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#49 エリクソンを学び直す|思考の練習帖

エリクソンの発達課題はとても有名で、だからずっと知った気になっていた。

乳児期:基本的信頼 vs 不信
幼児期:自律性 vs 恥と疑惑
児童期:積極性、自主性 vs 罪悪感
学童期:勤勉性、完成 vs 劣等感
青年期:アイデンティティ vs 疎外
成人期:親密性、連帯性、生産性 vs 孤立
壮年期:世代性、生殖性 vs 停滞、自己陶酔
老年期:統合、完成 vs 絶望

わたしが知ったつもりになっていたのは、それぞれの時代に応じて上のようなテーマがあって、ひとつひとつ獲得していくことで次に進んでいけるという理解だけだった(実際、発達心理学の本や教科書を見ても、こういう一覧が載っているだけで、それ以上踏み込んだ内容は書かれていなかったりする)。
じゃあ「自律性」って何なのかとか、どうすれば獲得できたと言えるのかとか、いかにして積み残しを取り戻していくことができるのかとか、そういうことは無知だった。無知だということに、ようやく気づいた。

そういうわけで、今になって大慌てでエリクソンを読み漁っている。
その第一弾が佐々木正美氏の『子どもの心が見えてくる−エリクソンに学ぶ』だった。

(ウサギかわいい❤️)

subject of crisis

今日「発達課題」と訳されているものは、エリクソンが "subject of crisis" と呼んだものである。クライシスといえば危機だ。子どもが成長の過程で直面する危機、葛藤。だから発達課題というものは、どの子どもにとっても平坦で容易な道では決してなくて、だからこそそれを一緒に乗り越えていく他者の存在が重要なのだろう。

ここで子どもたちは自分の衝動との間でぶつかりが生じます。乳児期だってそうです。自分がこう望んでいるのに、なかなかしてくれない。泣いているのに、なかなかお母さんが来てくれない。葛藤が生じます。乳児期の前半になっても同じことです。こうしろと言ったって、僕は今、そんなことしたくもないし、できない。葛藤が生じます。そのときにとても大事なことは繰り返し教えること、しかし、子どもがいつそれを実行できるかは、待つことです。ジーッと。この待つというところで、子どもは自律性を発達させます。

佐々木正美『子どもの心が見えてくる−エリクソンに学ぶ』

これは乳児期の「自律性」に関する記述だが、発達課題全体に言えることだろう。子どもの内側にある衝動や欲求と、子どもの外側(養育者や社会)からの要請は必ずしも一致しない。そこに葛藤が生じる。
ひとつひとつの葛藤に子ども自身がどう対処したか、他者がそこにどんな影響を及ぼしたのか、そういうことの積み重ねの上に、ようやく一つの課題を獲得することができるのだ。

「わたし」が求める理想と目の前の現実には、乖離があるのが常だ。少しの努力の延長にある理想なら、モチベーションも高まるかもしれない。逆に取り返しのつかないようなとんでもない失態でどん底に転落してしまったなら、一切の希望を見失ってしまうかもしれない。
「わたし」の内側と外側との間のギャップにわたしたちはいつも葛藤する。それはつまり、わたしたちが今まさに "subject of crisis" の渦中にあるということなのである。

そして、この "subject of crisis" を乗り越えていくための鍵を握るのは他者だ。「わたし」と他者の関係が、「わたし」の内側と外側をつないでくれる。


基本的信頼(basic trust)

いちばん最初の課題は、基本的信頼だ。信頼するという行為は、当たり前だけど一人ではなし得ない。対象があってこそだ。
この先の長くて険しい "subject of crisis" の道のりを切り開いていくためには、信頼できる他者の存在が不可欠である。

基本的信頼は、「望んだように愛される」ことで獲得できる。望みを十分にかなえてもらい、満たされたところで、「自分を信じる」ことができるようになる。基本的信頼に限った話ではないけれど、発達課題が100%クリアできるということはまずない。誰にでも満たされなかった部分はあって、だからこそ葛藤しつづける。だってほら、老年期の発達課題が「統合、完成」となっているけれど、この世に完成された人間なんて存在しないのだから。

ちなみに、佐々木氏はこんなふうに書いて乳児期の章を締めくくっている。

基本的信頼は人間に希望を与えます。その反対の「不信」の方は「希望」の反対で「絶望」かというと、そうではなく、エリクソンはこの時代に「引きこもり(withdrawal)」という言葉を使っているのです。

同上

基本的信頼の獲得に失敗すると、引きこもりになるのだという。さもありなん…。

自律性(autonomy, self-control)

そういえば母校の校訓は「自主自律」だった。高校だけど(自律性は幼児期、自主性は児童期の発達課題。それだけ発達課題というのはクリアするのが難しいということなのだろう)。

自律性とは、衝動を自分でコントロールすることだ。子どもが「やらされる」のではなく自分でやるということ。自律性を育てるために他者である養育者ができることは、ひたすら「待つ」こと。これに尽きる。

一言で言ってしまえば、「すぐにできるようにならなくてもいいんだよ」というメッセージを伝えながら、大切なことをコツコツ繰り返し教えてあげることです。「ちゃんとできるようになるまでいつまでも待っていてあげるから」「何度でも教えてあげるから」。こういう気持ちを子供に伝えることだと言っていいと思います。

同上

これは、めちゃくちゃ難しい。
あれやりなさい、これやりなさい、って言いたいもん。言わずにはいられないんだもん……。だけど、そこをぐっと堪える。
自律性を損なうと、「わたしはこんなこともできない人間なんだ」「どうせわたしなんて」の恥と疑惑ばかりが強まってしまう。だからぐっと堪えよう。待てる大人になろう。

積極性、自主性(initiative)

何でも自分でしようとするこの時期の子どもを、邪魔しない。彼らにとって、世の中のいろんなことを自分で確かめて理解するために必要な冒険なのだと理解して、大きな事故のないように見守ること。

勤勉性(industry)

勤勉性というのは、まじめに勉強ができることではない。
社会的に勤勉に生きていくためには、「同時代の仲間と文化を分かち合う経験」をしなければならないのだという。

自分一人で何かを成し遂げるという話ではなくて、基本的信頼の二者関係の次のステップとして、対等な友人関係を築く力を問われているのだ。
キーワードは「友だちから学ぶ、友だちに教える」「質より量」。どんなにくだらないことでもいいから、友だちから学んでくることに価値があるのだと。

我々は癒すことができないから疲れを感じるのです。ストレスを感じるのも人間関係ですが、ストレスを癒すのも人間関係です。……本当の癒しは人間関係のなかにあるのです。

同上

勤勉性が、周囲の期待を受け止めてそれに応えていくことなのだとしたら、その「周囲」と適切に交流をできなければ期待をキャッチすることもできないし、期待に応じようというモチベーションも生じない。なるほど、勤勉性というのはだから、社会に出てこそ発揮されるものなのだ。

アイデンティティ(identity)

他者の目で自分を見るようになることで、自分というものが見えてくる。幼児のころは主観の世界で生きてきたから、「自分は何にでもなれる」という万能感を持っていたけれど、どうやらそうじゃないらしいということがわかってくるのだ。
「質より量」だった学童期から一変して、価値観を共有する仲間と深く交わるようになるのがこの時期だ。限られた仲間たちとの深い関わりのなかで「自分ってこういう人」というものが段々とできてくる。他者を通して自分を確立していくというわけだ。


このあとも成人期、壮年期、老年期と続いていくけれど、とりあえずわたしのもっとも関心のある子ども時代を一通り書いたので、ここらで筆を置くことにしよう。
今日、図書館でエリクソンの『アイデンティティとライフサイクル』と『幼児期と社会』を予約したので、読んだらまたnoteで整理するつもりだ。服部祥子氏の『生涯人間発達論』も気になっているのだけれど図書館に蔵書がなくて、amazonで購入するか悩み中。同じ人が書いた『子どもが育つみちすじ』は借りられそうなので、それを読んでから決めようかな。


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