10泊11日の禅修行で学んだ、自己と他者についてなど

2023年4月、京都の宝泉寺で10泊11日の禅修行をさせていただきました
大学を卒業し、就職か起業かの選択を迫られている状況で、ゆっくり自分と向き合う時間をゆっくりと取りたいと考え参加したのですが、

今回得られた学びはそれ以上のもので、書いておかないと忘れそうなのでここにメモしておきます。

公開しているのは、後述の「はなす」という目的のためです
今回の修行中も、自分の学びを他者にはなしたことでさらに大きな気づきが得られることが多くありました
今回の内容も皆様にはなさせていただき、自分の血肉とします

📍修行させていただいた場所
泉寺(京都府亀岡市篠町山本中条52)

一日のスケジュールです
早起きは意外とすぐ慣れます
お手洗いには、行けるときに行っとくことをオススメします
そして何より重要なことですが、たくあんは4つ以上取りましょう
ご飯の時、その意味に気づくことになりますが…🤫

5:20 起床
5:35 集合
5:40 太極拳
6:00 座禅(25×2)
7:00 お経など
7:20 掃除
7:50 粥座(朝食)
 休憩
9:00 作務(庭仕事など)
11:45 小座禅(15分ほど)
12:00 斎座(昼食)

~16:40 自由時間

16:45 小座禅(15分ほど)
17:00 薬石(夕食)
18:10 法話(和尚様のお話・火土曜のみ)
19:00 坐禅(25×3)
20:30 自由時間
22:00 開枕(消灯)

宝泉寺ホームページより



ここから、今回の学びを書いていきます
9,000字を超えてしまったので、気になったところだけご覧いただければ幸いです
文章というよりメモに近いところもあります

自己について

自分自身の特徴、課題、長所について

自分の課題は「傲慢」だった

長年分かっていたけど向き合えてこなかった、自分の課題が明確になりました

傲慢
強固な価値観や正義感(?)、理想を持っている
主観で短絡的に物事を捉え、思いこみや決めつけが激しい
価値観を相手にも厳しく押し付けてしまう
常にイライラしているわけではないが、こだわりの強い分野では感情が荒れてしまい、言葉が激しくなる

振り返ると、これまでの人間関係、仕事、恋愛の失敗は
自分の傲慢さに依ることが多かった

和尚さんは「誰にでも傲慢の怪物が住んでいる」と仰っていた
自分は傲慢の怪物に負けることが多い

傲慢には「べき型」と「たい型」がいる

価値観が強い「べき型人間」
 欲求が強い「たい型人間」

べき型は、責任感が強く理想が高い
「~すべき」「~のはず」という思いこみや決めつけが激しい
さらに、自分の「べき」を相手に押し付けてしまう
自分への「べき(理想の自分)」に届かず一人で苦しむことも多い

自分は「べき型」が強い
親しい人には「たい型」も発動してしまう
「~するべき」「~のはず」というワードが多い
対策:はずべきメモ(後述)で自分の中の固定観念や決めつけを客観視し、訂正する

「傲慢」は正義感というエサを狙っている

正義感(ただの主観で形成された自己中心的なもの)を振りかざせる瞬間を傲慢の怪物はいつも狙っている

たとえ相手に非があったとしても、大義名分に乗じて怒りを発散することは自分の弱さをさらけ出していることに他ならない
「理はこちらにあるのだから、相手に的にして怒りを発散したい」
という甘え、傲慢で稚拙な欲求に人一倍気を付ける

感情を“味わう”ということ

修行中、自分でも不思議なくらい怒りや悔しいという感情が湧いた出来事があった
その際に常住さん(修行者をサポートしてくれる方々)から教えていただいたこと

怒りを発散することは避けるべきだが、怒りもエネルギーの一つ
怒りが湧くのは必ず理由がある
発散するのではなく、押し殺すのでもなく、じっと味わい分析することで怒りは消える
それだけでなく、自分の価値観や無意識の戒を再認識することにも繋がる

📝自分を責めるより、人間の仕組みを知り、対処する

自己否定は意味がない
人間という生き物のつくり、仕組みを理解(心理学的・生理学的に)し、具体的な対処をする

例えば、人間には頑張れる状態(環境、条件、体調など)とそうでない状態がある
頑張れない自分自身を否定しても意味は無く、頑張れる状態を理解し、自分を持ち直す行動が重要
自分を否定することが増えると、逃避行動として開き直ってしまい、状況が悪化する

自分は人の輪を広げる(巻き込む)ことは得意だが、
ちゃんと疲れる

休憩時間など、できるだけ話の輪の一人一人に話を振り、全員が発信者になれるよう回すことができた
輪を盛り上げることは他の人(Nくん)がやってくれていたので、自分はその輪を広げることを意識
自分が輪を作ったので、その輪が他の人を排除しないよう調整する義務感のようなものもあったと思う(これも傲慢かも)

しかし、話せていない人や話したそうな人に気を配り続けるのは疲れる
無意識に、無理をせずこなせるようになりたい
そして「自分が回すべき」という責任感は傲慢の種になるかもしれないので注意

とはいえ、場の空気を作っていたことを周囲の参加者に評価していただき、感謝の言葉を頂いたので今回はLIKEとしたい


他者(人間、人間関係)について

目の前の相手、人間社会との向き合い方

衆生本来仏なり    水と氷の如くにて
水を離れて氷なく   衆生の他に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むる儚さよ

白隠禅師坐禅和讃より

仏は人の姿をして目の前に現れる

仏はどこか遠く特別で崇高な場ではなく、自分や身の回りの他者の中に居る
教えや気づき、学びはすぐ近くにある

苦痛を伴う他人は、鬼の面を被った仏
苦痛や葛藤を通じて気づきを与えてくれる存在

「自分の中の仏と出会う」by 和尚さん

自分にはかけられない優しい言葉を、他者にはかけられる

「学校という環境が合わなかったから、習い事や遊びなどで一番を目指した。でもそれは真っ向勝負ではなかった」というコンプレックスを語った修行者の友人がいた。
彼に、ゲームが好きだが不登校であることへの負い目から胸を張ってゲームが好きだと言えなかった小学生の元教え子の話をして「この子に何を伝えたいか」と聞いてみた。
すると「好きなことがあるならそれを頑張ればいいと思う、と伝える」と答えてくれた。
他人に向けられる思いやりを、自分にはなかなか向けられない

「はなす」は「話す」であり「放す」「離す」

自分と同じように悩みや課題感を持った他の修行者に自分のことをはなす、開示する
「話す」は「放す」「離す」ことである。悩みや苦しみは人に話すことで自分から離れることも多い
相手の話を聞くことは布施行とも考えられる

修行後のアンケートでも、座禅や法話を差し置いて「他の参加者とお互いの悩みについて話せたこと」が良かったという回答が最も多いとのこと

距離が遠いことが、かえって信頼に繋がる

仕事仲間や家族など、近すぎるがゆえに打ち明けられない悩み
修行中だけの仲間、という近すぎず遠すぎない関係だから話せることもある
サードプレイス的なイメージ

いくつになっても人は悩む

18才から89才まで、幅広い修行者がいた
自信が欲しい、傲りを捨てたい
仕事を辞めようとしている、仕事を始めようとしている
パワハラをされた、パワハラをした
皆それぞれの課題と向き合い、戦おうとしていた

いくつになってもより善い自分であろうとする姿勢がかっこいいと感じた

「取りたい」と「捨てたくない」で悩む

人はAとBの二択で悩む(自分だったら起業か就職か)とき、心のどこかでAが良いと分かっていながらBを捨てられない状況にあることが多い
特に自分はプライドや見栄から、この傾向が強い

Aが良いと感じるのは論理的な理由であれ直感的な理由であれ、自分の意思による理由なら健全であると思う

一方でBを捨てられない理由は、不安や見栄、世間体や欲求に起因することが多いのかもしれない

心の奥底では、正直どちらが良いと考えているのか
 (ここではAとする)
Aを取りたい理由はなにか
Aは他者に決められた意思ではないか
Bを捨てられない理由はなにか
Aを捨てたら失うものはなにか
Bを捨てたら失うものはなにか

どちらかを取り、どちらかを捨てる判断をする時に
戒があると悩む苦痛が少ない
あらゆる選択から逃げずに、戒に基づいて意思決定を重ねていくことが戒の錬磨に繋がるのでは、とも感じる

「アクセサリーのように見栄や誇大を身に付けていたが、それを外しても何も変わらなかった」by Nくん

話したがり、見栄を張ってしまう自分を見つめ直すために修行に来ていたNくんだったが、それらを捨てても自分は自分として他者と接することができることを学んだみたい
そんな彼の気づきから、僕も学ぶところが多い

ちなみに他の参加者からは「Nくんは談話室の明るい空気を作ってくれている」と感謝されていた
これも布施行

禅修行は「捨てる」もの、捨て方を得る


仕事について

「体験」と「修行」、両足を突っ込む

意識次第で、あらゆる行動が修行に変わる

1年半前に3泊4日で禅修行したときは「体験」の感覚だった
座禅の組み方や食事の作法、仕組みやそうである理由など“理解”はできたが、
4日間で自分の大きな変化が起こったわけではなかった

今回は11日間を通して「終わりを意識しない」ことを意識した
「あと何日で下山か…」や「座禅あと25分か…」などは考えず、ただ目の前のことに向き合うだけ
座禅、食事、作務(掃除や庭仕事など)といったすべての瞬間に集中し、作法を一日でも早く覚えられるようメモをして、できるだけ布施行を実行できるよう気を張った

すると、見える景色が変わった
普段では絶対に気づかないであろうことに気づいたり、他者との会話が増えたり
やることは増えたが、迷いは減った

考えてみると、「体験」は終わりがあることを意味する言葉
我を捨て今この瞬間に集中する、という禅の根本とは真逆の考えだった

終わりを意識しないことで、初めて禅“修行”の入り口に立てたような気がする

面白いのは、このことに気づいたのがちょうど4日目(前回の修行“体験”と同じ期間)あたりだったこと
体験と修行の分かれ目は、期間の長さではなくただの意識の違いにあった

自分の戒と組織の戒の重なる面積で職場を選ぶ

どんな仕事でも自分の意識次第で修行になる
一方で、企業や団体など組織にはそれぞれ戒がある
まず自分の戒を立て、そして組織(会社)の戒を知る
二つの戒が重なれば迷う苦しみが減り、目の前の仕事に精進することに繋がる

例えば転職理由の多くが人間関係など仕事内容以外の要因であること、そして戒は縁を呼ぶ(後述)ことを考えても、業界や業種より戒の相性の優先順位を高く職場を選ぶことは理に適っていると言えそう

他人にひとさし指を指すとき、3本の指は自分を指している

人ば、指差して笑いよったら、いかんばい!
指差しよる自分の指ばみたら、人差し指は、人に向いとるばってん、残りの3本は、自分ば指差しよろうが!
人を指差しとる3倍、自分ば指差して、笑いよっとぞ!

武田鉄矢のなんかの歌

教育について

「叱る」ということ

先述のように、修行生活を通じて自分の「傲慢」との向き合い方に課題が見つかった

和尚さんにアンガーマネジメントについて教えていただいたことで、傲慢や怒りとの正しい付き合い方をちゃんと学ぶきっかけとなった

一方で、「怒る」や「叱る」というものをすごく上手に扱っていた方がいて、とても勉強になった。
その方から聞いたり、見て感じたりした叱るのコツをまとめてみる

「叱る」のコツ

➀怒りは投げるのではなく渡す
怒りは石のようなもの
投げると痛いが、渡せばその重みは相手に伝わる

➁人ではなく行動を叱る
「あなたっていつも…」「そういうとこだよ…」など、その人自身を否定するような言葉は使わない
「こういう理由があるのでこういう行動をしてほしいです」と、行動ベースで指摘する
罪を憎んで人を憎まず、に近いかもしれない

➂主語を自分にして、対話を重ねる
「あなたは~しなさい」ではなく「私は~して欲しい」と主語を自分にして伝える。
相手から「自分は~にしたい」と返ってきたら、そこで対等な対話が生まれる
常識や固定観念、プライドに縛られていないか意識

「叱る」を実践できる親や教師を心から尊敬する

教師という仕事、あるいは親という立場は、その気になれば
「そういう決まりだから」「私が先生でお前が生徒だから」という論理で子どもに行動を強制することもできるし、
怒りのエネルギーを以て子どもを委縮させ従わせることもできれば、
あるいは子どもの過ちに見て見ぬふりをして、叱ることから逃げることもできる

それでもその子のことを想い、行動や思考に影響を与える覚悟を持ち、自分の戒(哲学)に従って子どもたちの成長を導く
そういう叱り方ができる親や教師は、人として本当に尊敬する

自分は子どもと短期的に携わる経験はしたものの、その子と長い期間向き合って「叱る」という経験をしたことがあまりないため、尚更そう感じるのかもしれない

「叱る」のレベル

   0.自分のことを棚に上げ、怒りを相手に発散する(論外)
     気を付けないと、自分もそうしてしまう
1- a .自分の価値観に相手を従わせる
    ・そうすべきと思っている行動や思考
    ・自分はできていると思っている行動や思考
    ・ルールや集団規則、常識
     対話は無く、立場や怒りを道具として頼る
1- b.人に𠮟れるほど自分に自信、確信が持てない
  2.対話を通して相手に自分を省みさせる
    相手を正すと同時に、自らも省みる
    叱ることで自らも姿勢を問われることを覚悟している
  3.口ではなく背中で悟らせる
    一番カッコいいやつ

修行中のノートより

4年間の“教育”活動の振り返りと、今後の進路について

大学在学中、学生団体で小学生を対象に勉強を楽しむイベントを企画・運営する活動に取り組んできた

子どもたちと相対するのはほぼイベント当日のみであったため、子どもたちを指導する、叱る場面はほぼ無く、とにかく体験を楽しんでもらうことだけに注力していた

立ち上げから4年間活動を続けて感じたことは、
この活動は「教育」ではないかもしれない、という感覚だった

様々な立場の教育者(学校の先生、フリースクールや児童館の先生、教育委員会の関係者)から話を聞かせていただいたこと、そして今回の修行で「叱る」ことについて考えたことで

教育を、
目の前の子どもを理解し、その子を想い、自らの姿勢も問われる覚悟と、正解か分からない己の哲学を芯として子どもと接する覚悟を背負いながら、不確定な将来へ子どもを導く、
それくらい重みのある営みとして捉えるようになった

ずっと行なってきた、「重くなり過ぎず、「楽しい」に振り切る学びの体験」を届ける単発型のイベント企画の活動は
自分たち学生ならではの武器であり価値と捉えていたし、そういう学びの場は社会に必要だと今も強く感じるが、
それは上のような重みのある“教育”の土台の上に成り立つ活動である

教育と称するには、覚悟と哲学が軽いのではないか

本当に子どもたちの価値観や人生の糧となる取り組みを届けるには、子どもたちとさらに深く関わる覚悟を持つこと、そのために自分の戒を磨くこと、そして、確固たる哲学を持って体験を届けることが必要だと思う

このまま教育に携わり続けるには、そういう「精進」が必要だと思う

起業して子どもの体験を広げる事業を創りたいと考えていたが

社会に出て精進し、自分の戒と覚悟を磨き、なによりもっと自分の世界を広げて、
いつかもう一度子どもたちの前に立ち、教育と言える教育を届けたい

そういう考えが固まり、就職を選ぶことにした


上に分類できなかった気付きを六波羅蜜で分類して記します

六波羅蜜 布施

布施=見返りを求めない他者への施しの精神

人は人のことを想えるから人たり得る
自分のことしか考えられないのは獣の心
by 和尚さん

布施の精神から生まれる行動が本当の気遣い

過去に「あなたの行動は気遣いではなく、気遣いできるように見せたいだけ」と指摘を頂いて、落ち込んだことがある
しかし今振り返ると、あの時の行動は布施の精神からではなく、そう見られたいという我執から生まれていたことを見透かされていたのだと思う
無意識の行動は精神(人格)からにじみ出るが、行動から人格は培える
…と信じて一つ一つ行動を変える

心が変われば行動が変わる。
行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。
人格が変われば運命が変わる。

by ウィリアム・ジェイムズ

布施はお金だけではない

お金を寄付することだけが布施ではない
言葉や行動など見返りを求めない無条件の行為
会社を作って社員を養うことも布施(by 稲盛和夫さん)
ただし、自社の利益だけを追求するのではなく、布施の範囲を常に広げていく
モノ・コトの価値を貨幣により可視化した現代では、布施の精神が見えづらくなってしまった(by 和尚さん)

天国と地獄は表裏一体

天国と地獄は全く同じ環境
どちらも豪華な料理を人々が囲んでいる
人々は皆、とても長い箸を持っている

地獄では、人々は我先にと料理を食べようとするが、箸が長すぎるために上手く自分の口に運べない
人々は飢え、怒っている

天国では、料理を箸で取って反対側の人の口に運んで食べさせている
食べさせてもらった者は料理を取り、別の者に食べさせる
人々は満たされ、穏やかである

仏教聖典より

天国と地獄を分けるのは人々の意識、行い
環境の差ではない、という

布施の気持ち+傲慢=自己満足

布施、人のためになる行動を実践するには、その相手の立場に立ち相手のことを理解することが大切

被災地に送られた千羽鶴がゴミ処理の負担になった話は有名だが、
相手の状況、心境、特性を理解しようとせず「これなら喜んでくれる“はず”」という自分本位の思考から行動するのは、布施の仮面を被った傲慢になってしまう可能性がある

自分も修行中、先に入山した者としてサポートするべきという気持ちから、少し不自由を抱えていそうな修行者に優しすぎる接し方をしてしまった

しかし、相手も修行をしに来ている立場であることを考えると、あの接し方は本当に本人が望んでいたものだったのか
自分の「べき」に拘りすぎた行動ではなかったか
反省することが多い

六波羅蜜 持戒

戒を持つと楽になる

情勢がコロコロと変わる現代社会において、戒律に基づいて行動することは不合理で頭の固い、楽しくないことのように思える

しかし様々な欲求、誘惑(四苦など不変のものから、経済社会特有の設計されたものまで)が多い人生で自分だけの戒(≒指針、意思決定の基準、信念)を持つことは、心を平穏に保つことに繋がる

悪い「べき」と良い「べき」

悪い「べき」・・・固定観念、周囲に植え付けられた狭い常識から生まれる
良い「べき」・・・我に囚われず、布施の精神と修行の実践のために立てる

論理的であるか
 論理的に正しいと言える戒を持つ
柔軟であるか
 戒は指針であって規律ではない
現実的であるか
 達成できる戒を持つ
 達成できない経験が続くと自己否定に繋がる
実利的であるか
 布施と自己犠牲を履き違えない

良い「べき」の判断基準『論理療法』

また、外(企業、家族など)から強制されているだけの戒も良くない
自分自身で立て、実行する
門より入るものは家珍に非ず

自分自身で戒を持つことがとても厳しい修行

修行の場であるお寺には「戒」があり、それに従えば自然と自己を律することができた(気がする)
しかし日常生活には戒が無い
怠けられる環境でも戒を持ち、自己を律することが
自分にとってはある意味最も過酷な修行の本番だと感じる

穏やかな環境で穏やかにいられる人が
穏やかでない環境に移っても穏やかであり続けることが重要である

仏教聖典・気立ての良い女主人と召使の話

戒は因を生み、縁を呼ぶ

一生懸命を戒とする人には、それを応援する人が
利他を戒とする人には、それを認め施し返す人が
自己中心を戒とする人には、同じく周りを虐げる人が集まるものらしい

戒を立てることは日々の行動を変える
行動は因を生む
因は縁を呼ぶ、という

行動を変えることが人格を変えるという先述のウィリアム・ジェイムズの言葉、あるいはカクテルパーティー効果など心理学的に考えても、戒が縁を呼ぶというのはそれほど不思議な話ではないかもしれない

六波羅蜜 忍辱

現代の日本の社会は快適過ぎるがあまり、耐え忍ぶことが難しい

あらゆる不便が解決された、あるいは人が虐げられることへのケアと予防が強化されている現代社会では、苦労に耐え忍ぶ機会が少ない
しかし、苦労を乗り越えてこそ人間力が磨かれる、哲学が生まれる

苦労にも縁を感じ、率先して苦労を取りにいく

六波羅蜜 精進

「我を忘れる」ということ

この世の苦しみは「我」の意識に起因するので、我への執着を取り払うために修行をする
我を忘れて、文字通り自分のことを考えずただ目の前の作業や仕事に没頭する、それ自体が修行の一環になる

庭掃除では、掃いても掃いても永遠に落ちてくる落ち葉や桜の花びらを黙々と掃き続ける
意味や結果を求めず、ただただ掃く
意味や結果を求めようとする我を掃き去るように、一掃き一掃き無心で

毒矢が体に刺さったら、毒の種類や誰が打ったかなどを考える前に毒矢を抜く
それと同じく、まず苦しみの元である我を取り除くことのみを考えて励む

仏教聖典より

修行は他人ではなく自分の弱みを見つけるもの

修行中、他の修行者の姿勢が気になってしまった自分に対する和尚さんの言葉
ハッとした

精進があるから休息が楽しめる

楽は苦の種、苦は楽の種
の二つの解釈を考えた
➀苦労しておくと、あとあと楽になれる(逆もしかり)
➁苦労するからこそ、休息がより楽しく特別なものになる

六波羅蜜 禅定

座禅は「我」を捨てる修行

座禅では、心を無にして呼吸に集中する
これが本当に難しい…

ただ頭を空っぽにするだけのはずなのに、気づくと自分でも不思議なくらい何かを考えている
(将来のこと、好きな人のこと、そろそろしびれてきた足のこと、座禅後のご飯のこと、親指のささくれのことなど)

頭に浮かぶそのような考えは雑念とされ、すべて「我」の意識から生じるという
「我」は人生のあらゆる苦しみを引き起こすため、我への執着を離れる訓練が座禅(ということだと一旦解釈している。ちゃうかも)

情報は取捨選択できる

欲しい情報だけ選んで偏見を培うのもよろしくないが、必要のない情報に目を奪われすぎて自己を省みる時間を失うことも怖い

修行中の10日間、スマホの電源を切ってロッカーに入れ、一度も触れなかった(ウソ。山登りの時だけ携帯必須だったので持ち出しました)
修行が終わって電源を入れると、SNSやニュースアプリの通知が滝のように降り注いでくる
国際的には重要だけれど自分はただ動揺させられるだけのニュース、知らん人の結婚、大麻、失言などの無駄情報、友人のSNSの更新など

10日間、それらの情報が届かないことで困った瞬間は無く、その分自分と向き合う時間が増えた感覚があり、なによりニュースが大量に流れ込んだときにかなり嫌悪感を覚えたため、受け取る情報の種類と量、質は調節することが心の健康状態に結びつくと感じた

六波羅蜜 智慧

学びを実践する

はずべきメモ

自分の中の傲慢が「~のはず」という決めつけや「~するべき」という固定観念を囁いたら書き留めるメモ
時間をおいて見返して、否定できたら線を引いて消す

修行4日目から継続しているが、だんだん「はずべき」に以前より多く気づくことができるようになり、
かつ書き留める前に自分で否定することができるようになってきた

戒を立てる

今後の生き方の指針である戒を立ててみた
1.傲慢を飼いならす
2.一点の曇りもなく行動する
3.己を科学する

生活の指針として、定期的に振り返り、アップデートしていく

その他、未整理のちょこちょこメモ

軽率に憧れない、同じ目線に立てるよう行動する

自己肯定感は自分との小さな戦いに勝ち続けることで形成される

道徳のない集団は滅んでいく

学びて時に之を習う、また説ばしからずや

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