大津の宮を去った大海人皇子は現大津市役所前を通り小関越えから吉野へ向かった

 大津市の錦織には、かつて都が存在していました。天智天皇がおわした大津の宮です。しかし現在の錦織にその歴史を感じることはできません。住宅が所狭しとひしめきあっていて、点在する空き地が史跡に指定されているだけです。建物の模柱だけから古の都を想像することは、いささか無理があります。

 それでも、大津の宮のすぐ西側の山並みは、千数百年前の当時と変わらないはずです。天智は山頂付近に見える千石岩も眺めていたことでしょう。また、この山並みに沿った道は南に伸びていて、大津の宮の中軸線と重なっているという。宮はあとかたもなくなってしまいましたが、これらは古の都をかろうじて感じさせてくれます。

 天智十年(671)、死期を悟った天智は大海人皇子に後事を託します。これを固辞した大海人皇子は大津宮を退去し吉野へ向かいました。壬申の乱と端緒となった有名なできごとですが、このとき大海人皇子が通ったのが、その山並に沿った道でした。現在の大津市役所の前を通る県道47号線です。この道から皇子は小関越えに入り、吉野へと急いだことになります。

 大海人皇子が小関越えルートで大津を脱したと自分が知ったのは、倉本一宏著『壬申の乱を歩く』でした。壬申の乱の戦いの経緯を、現地を丹念に踏破するなどした労作であり、それまでの関連本では得ることができなかった貴重な情報が数多く書かれていてとても興味深い。大海人皇子の吉野への行程はよく知られていますが、小関越えを、それも細かい地図で示された本は他にはないと思われます。

 この地に住む日本古代史ファンである自分は、身近な小関越えが大海人皇子のルートであったことがとてもうれしい。今日はこの本から、その地図を引用させていただきます。

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