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痩せたい、は誰の望み?

体を鍛えたいなと思っている。
思っているだけで何も行動していないのだけれど。

子どものころからずっと痩せ型だった。痩せている方がいいという現代社会の歪んだ価値観は平成の小学生の間にもしっかりと蔓延していたから、友だちによく羨ましがられたものだったし、わたしもわたしでまんざらでもなかった。

お風呂場の鏡の前でキヲツケをして、脚の細さを確認していた。
テレビで誰かが膝とふくらはぎと踵の3点だけが触れるのが美しい脚だと言っていたから、自分がそれに該当するのか確かめたかったのだ。ふくらはぎをくっつけるためには不自然な力み方をしなくてはいけなくて、だからわたしの脚は美しくないのだと少し落ち込んだ。

中学に上がって体つきが大人に近づくにつれて、太腿の太さが気になった。太腿は太い腿と書くのだから太くて当たり前だと今では思うのだけれど、あの頃は変わっていく自分の体が少し怖かったのだろう。自分が自分じゃなくなっていくような。
あれが思春期の脱皮の感覚なんだろうな。だからちゃんと、覚えておこう。

体重が生まれて初めて落ちたのは、2年前だった。赤ん坊から中学までずっと右肩上がりだった体重と身長が気がついたら高校で止まっていて、そのまま特段増えも減りもせず大学生と社会人をやってきた。
だから体重計が見覚えのない数値を叩き出したときには己の目を疑った。そして、この数字がずっと続けばいいと思った。
痩せたいと思ったことはなかったけれど、いざ少し痩せた自分を目の前にしたらそこにしがみついていたくなった。これはどう理解したらいいんだろう?

もっと痩せたらきれいになるかも。そんな願望が無意識裡にくすぶっていたのだろうか。そんなわけないのに。
線の細さはすべてじゃない。
理想的な細さがどこかにあるとして、それに到達したからといって劇的にすべてが好転するわけはない。たちまち別のどこかが気になって、「もっとこうなったら…」の願望が無限に湧き上がってくるのが関の山なのだ。

鏡に映る薄っぺらい腰をしげしげと眺めているうちに、なんだか自分がとてもみすぼらしく思えてきた。
ワンパンチでベコッと曲がってしまいそうなヤワな体で、わたしは一体何を守れるだろう?
芯のある強い女になりたいのに、こんな見るからに弱そうでいいのか?
太ったねと言われると恥ずかしい気がしていたけれど、痩せたねと言われる方が恥ずかしくないか?

少し前、数年ぶりに会った両親がすっかりやつれて見えたのが衝撃的だった。歳を取ったら体質が変わるからと思っていたけれど、どうやらわたしは老後に痩せすぎる心配をしたほうがいいようだ。
だからもっと、健康的な体をつくりたい。
しっかり栄養をとってほどよく運動をして、丈夫な骨と筋肉をつけて。

お人形のような細さに美しさを見出す価値観が、わたしたちの間から抜けきるまでにはまだ何世代かかかりそうだ。YouTubeの広告が、雑誌の中のモデルたちが、インスタ映えの「友だち」が、こぞって訴えてくるのだから。ちょっと気を抜けば周りと比べずにはいられなくなって、鏡の中の自分が足りなく見えてくる。
それはわたしの望みなのか、見えない誰かから押しつけられた望みなのか?
わたしは、わたしの望みに耳を傾けてあげられるわたしになろう。

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