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子どもたちよ、大いに遊べ

バブちゃんがバイクを乗り回して宙を舞う。数々の障害物をモノともせず、鳥のような身のこなしで回転をかけながら飛び回る。滞空時間はおよそ30秒。
「あぶなーい!」とか「ぶつかりそうーー!」とか言いながら不安定な動きを繰り返すけれど、最後はなんとか立て直して「着地成功!」だ。

バブちゃんは子どもの手のなか。舞台はリビングで、それをわたしはそばで見守っている。スリリングなごっこ遊びの最中である。

子どもは遊びのなかでさまざまなものを表現し、心理療法のプロはそこに子どもの葛藤やわだかまりを見出す。心理学はわたしの専門外だけれど、数年前にプレイセラピーに同席させてもらう機会があった。
子どもの自由な表現がひとつのわだかまりに収束していくさまを目の当たりにして、衝撃を受けた。繰り返し、手を替え品を替え表現を続けながら、何かを理解しようとしているようだった。あるいは気づいてもらえない戸惑いや苦しみや怒りや、まだ名づけられていない混沌とした感情を訴えているようだった。

わたしもかつて子どもだったけれど、とても不思議な感覚だった。わたしはこんな風に、無意識のわだかまりを表現しえただろうか、と。そうでないとしたらそれは、わたしの表現力の不足ゆえか、あるいは抱えきれないほどの葛藤とは無縁の能天気で幸福な子どもだったということか。

バブちゃんが赤ちゃん言葉を使いながらも無敵にふるまう姿を眺めているうちに、わたしにもあったかもしれないと思い直した。

小学生のころ、ブロック遊びが大好きだった。レゴブロックで家を作って、コウキと名づけた男の子を住まわせた(女の子ではなく男の子だったのは、男の子のレゴ人形しか持っていなかったからだ)。もう一人男の子がいたけれど名前は忘れてしまった。コウタだったかな。
コウキをわたしが、コウタ(仮)を弟が操作してごっこ遊びを展開した。弟はいつもこれに付き合わされていたのだった。弟はブロックでロボットを作るのが得意で、コウキとコウタに相棒のロボットを一体ずつあてがってくれた。
コウキは天才少年で、5歳で小学校を卒業して身体能力も高い。コウタはきょうだいだったはずだが、詳しい設定は忘れた(たぶん興味もなかったのだろう)。

わたしはコウキがいかに人並外れた優れた才能を持つ人物であるかについて弟に熱弁をふるい、圧倒した。年上で弟より弁が立つから、自分に都合のいいことを好き勝手言っていたのだと思う。付き合わされる方は大変だっただろうが、わたしは必死だったのだ。

小学生のわたしは、自分が凡庸でちっぽけな存在であることに薄々勘づいていた。クラスで目立つのは声が大きくて誰とでも仲良くなれて自信のある子たちで、わたしはそうではない。
ドッヂボールは上手に投げられないし、いつも誰かの後ろに隠れているし、算数が苦手だし、親友と呼べる人もいない。顔立ちもはっきりしないし、服もダサいし、みんなの観ているドラマやバラエティも知らない。
所在なくて、不安で、自信がなかった。それがすごく嫌だった。

わたしはコウキになりたかった。
自分が特別な存在だと思いたかった。才能ある自立した人間として生きたかった。

思春期に片足を突っ込んで、わたしは理想の自分と現実の自分との乖離を埋めようとしていたのだろう。かりそめのコウキとしての全能感に時々浸りながら(その度に弟を振り回しながら)、ダサくて頼りない自分を受け入れようとしていたのだろう。
中学に上がって、きょうだいの共有物だったブロックを弟に譲った。わたしはその後もしばしば空想の世界に逃避したけれど、遊びとしての表現はすっかりなりを潜めていった。わたしはそうやって少しだけ大人になったんだと思う。

バブちゃんが赤子でありながら誰よりも勇敢なのも、ボロボロになりながら必ず最後には成功を収めるのも、きっと意味がある。
子どもたちよ、大いに遊べ。

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