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当事者性を考える|環状島=トラウマの地政学

抱きしめたい本 NO.1 の『環状島=トラウマの地政学』について、非当事者性をもつわたしという視点で書いたのが前回のnoteだった。

今度は、その反対側から。

トラウマの当事者性ということを考えると、その含意するものの範囲はあまりに広い。この広い海に、環状島は無数にある。はっきりと肉眼で捉えられるような巨大な島も、か細い環がかろうじて見える島も、海にすっかり沈んで見えなくなっている島もある。
わたしが日々上っている〈外斜面〉は、「家庭での生活を剥奪された」環状島であり、「親との激しい葛藤を抱える」環状島であり、「家族という概念の実感がぽっかりとない所在なさ」の環状島であり、「〈普通〉を享受できない不全感」の環状島であり、あるいは「自分の存在価値を見失った虚無感」の環状島であるかもしれない。わたしが名前すら知らない、到底想像が及ばないようなものかもしれない。環状島は星の数ほどあって、一人の人が同時にいくつも抱えうるし、本人も気づいていない島もきっとあるだろう。

そう考えていったときに、当事者であるかどうかの二項対立が相対的なものであることに気づく。
わたしが仕事場で出会う子どもたちがどこかの環状島の〈内斜面〉にしがみついているように、わたしもどこか別の環状島の〈内斜面〉にいる。わたしが子どもたちの環状島の〈外斜面〉を上っていくとき、ふと足を滑らせてわたしの環状島の〈内斜面〉を転がり落ちそうになる感覚がある。
パラレルワールドみたいな複雑な話になってしまいそうだけれど、わたしたちはいつもどこかでは〈内斜面〉にしがみついていて、〈外斜面〉を上っていて、〈外海〉を漂っていて、そして〈内海〉に沈んでいる。

わたしは〈わたし〉というたった一つの統合された存在のように見えるけれど、それはまやかしだ。わたしはAであり、同時にBでもある。CであるときもCでないときもある。わたしは構築され、変容し、そして多元的なのだ。

だからあなたもわたしも同じように当事者なのだと、だからわたしの非当事者性を追及してくれるなと、そんな主張をするつもりはない。あなたがいる環状島とわたしがいる環状島は別物で、あなたの経験した悲しみも葛藤もあなただけのものなのだ。
それらは、だから違うもの。一緒くたにしてわかった気になってはいけない。それは大前提として、そのなかでも共鳴する瞬間はたしかにある。別々の環状島の内側でぐっと歯を食いしばっているわたしたちが、見えないはずの相手の〈内海〉を感じる瞬間がある。鼻の奥がつんとして、いても立ってもいられなくなるような。他人事だと思えないような。
これがたぶん、宮地氏の言うところの〈一部圧倒性〉なのだろう。

それは奇跡のような瞬間だ。
裏を返せば、そうじゃない瞬間が大半なのだ。だからこそ、そうじゃない瞬間にも目の前の誰かの〈内海〉を想像したい。わたしのすべてをあなたが知らないように、あなたの奥深くにある何かをわたしは知り得ないことを。あなたとわたしの間にある〈一部了解不能性〉を受け入れることを。

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