忘れているあいだの記録

〇まえがき
今回はさすがに注意書きみたいなものをつけようと思いました。(しかし例によって読むかたのためではなくわたしの気持ちひとつのためである)
いつもどおりですが今回もガンガン書いた。趣旨としては前回記事の続きみたいなもので、脳内キャッシュの削除だったり、状況やら心情の表明であったり。結果なんかやたらけんか腰な文章が並びましたけれども、すべての文章の末尾に「※あなたのことではない」が省略されていると思ってください。特定のひとにはいっさい宛てていない。読んで傷ついたとしても残念ですが手当てしてさしあげることができない……こんなnoteを読んでくださる優しいかたに敵意を向けるのもまったく本意ではない……。
あと今回の記事は数日かけていろいろ吐き出したものを時系列もごちゃごちゃに投げ出しているので、話があちこち矛盾したりさかのぼったりよくわからん仕上がりになっています。よしなに。
ではどうぞ。


〇いき場所を変える
息をする場所は、生きる場所に等しいだろうか。残る時間や鼓動や脈拍を、遺棄する場所のような気もする。などとあまりセンスのない言葉遊びをしてごまかしたかった。
とかいう導入はどうでもよくて。
転居をした。ついでに言うならもう10日以上も経った。ようやくネット環境が整備されて、こうして無事にnoteに放流できている(ちなみに実際に文章を書いたのは5/23~26日くらい)。
この10日ほどで、なんとか吐き出さなくてはと思うことが山のように起きた。でも体も心も疲労困憊でなかなかまともな言葉が出なくて。
以前書いた話に「涙や言葉で排出できるものはごくわずか、コップからあふれたものが零れ落ちるだけで満杯なのは変わらない」みたいなことを書いたのを毎日実感していた。数年前に書いたことを覚えてるもんだなあとも思った。変わってないからかもなあ。
ついでに宣伝、この話です。
季節、名を待つ
この話、頭痛であれこれできなくなるたびに思い出すのだけれど、当然この何日間かも毎日のように思い出していた。自分の内側じゃなくて外側に思い出すアテがあるのは非常に助けになるので、書いてよかったなと毎回思うし、今後もそういうものを書くことがちょっとずつ楽に生きることにつながるといいなあと思う。


〇転居に伴う恨み言あれこれ
住まいを確保することにものすっごいお金……やらいろんな資源がいることに心底腹をたて、諦念を呼び寄せられ、二日に一回くらいメンタル綱渡りになりながら家の契約やらなんやらした。
この国では数十万単位のまとまったお金が用意できて、被雇用者(というか正社員)で、健常で、家族が健在でなければ家を借りられない。
あと趣旨から外れるけどセクシャルマイノリティは望んだ相手と同居できなかったりするし、これまでしていたシェア暮らし(友人四人)というのだって相当ハードル高かった。なんか決まりきった型に沿えないと家を借りられない、生き方の多様性ってぜんぜんないんだなあとつくづく思って、何度諦めたい衝動に駆られたことか。
(※なお「諦め」とは軽度の鬱的な思考と言動のことを指す、わたし定義。希死念慮と言うと大げさすぎるのだよなあという塩梅を込めてる)
あと引っ越し屋の「今決めてくれたらこの金額で」商法にもめちゃめちゃに腹を立てていた。そういうのずるくない?
考えたり判断したりすることに圧力をかけられるのはものすごく嫌いだ。それが商売? そうですか。よくわからない。
引っ越し屋さん、約束した時間より結局2時間くらい遅れてきたのだけれども、それは現場で働いている人はひとつも悪くないし、むしろ労働環境劣悪だろうなと思ってしまってつらい気持ちになった。わたしは搾取に乗っかってしまったのだろうかと。まあ営業のひとだって正確な時間なんか読めないんだろうけど。
(別件だが搾取云々といえば、集荷を頼んだら運送会社のひとが全然来てくれなかったとか、そのうえ営業所に電話が通じなかったり、ドライバーには通じてもまともにやりとりする余裕さえなかったときにも同じ気持ちになった。し、わたしのこころが折れてしまったのでいまだに集荷に来てもらえていない)
いろいろ不毛で、生産性乏しくて、みんなで貧しく困窮している感じがして、腹を立てるのもむなしくて。しんどかった。
余力がなさすぎていろんなことを不動産屋とか管理会社の言いなりになってしまったのも思い返すたびにストレス。独占では? と思うこといっぱいあるのだけれど詳しくないし調べてないからなんともできないのも悔しい。
家借りる云々、正直もう二度とやりたくない。というかできないな、という認知にすっかりなってしまった。
限界越えのストレスを浴びる出来事が多すぎた。思い出すと今もわんわん泣いちゃう。つくづくこの国は生きにくくて暗澹とした気持ちになる。
自分の心身を慮ってたらこんなことよう出来んって感じ。結局無理をしないと生きられない、って思ってしまった。あまりに無理なことが多すぎて、さんざんひとを頼った(そういう経験が積めたことだけは良かった)けども、それでも自分でどうにかしなくちゃならないことの多さは変えられない。
それをクリアできる人間にしか住居は保障されないのだな、と思って、わたしはまたひとつ諦めと絶望を深めてしまった。
これを払拭していくのはまた何年もかかるだろうなあ。何年かで済めばいいほうかもなあ。
住居に関する福祉は日本はとくに整備の遅れている部分だけども、ひどさを実感した。
考えたらうまく息ができなくなる、という領域が増えてしまうのは、ほんと困る。けど今回は確実に増えた。
労働も居住も制度が未整備なぶん、自分が当事者として(もしくはソーシャルワーカーとして)変えていく必要性は強く覚えるけれども、結局のところそんな余力はないのだなあ。そしてそのまま死んでいっちゃうんだ。わたしは今のところ生きているけれども、わたしと紙一重の誰かが今日もどこかで死んでいることだろう。
その姿、影だけが朽ちていくさまを無表情に見下ろしているような感覚がある。わたしはいつそうなってしまうのだろうかと。
どんな楽しみがあっても、目標があっても、生きていけないときは生きていけない。落っこちて戻ってこれなくなるときはある。そういう落とし穴にネットを張る仕組みが、未整備どころかどんどん壊されている。わたしは毎日怖くてたまらない。あらゆる記録が捨てられ変えられ、報道をコントロールされて、声を上げる余力がないうちにどんどん首をしめられてしまう。やがてそのまま死ぬ。
うーん話がいつもどおり拡散してきた……。

あとそれぞれにとっての文化的な生活をしようとするとき、住宅事情に阻まれることがけっこうあるだろうとつくづく思った。
ペットとか、楽器とかね。
前にも書いたけれど、音楽はぜいたくな趣味らしい。それについてはまったく納得はしていないし折り合えないままだ。たぶん今後もそう。
住宅にはいろいろ作ったり管理したりする側の事情もまああるのだろうけれど、結局のところわたしはそちら側に立つつもりがさらっさらないので、そんな論理知ったことかと最初から理解を投げ捨てている。
住宅整備の歴史については不勉強で、事実に基づいたことは書けないのだけれど、それでも明らかに貸す側と借りる側は、強者と弱者に分けられていることはわかる。そしてわたしは常に弱いほうにつくことを選びたい(とうぜん自分がいつかふるいにかけられて弱いほうになり、そのとき切り捨てられたくないからだ)。
そういえば最近twitterでは「#私の住宅要求」というタグでキャンペーンが行われていた(さっき確認したらツイート募集はいったん終了になってた)。居住に関するみんなのいろんな声が寄せられていて、読むだけで多くのひとがいかに苦労し困窮しているかを突き付けられてしんどい。けど、そういう発信やつながりにちからをもらう部分も同時にある。
デモやらキャンペーンやらって、参与したいと思える「とき」、そしてやれるだけの体力気力財力など、いろいろ合わさらないとできない。安保法制のときは何度かデモに行けたと覚えているし、同じことが今はもう出来ないことも心底理解している。そもそもあの場の光や音、警官だけじゃなくてデモ参加者側の態度含め、いろんなものはあの当時だってかなり苦しかった。
のはわたしの器質と発達によるところも大いにあるらしい、そのへんは後述できればする。


〇なにかの話題を転換する
そういえば最近職場で、「無理や負荷がある状態になってからでは相談するタイミングとしてはすでに遅い」という話をした。いや、された。
社会福祉とか変革の歴史を見ると、たいてい困窮している当事者が声をあげ行動して変わってきているわけだけど、逆を言えばそれは「そのときまでその変化が起きなかった」ということな気がする。それはつまり、どれほどちからを振り絞っても声をあげるほどのエネルギーに集約できない、という状態での長い経過があるのかなと思った。
転換点はこれまでにもある、でもそれは奇跡的なことに思えてしまう。もうちょっと現実的に(そして建設的に)考えると、草の根の努力のたまものなのだろうけれど。声をあげるエネルギーはたまたま天から贈られるようなものではなくて、懸命に連携することでようやく得られたるのだろう。
でも当事者が声をあげなくては変えられないなんて、なんて野蛮で、残酷なんだろう。わたしは元号云々の話題は嫌いだが(皇室は日本でもっとも人権侵害を受けていると思うから)、「令和の時代」とかなんとかいうなら、そういうところも少しは考えたらどうなのか、と思う。
そういうこというと「自分が楽になりたいだけなんだろう」とか言われる気がするが、言ってろとしか言えない。(※言われてない)
自分が当事者じゃないから異を唱えない、という態度がなにを招いてきたのか学ばない、少しでも考えようとしないのは生きるのサボってるのでは?
我ながら荒れてるなあと思うけれど、だって今にも泣きそうなんだ、と誰かが返事をする。連日頭が痛くて耳鳴りと視界の暗さがおさまらなくて、気を抜くと涙が出てくる。それはけっこうやばいときの反応だということをさすがにもう知ってる。
ちなみに原因の半分は寝不足なのでほんと人間寝れないと不穏になるということがよくわかる。ちなみにもう半分は金銭面の不安なので、人間貧困でも不穏になる。いや人間が不穏になる原因なんて山ほどあるけどな。

めちゃくちゃ話が逸れている。
そう、職場での話。
わたしはなにをそんなに強固に、ものを相談することを拒否しているのだろう? と思った。過呼吸と涙と本音をさらすくらいならクビになるほうがまだ良い態度だと思うのはなぜなんだろう。(なお実際良くないし、そもそもさらさずに済んだためしはない)
仕事というものをどんなふうに捉えようと、建設的に持続的にやっていこうと思うならば、それなりの意味合いとか、いうべきことを言う態度とか、必要なのだろうなあ。
そういうふうにとても思えなくて。
わたしはいつも仕事をする場というものに強烈な疎外感を覚える。
わたしの価値観は預けてはならないと思う。
通勤電車に乗るのはそもそも気がくるった行為だと本気で思ってるし……被雇用者の安寧なんてみじんも感じられないし……。
働いている自分への違和感はいつだってビシバシにあるのだ。でもそれは悟られてはまずいという強烈な感覚がある。余計に奇異の目で見られて排他されてしまう。現状働かないと生きていけないのにそれでは困る。
いつも緩やかに首をしめられている気持ちがして、見張られているし試されていると思っている。
気づきたくない、見ないふりをしていたい部分だ。見つめてもあんまり得しない。生きづらさをつのらせるだけだ。
でもたまにどうしようもなく気持ち悪くて。
長く働くの、ぜんぜん当たり前じゃないよ。労働を維持するための行動もすごく不気味に感じられて仕方がないときがあるよ。
でもそんなのにとらわれて生活を壊してしまうのは、まずい。まずいとわかっていることをひたすら見つめようとしてしまうときがあるのは、わたしの病的な部分なのだろう。(でもそこを否定されたらすねるというか見限る、というのを繰り返してきたから肝心なところで信じて頼ることをいつまでも学べずにきたのだろうな)

こういうとき、「でも親よりは生きなくては、欺きとおすために親の亡骸を確認しなければ」といつも思う。
親は悲しませたくない……というよりも、わたしの苦しみを親には悟らせたくない。たぶん母は、それはわたしの課題であって親の課題ではないのだと、分けてはくれないから。
あーでもさすがになんか、生きる理由としては非常にむなしいよね……。
このへんあんまり考えたくないシリーズ。


〇更に話題を変える
いまさらながら通院歴やら疾患についての話を書く。自分のことを書きまくる場所なのにそういえば書いてなかった。
わたしはもう何年も精神科クリニックに通っている。大学四年生の春学期で精神保健福祉士の実習を夏休みに控えていたのだけれど、いろいろあってあまりに心身がずたぼろすぎて辞退した、あたりがきっかけ。
当時、とても勉強どころじゃなかった。頭は回らず体も動かず、涙ばかりがぼろぼろ出てきて、どこでどう過ごしていても強烈な恐れと不安でいっぱい。家にいたら余計怖いのにまともに電車も乗れず、なんとか大学に行ってもひとと話すことができない。言葉が選べないし喉と息がひたすら詰まる。
あのころダメになって、今もなおダメなものがけっこうある。筆頭は携帯電話の着信画面とバイブの音。飛び降りる、と友人が語った電話を思い出す(幸いにしてその出来事自体についてのトラウマは手放した)。
話が逸れたぞ!
ともかく、さすがに打つ手がなく途方に暮れて、あと世の中への申し訳のために医療機関にかかってみることにした。6年前のたぶんちょうど今頃だったはず。

なぜいまになって書こうと思ったかというと、先日の通院で診断……ではないが、わたしを説明する言葉が増えた。
そもそもわたしのドクターはあまり診断名でものは語らないのだけれど(意図は知らないけれどわたしは良い意味だと思うようにしている)、それでも何度かわたしを説明するための言葉を口にしている。
初診のとき、それからその後何度か仕事を辞めるときのカルテには「適応障害」と書かれていた。
診断基準をほぼ満たさない程度に、気分変調症的な性質があるという説明もあった。「調子の波」「ストレスの受けやすさとそれに対する弱さ」「ゆらゆらしやすさ」という言葉を何度か繰り返し聞いている。
さてこれに加えて先日言われたのは、「くたびれると情報処理や注意集中がうまくできなくなる」「発達障害の部分症状」。
主治医自身、「つい今、そうかなって思いました」「何年もかかって申し訳なかったですね」と言っていた。
わたしはなんだかこの言葉がやたらと腑に落ちて。実際コップの水がわずかに抜けた気がしたし、わたしの悪夢も少し退けてくれた。(連日夢見が悪すぎたのが、この日あたりから寝られるようになった)
6年も専門家が診察してさえそんなものなら、わたし自身でどうにもわからないのなんて当然だったなあという気持ちと、わたしのいろんな生きづらさや違和感は脳機能によるものと考えてよかったのだなあという気持ち。
いろいろどれほど努力しても変えがたい構造というか、戻ってきてしまう認知と言動というのがずっとあって、それについてつくづく病んでいたのだけれど、今回のことによって少しは緩められるだろうか……。
まだまだわからないけれど、自分を説明する一助となる言葉が増えるのはよい。それで言い尽くせないものは、依然としてあまりに多いにしても。


〇まとめ(ではない)
さて結びとして現状のまとめというか、課題の進捗というか。
ちゃんと転居ができたのはほんとによかった。いまのところなんとか仕事も行き続けられている(能率はめちゃめちゃに落ちているが)。
あとはさっさと転職したいけども、まだしばらくかかりそう。先送りにできることはぜんぶそうして最低限しか活動しないようにと言われてしまった。というかここ数か月ずっとそう言われているけどぜんぜんそうは出来てこなくて、いまのものすごいくたびれ感は、そのツケが回ってきたのもあるかもなあ。
親知らず抜いたり伴奏弾いたり前の家の整理もまだ終わっていないし、ついでに原稿もやるし、ほんと我ながらおとなしくすべきなのだろうと頭の片隅では思うけれど、でも謹慎とか療養とかしてるとわたしはいつまでも何もできない、と思ってしまう。
にしても活動量のコントロールがへたくそすぎる自覚はあるので、もう少し上手に調整できるようになりたい。具体的には多少は予定を減らせるようになりたい。冗談ではなく、ぜんぜんコントロール出来ない。どうやっていいかわからん。
とはいえあまり悠長にしていると残高マイナスになってしまうのも事実なので、なるべく早く次の仕事をできるために、きっちり療養するべきなのだろうなあ。(その割り切りが無理~! と叫びながら)
結局現状の綱渡りっぷりについてはやはりほとんど表出できないのであった。現在進行形の困難についてうまく書けないこと、とても多い。仕事、欠勤はしていないが勤務中にたびたび小休止を挟みまくっているし、早退しようとして帰れなくなったりはしている。シカタナイネー
早く転職しなくてはと言いつつなにも考えたくないのもまた事実。なるべく諦めを深めないことだけに焦点をしぼるのが、いまの状態には妥当な手当てなのかもしれないなあ。


思い出すのはまだまだ先でいい、まだなにもかも忘れていようって感じだ。
今回もひどい記事だ! よく吐き出した!

サポートをくださるとお茶代か書籍代になってこうあまが少し生きやすくなります。