#10 怒るわたし|思考の練習帖
何から何まで裏目に出る日ってあるもんだ。
小説のなかだけのことだと思っていたのに、昨日がちょうどそんな日だった。仕事で久々に怒られた。
怒られるとすっかり萎縮してしまうタチなので、一通り怒られてしょんぼりして、その後は何度も思い出して気分が落ち込んだ。落ち込みすぎると自分を追い詰めてしまいそうで、だからあんまり考えないようにした。家に帰って温かいご飯を食べて、のぼせるほど湯船に浸かって、さっさと寝た。
怒られるって不愉快な体験だ。避けられるものならばぜひともそうしたい。実際、怒られなくていいようにそれなりにきちんと生きてきたつもりだった。だからこうして時々やらかして怒られるのがとても堪える。
でも一方で、怒られっぱなしも癪だなと思うのだ。
正直、昨日怒られた件についてはいまだ釈然としていない。わたしに一切の非がなかったと言うつもりは毛頭ないけれど、わたしの未熟さだけの問題でもなかったはずだ。だから、わたしだけが次は気をつけようといくら強い意志を持ち続けたとしても、きっと似たようなことがまた起きてしまうだろう。そんなのは御免被りたいし、わたしが怒られて不愉快な思いをするだけでなく、仕事上の損害も大きい。
判断を誤った原因とは
今回「怒られた」案件は4つ(多すぎ)。それぞれについて具体的に記述することは控えるため第三者が読んだら何のことやらかもしれないが、とりあえず整理してみたい。
そもそもなぜこういうことになったのか。直接的な原因としては、ざっくり2つ考えられる。
こういうのはほんとうによくある。こんなことばっかりだ。
それが悔しくて #思考の練習帖 をやっていると言っても過言ではない。何から何まで「これはどうしたらいいですか?」って確認するような仕事のやり方はしたくないのだ。自分でよく考えてよい判断を下したい。そう思って脳みそを絞るのだけれど、まだまだ詰めが甘いんだな。
とはいえ、たった一つの正解があるわけじゃないとも思う。Aがいつも正解なわけじゃないし、もしかしたらほんとうはBでよかったかもしれない。実際、これまでにもBは選ばれてきたのだ。なぜこれまでのBは良くて今回のBはダメだったのか。結局AにもBにも絶対なんてなくて、見方によってどちらにも転びうる。
だからわたしは、きちんと自分の頭で考えて、判断を下して、それを自分で説明できるようになりたい。すっかり萎縮してしまってそれができなかったのが一番悔しい。
これに関してはもう、ちゃんと説明しといてよと言いたい。なんなら①の判断軸もそうだ。後からそうじゃなかったと言われても遅いわけで、曖昧な伝達では仕事のしようがない。
正確に情報を伝えること、そしてもちろん受け取る側もきちんと確認をすること。これはコミュニケーションの基本。
背景に何があったか
でもこれだけじゃない、とも思う。もっと大きな、構造的な問題があるのだ。
グレーな判断がまかり通ってきたのは、そうでもしないとやり切れないからだ。律儀に守っていたら他の仕事が全部滞ってしまうし、その結果が残業というだけならばまだしも(それもかなり問題はあるけれど)、子どもたち(サービスの利用者にあたる。子どもの最善の利益が第一優先の仕事である)の不利益になってしまう。それを避けるためのグレーな判断なのである。グレーが顕在化した今、今度はグレーを回避するための対応(特定の時間の人員配置を増やすとか。それができたら苦労しないわけだが)が求められるだろう。
任された仕事を全うしようとか、誰かが持て余している仕事を回収しようとか、頼まれもしなくても+αの仕事をしようとか、そういうマインド自体は間違っていないと思うのだ。暑苦しいかもしれないけれど、間違ってはいないはず。
しかしそれが裏目に出てしまったのが今回。うまく機能させられない要因は何か。
オフィシャルな引き継ぎはやる。でもそれ以上の時間を雑談に割けないから、ちょっとした確認とか情報共有とかがなかなかできないのだ。
丁寧なコミュニケーションが取れないことの弊害は、今回のことに限らない。チームの心理的安全性という観点からも、雑談ができない・しづらい雰囲気はリスクが高いだろう。
これから
これだけ書いたらすっきりした。すっきりするのは大事だ。臭いものに蓋をしても何かの拍子に蓋が開いたら大惨事だし、そういう可能性を残している時点で心が蝕まれていく。
以下、これまでに挙げたもののまとめ。
組織としての課題と、わたしの志向性と、それらの相互作用で生じうる課題が明らかになった。怒られる事態はなるべく避けつつも、引き続き暑苦しく仕事をしていきたい。あとは切実に、怒られてもあんまり萎縮しすぎないようになりたい。
今日はここまで。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?