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自我、迷走中

わたし、まじめなんです。

もっとカラーを出しなよって上司に言われたのが年度始めの面談で、1年の半分が終わった今また同じことを言われている。通知表でいうところの「がんばりましょう」である。
カラー出てないですか、なんて間の抜けた質問をして苦笑された。

カラーを出せっていうのはつまるところ、もっと自己主張しろよってことだ。つねに控えめに、言われたことはきちんとやりますが出しゃばりません。これがわたしの現状で、これからもたぶんそうだろう。自己主張をせず、周囲との関係に亀裂を生じさせず、平穏に生きてきた。それこそがわたしのカラーであって、これ以上つついてもなんにも出てこないと思うのだけど。

強いて言うならば、白。
背景が白いと見分けがつかない。そこにいることにも気がつかない、そんな白。赤や緑や青や黒が勢いよく押し寄せてきたらあっというまに塗り替えられて、白だった痕跡はもう残らない。どんな色とも喧嘩しない代わりに、白は勝たない。他の色に勝ちを譲って、そこにいる。見分けはつかないけれど、たしかにいる。
でも白は無色だ。わたしのカラーは白だと主張するのは、カラーがないことと同義だ。

エリクソンの言うモラトリアムはとうに通り過ぎたというのに、わたしはまだ自分が何色なのかわからない。
まじめなんだね、と言われた。もっと崩していい、力を抜いて素を出していいと。まじめなわたしはそのアドバイスをまじめに受け取るけれど、崩そうにも崩し方がわからない。要はまじめなのだ。まじめの辞め方がわからない。

まじめに向き合うほどに、まじめから抜け出せなくなるジレンマに陥っている。わけがわからない。
じゃあもう、いいか。
まじめを逆手に取って、まじめを売りにしてみようか。まじめに自己主張して、まじめに出しゃばる。赤が緑が青が黒がなだれ込んできたならば、頼りない白を掲げてまじめに押し返してみよう。
派手にまじめをやっていれば、粗も出てくるだろう。
そのうち何がまじめなのかわからなくなって、わたしの「まじめ」はなんだか空虚な概念になって。残されたわたしはきっと、まじめとは違う何かになっているんじゃないか。それがきっと、まじめの皮を剥いだわたしの素なのだ。
なんて、投げやりになってみる。

あるいは。
ありもしない本当の自分を探すのはやめて、何者かになってみようか。心の赴くままに、好きな色を少しずつ足してみようか。わたしがひとつだけじゃなくちゃいけないなんて、誰が言っただろう?
人体実験をしてみよう。ここまでくるとただのやけっぱちである。

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