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気分の上がる消耗品ほど、買い物が楽しいものはない

文房具屋は楽しい。
小中学生の頃はかわいいシャーペンや色ペンを探して何十分でも同じエリアをうろうろしたし、大学生になっても手帳を真剣に選んだ。服を買うよりも手頃で、似合う似合わないよりも純粋に好きなものを選べる幸せがあった。

しかし今やボールペンは書き心地重視のジェットストリーム一択(コンビニで調達)だし、手帳はGoogleカレンダーで事足りる。文房具屋の楽しみは、わたしの生活圏の外に弾き出されてしまっていた。
かわいくて幸せなあの空間は、わたしよりもっと若い世代にバトンタッチされてしまったのだと気づいた。あの空間を必要とし、それを身にまとい、そこで生きる人たちという属性から、いつの間にかわたしがこぼれ落ちたのを知った。
それはさながら甘酸っぱい青春を懐かしむ大人の心境で、すなわちさほど悪い気はしないものの、圧倒的に不可逆な隔絶だった。

あるいはそう思い込んでいた。
なぜならば今、わたしは時々思い出したように文房具屋を徘徊する。カスタムできる5色ペンや分厚い手帳を手に取ってみることはないけれど、代わりにいつまでもレターセットを見比べている。

子どもたちと生活をともにする今の仕事を始めて、手紙を書くという極めてアナログな営みが復活した。中学時代の交換ノート以来だろう。
レターセットにメモ帳、付箋。探せば探すほど、かわいいの沼にはまり込んでいく。あれもこれもとうっかり手を出してしまう。持っているだけで気分の上がる消耗品ほど、買い物が楽しいものはない。
かわいい、の基準が大きく変わったことの自覚はある。キラキラしていて水色でハイビスカスな柄より、わかりやすいキャラクターがにっこり並ぶメモ帳より。浅葱色の美しさだったり、ワンポイントの名もなきイラストの素朴さだったり、そうかと思えば驚くほど大胆な配色に惹きつけられている。
そうか、たしかにどこかへ置いてきてしまった何かがあるようだ。かつて肺いっぱいに吸い込んだ空気はもうここにはないし、わたしは今それを必要ともしていない。それは寂しさでもあり、わたしのこれまでの歩みの証でもある。
だけれど文房具屋で浮き足立つ気持ちも、かわいさに触れてうっとりする気持ちもまだここにある。文房具マーケットのなかから、わたしはちっともこぼれ落ちてなんかいなかった。むしろ稼ぎがある分、かつてより落とすお金は大きい可能性すらある。

幸せや寂しさの象徴の上にジェットストリームを走らせて、メッセージをしたためる。浅葱色や素朴なワンポイントから、ここにはないハイビスカスやキラキラから、文字以上の思いをのせて。重たすぎる手紙をあなたに届ける。
しょうがない、だってこれぜんぶでやっと、わたしなんだもの。

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