花いちもんめをするなら

誰とやるのか考えろ。


今回もいつかのわたし(と誰か)のためになることを願って書く。
願うというか……もはや祈りって感じ。希望を託すだけ。
今回は副題を振る気力もないのでばーっと書いていく。

さいごのひとり、というひとについてたびたび考えている。
この世で最も救われがたい、さいごのひとりとはどんなひとなのだろうかとかって。
昔はそういうひとをも包摂する社会制度ってどんなものなんだろうかと考えていたのだが、最近は少し変わってきた。いやそれは前提として保たれているままだけれど、「さいごのひとり」はそれをどうやって認識するだろうかと。主に当人が。(社会制度の側は結局そういう選別をしなくなってようやくさいごのひとりを救えるだろうなーと考えている)
自分の苦労を、つらさを認識することの難しさたるやかくも、と日々思い知らされている。ところでこの日本語あってる?

世の中に明確な苦しみはたくさんある。
疾患や障害はとてもわかりやすい(ものもある)(わかりにくい疾患/障害もめっちゃ多い)。
大野更紗さんの著書「困っているひと」はひとりの当事者の記録として素晴らしく良くできてて、わたしは徹底的に打ちのめされたのでみんな読んでほしい。
「困っている」ことについて言語化するのは難しいし、それを周囲が理解するのも難しい。
困りごとは当人の心身そのものに起こることと、それを包摂している社会との接点に起こることの当然両面があるのだが、この本は両者ひっくるめて素晴らしくわかりやすく書いている。この方がどれほどにとんでもない苦痛や生きづらさを帯びることになったか。
ちなみにこの方は現在寛解状態にあるらしい。
わたしはそれを知ったとき、ものすごくよかったなあと思うとともに、著書を読んだときと同じくらいまた打ちのめされた。

困難に対して、それが可視化されている。可視化されているから打つ手がある。
わかりやすすぎるなと思った。
もちろん可視化されていてもその「打つ手」というのがまだないものは山のようにある。難病と言われるものはことごとくそう。障害も障害と言われ得るあいだは、充分な支援に至っていないということだ。
あとこの方が素晴らしい言語化をしたことと医療が成果を上げたことは関係ない……。難病として適切に診断され、研究がされ、薬が開発される。この場合の可視化とはそういうことだ。

苦痛の度合いと困難の度合いは、違うと思った。
苦痛に由来する困難はもちろんある。だから重なったり比例したりする部分は当然ある。
それでも、イコールではないと思った。

困難とは、苦痛を自他が認識し、できうる限り尊重し、和らげる――それができないことを指すような気がする。
花いちもんめに参加できないこと。


前置きはこのくらいにして、今回も脳内キャッシュを削除します。
前回記事の続きなのだけれど、最近、部分的に発達障害の症状があると言われた。で、薬飲む(ために自立支援医療使う)? 障害年金検討する? などいろいろ社会福祉の領域の話が出てきた。
とても情けない話なんだけれど、わたしは診断っぽいものと社会制度を利用する可能性を得てようやく、自分のこれまでの苦労やつらさは、認めても良い類のものだったのか、と思った。
(なにが情けないのかというと、本当は診断やらなんやら置いておいても認めていいはずで、しかも曲がりなりにもひとの支援を志す仕事をしているならなおさらだろう、ということ)
発達障害の症状があることについて言われてから毎日ずっと思っているのは、「わたしのこれまでの苦労ってなんだったのだろう」ということだ。
昔からずっと自分は人並みのことはなかなかできない、でもすごく頑張れはそこそこにできることもある(もちろんそれでもできないこともある)、と感じてきた。
あるいは、自分がつらいと感じることについて、周りはなんとも思ってなかったりもした。
わたしの苦労は、名前がついて、認められるものだと思えなかった。
大変なんだと知られたら、それは努力不足だとか、致命的な欠陥があるとか、そういうふうに言われかねないなと思っていた。(だから自分の大変さを知られるたびに仕事を辞めてきたんだな~と振り返っている)
どうせ周囲は認めてくれないのだから、と、自分でも認めようとしてこなかった。
なのに今に及んで! なのである。
わたしは苦労していたし、理解されなくてつらかったし、人並みに振る舞うには多大なエネルギーの浪費と消耗がある。そしてそれは「そういうもの」でしかなかった!
それを知るのに27年もかかる? ほんとにわたしのこれまでってなんだったのだ。
わたしはこれから、まあせいぜいまともな自我と記憶がある20数年分だとしても、そこに膨大に残してきてしまった、(自他ともに)認めてこなかった悲しみ、つらさ、その他もろもろに自ら手当てをしなくてはならないのだと思った。
大げさじゃなく「一生分」のつらさが押し寄せているところなので、このところは毎日泣いている。

さて、さんざんに泣いてスッキリできればいいのだが、わたしはいまだに本当に認めていいのか、そして認められるのか、と疑っている。
生きづらさは明確に感じているが、それは本当にわたしだけのもので、残念ながら他人に伝えられるとはさっぱり思えない。
発達障害の症状があると言われた、と話した相手ほぼ全員に「そうは見えない」と返された。し、むしろ自分でも同じように思っている。
正直なところあまりにも自堕落なだけなのではと思う。それはもう認知に任せていたらそうなってしまうというだけのもので、それを自分でも適切に無視するというか、克服しないといけないとは思うのだが。思うのはあくまで意思であって自動思考ではないのだ~! だから難しい。
なんでこんなに生きづらいのか表現しがたい。つまりは可視化しにくい。軽微で、部分的だからだ。
わたしは苦痛は少ない、でも困難はそうとは限らない。
結局自分でも他人でも社会でも、認められないのであれば、その困難というものは、たぶん最終的には「生きづらさ」どころではなく「生きられない」ところへと及ぶ。
他者や社会に認められる可能性を知って、とりあえず自分は認めることにした。
けれど次に掌を返されることがあったらもうやっていけないと思う。そういう転換に至ってしまった。次の反転できっと困難は最大になる。
でもわたしのような軽微な生きづらさ、そして態度では、掌が返る可能性は十二分にあるような気がする。それは遊戯で何気なく、じゃんけんの勝ち負けだけで「あちら」と「こちら」をまたいでしまうような、そのくらいの軽々しさで。
二度と戻れない心地のするものがすぐそばにある。それが恐ろしい。

わたしはたぶん「努力が足りない」とか「自堕落でいい加減なだけ」とか言われたらそれはもう刷り込みとして納得してしまうし、
しかしその納得が正しくない、望ましくないことは厄介なことにわかってしまうし、
ついでにそういうこと言うひとのことはたぶんすぐに切り捨ててしまう。でも納得はしたまんま過ごしてしまう。切り捨てたから訂正する機会がなくなる。

もうどうしたらいいかわかんないな。
話が逸れるが、前述の切り捨てちゃう云々についてはたくさん心当たりがある。思う通りの答えが返ってくるとは限らないことを聞いて、「やっぱりこのひともわかってくれないんだな、じゃあやっぱりわたしの考えは妥当じゃなかったのだ隠しておこう」と思おうとする。そのために大切なひとをひとりなくす。
失いたくないひとに、失いかねないことをするのはもうやめたい。
ただ、「わかってほしい」と思うときも同じ問いをしてしまったりするのでなんかほんと……人生の無理ゲーっぷりとバグとしか思えない理不尽仕様の多さに打ちひしがれるしかできない……。
幸いにして、最近わたしに寄り添ってくれるひとは非常に心得ているので、このところはそういう憂き目を見ずに済んでるのはありがたいけれど。
あくまで自分の態度で離別フラグは回避できるようにならなくては。


とりあえず今日のところ、着地点はまったくない。
ないけどとにかく、ひとに引けないはずの線を、それでも引かないとひとも社会もやっていけないのだと、そのむなしさ難しさを思い知る。
いまの反応は急性かつ過渡的なものだと思うので、これからまた考えが変わるだろうし、振り返ったときになにかの役に立つこともあるだろうと思う。
そんな日がいつ来るだろうか。そのときわたしの傍らにはどのように線が引かれているだろうか。
線を引く場所ですべてが変わってしまう。
ゲームの参加者になることそのものが、線を引く場所で変わる。
さいごのひとりとは、どこに線を引くのかで変わる。
参加者になれなければ、勘定されない。

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