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利他とわたしと

月曜日は図書館の休館日だ。夜間返却ポストにぼこぼこと本を流し込んでいく。読みきれずに期限を迎える本たちにお別れを言う。
これから宿直で、明日が返却期限。だから残念だけど今日のうちに返しておくのだ。

唯一読み切ったのが『「利他」とは何か』だった。というか、長い長い予約待ちの末に突然手に入ったこれを優先したがゆえに、他が読めなかったところは大いにある。

じっくり読んで、何度もnoteにも書いてきた。

↓ 國分功一郎パートで印象的だった部分。同氏の『中動態の世界』は2度読んだけどまだまだ理解しきれていなくて、でも読むたびに何か掴めそうな感覚があるのだ。

↓ 伊藤亜紗パート。今回『「利他」とは何か』を読むに至ったのは、別に利他に興味があったわけじゃなくて、同氏の『どもる体』に魅了されたからだ。利他ってなんだか嘘っぽいなという思いがあって、利他といわれているものって結局はぜんぶ利己に帰結するんじゃないのと疑っていた。

↓ 中島岳志パート。何が真の利他なのか、利他はどこに存在するのか。それを明快に暴き出してくれて、思わず膝を打った。

それで、最後に。
わたしと利他の接点を探してみたくて。

前述したように、わたしは結局のところ利他って利己なんじゃないのという感覚がこれまで常にあって、だからわたしのなかの「○○のためにこれをしたい!」はぜんぶ自己満足だと自分に言い聞かせてきた。
児童福祉の世界に身を置いて、日々が子どもたちへのお世話の提供だけれど、それは子どもたちへの献身的で利他的な行為ではない。わたしがそうすることで、わたしはわたしを満たしているだけなのだから。自分で自分を自然に満たせる環境を選んだ結果なだけだから。
もちろん、あくまでも利己的な行為だからと開き直って子どもをなおざりにしてはいけない。何をどのようになすべきかの中心に子どもがいることを忘れてはいけない。ただ、わたしの動機付けの出発点はわたしであるということ。子どものため世のため人のためとすり替えて、責任転嫁してはいけない。これはわたしが選んだ、わたしがやりたいことなのだ。

でも利他はある。
わたしのなかにはないし、あなたのなかにもない。利他は誰にも所有されずに、不意に生じて消えていくもの。
持つべきと思っても持てないし、持つことを強要することもできない。ただその瞬間にそこにあるもので、誰の思惑にも服さない。

たとえばどの瞬間だったのだろうと振り返ると、びっくりするほど思いつかない。布団カバーのこわれたファスナーを取り替えたとき、苦手な具材をこっそり取り除いて提供したとき、1人だと心細そうな様子を感じて一緒に行こうと声をかけたとき、不安な様子を感じ取ってだっこをしたとき。
思い返すとどれも、「こうしたら喜ぶかな」「これをしたら安心するだろう」「こうすると後で困らずに済むだろう」、そういう打算が働いているのだ。どれもこれも。
必要だと思ったからやる。必要という判断が一瞬の隙に入り込んでいる。だから純粋な利他にはなりえなくて、必要なことをちゃんとやる自分という評価に返ってきてしまうのだ。

こんなふうに言ってしまうと元も子もないのだけれど、たぶん利他はすっと生じてすっと消えてしまう、掴みどころのない霧のようなものなんじゃないか。
確かにここにあったことを、もはや証明すらできない。理論上はあるはずだけど、個別具体的な姿を見ることはできない。だって考え出したらぜんぶ、利己に返ってきてしまうのだから。実体をもったとき、利己に結びついてしまう。
そんなふうに今は感じている。

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