている。

その中で、「悪 = 利己」、「正義 = 利他」と書いた。

そのへんの話。


よくよく考えると、「悪」の反対は、「善」だよね笑
英語で言えば、「悪 = bad, evil」、「善= good, virture」

では、「正義」の反対はなにかといえば…

「不正・不義」だ。
「正義 = justice」、「不義 = injustice」

「悪」と「正義」というのは、そもそも対義語ではないのだ。

というよりは、「悪  vs 正義」というのは、近代的な価値観なのかもしれない。

そもそも、「正義」とか「不義」っていうのは、
どこかに「絶対的な価値基準」ってものが存在するから成り立つ話だ。

キリスト教的価値観の世界ならば、それは教義であったり、
あるいは神の意志に従うもの、になるのだろう。

一方で、「善」とか「悪」ってのは道徳的な価値観だ。
道徳ってものは、「人としての良い生き方を示した道」のことで、
武道・剣道・書道・茶道の「道」だ。
道 = 生き方。

だから、「善」ってのは、「道 = 生き方」の観点から良いことで、
「悪」ってのは、「道 = 生き方」の観点から悪い事だ。


だが、「悪」と「正義」という新たな対立軸で考えると、
これらの漢字は異なる意味を帯びてくる。
荒木先生が示した「悪 = 利己」、「正義 = 利他」という考え方は、
宗教的価値観や、道徳的価値観が崩壊してしまい、まったく価値をもたなくなってしまった現代において、僕らが活用できる実践的思考のように思う。

で、ここからが本題。

「義」という漢字だ。

僕は、「義 = 他者」を指すと考えている。
・義理 = 血の繋がりのない他者、あるいは他者に対する接し方
・仁義 = 人間愛 > 他人に対する愛情 (「仁」という漢字は、愛という意味)
・義足 = 自分の足ではない、代替品の足
・義憤 = 他者のために怒ること

そうやって考えると…

「正義 = 他者のための正しいこと」という新たな解釈をつけ加えることができる。

まさに、荒木先生が唱えた「正義 = 利他」につながる。


さらに。
「悪 = 利己」であるならば、絶対的悪という存在はありうる。
全ての人にとって良くない、ってのは成立するから。

だけど。
「正義 = 利他 = 他者のため」と考えると、
はたして「絶対的正義」というものはありえるのだろうか?

絶対的正義とは、「どのような相手に対しても、どのような状況でも必ず成り立つ正義」と言い換えることができる。
しかし、最初こそ「利己的な悪」がいて、「利他的な正義」が立ち向かう、という構図が成立したとしても、悪がいなくなったり、あるいは正義を必要としていた人の状況が変われば、「他者のため」という正義の存在理由がなくなる。
つまり、「正義 = 利他」という前提に立つと…

「正義とは、常に相対的なもの(関係性によって初めて成立するもの)であり、
絶対的な正義はありえない」

ということにならないか?

だから、コロナ禍で世の中を騒がせている「自粛警察」や「正義中毒」といったものは、そもそも「正義 = 利他」という現代的な価値観を見失っていて、
「正義 = 絶対的な価値基準を前提とした正しいこと」という、
現代の日本では失われてしまった宗教的・道徳的価値観にしがみついていることに気づいてないのだ。


書きたいことかけたー!

スッキリ~!

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