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かわいいだけじゃないけどね

言葉づかいには気をつけているほうだ。
日常生活で声を荒らげることはないし、面と向かって毒づくこともしない。陰でも言わない。それがマナーで正しい振る舞いだと、幼少の頃から叩き込まれて骨の髄まで染み渡っているからだ。母の教育の賜物だろう。

だけど最近繰り返し聴いてとても気に入っている曲がある。
マギー・リンデマンの Pretty Girl だ。

世の中に中指を突き立て、F*** だの b**** だの言っている歌でおよそわたしの日常生活とは重ならない。それなのに、いやきっとそれだからこそ無性に惹かれるのだ。
遅れてきた思春期的な悪ぶりたい気持ちも多少あるのかもしれないが、鋭利な言葉の奥に強い意志をひしひしと感じてそれがわたしの心を打つ。

〽︎
'Cause I’m not just a pretty girl
I’m more than just a picture

かわいいだけの女の子じゃないのよ。
その叫びが、わたしの背中を力強く押してくれる感じがするのだ。

わたしはずっと、かわいいが苦手だった。
かわいいは褒めて相手を持ち上げているように見えて、むしろ対象を貶めるパワーワードだ。かわいいは、無知で無力な、他者の庇護がなくては生きていけない弱さの象徴だ。赤ん坊はかわいい。ペットもかわいい。そのかわいさは、手を施してあげるワタシがいるからこそ成立しうる存在であって、したがってかわいがるワタシとかわいがられるアナタの間には非対称な力関係が横たわっている。アナタがかわいいということは、アナタはワタシより無知で無力で愚かなのである。

かわいいは、男から女に向けられるまなざしだ。
女は無知で愚かだと、権力は男にあるのだと、だからわたしたちは子どもの頃から教え込まれている。
かわいいと言われたら、にっこり微笑んであるいはちょっとはにかんで、喜ばないといけない雰囲気がある。かわいいなんていらないと主張をしようものなら、それこそかわいげがないと非難されるだろう。かわいいは表向きは褒め言葉だから。かわいくなりたい、ならなくちゃと、女たちは女らしさの規範を内面化させていく。

お人形として生きるか、女を捨てて生きるか。どちらにしても生き苦しい。だからわたしは宙ぶらりんに生きてきた。かわいいから少しだけ距離を取りながら、手放せずに生きてきた。

かわいいだけの女の子じゃないのよ。
マギー・リンデマンがそう歌ったとき、わたしの耳に衝撃が走った気がした。
かわいいを自分のものにしてもなお、愚かさや無力さを突き放すことができるのかと。かわいいねと笑いかけて、搾取し、消費し、貶めようと近づいてくる人たちをそんなふうに笑い飛ばせるのかと。
かわいいだけの人なんてありえないと、そんな単純なことに気づかなかったわたしも世の中も愚かだった。
わたしたちはお人形ではないから。かわいいし、無力だし、無知だし、愚かだ。でもそれと同じくらい、みっともなくて傲慢で、賢明で頼もしい。

邪な心でかわいいねと声をかけられたなら、こう言い返してやろう。
それだけじゃないけどねって。

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