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透明人間は今日も涙をこらえる

特技は八方美人です。
押しつけない、出しゃばらない、ふり乱さない、荒ぶらない。穏やかに受け止めて温かい眼差しを送って、感じのよいわたしを演出する。
その場の誰にとっても不快感のない、当たり障りのない存在になる。それは自我を消し、透明人間になるということだ。

ワタシを主張して煙たがれるより、隠したほうがいい。大事なワタシはわたしのなかにとっておいて、無難な顔を晒したほうがいい。だって傷つくのはこわいから。

ずっとそうやって生きてきた。
人の顔に向かって悪態をついたり、泣き叫んだり、言葉でねじ伏せたりしないで、時々不機嫌を隠しきれずに押し黙ることはあるけれど、ほどよい距離感で人と関わってきたと思っている。可もなく不可もない存在として。
就活のグループディスカッションでは他の就活生に「せっかくいいこと言ってるんだから、もっと自信を持って意見を言ったほうがいいと思う」とダメ出しをされ(建設的な批判をするところまでがグループディスカッションなのだ。鼻息荒い就活生たちとのグループディスカッションが本当に嫌だった)、最近も上司から面談のたびに「もっと自分のカラーを出しなよ」と指摘をされている(自分の何をどうしたらカラーが出るのかわからない)。透明人間に今さら自己主張を求められても、困るのだ。

おかげで逆恨みされたり悪い噂を流されたりすることなく、穏やかにここまで生きてこられた。他者と距離をとって生きることの寂しさをまったく感じないといったら嘘になるけれど、この生き方を手放すほうがよっぽどこわかったから。

ああ、でも。
八方美人の透明人間という生き方を意識的に選択してきたわけではなかったな。では何がわたしをそうさせたんだろう?

頭に何かが浮かんだとき、それを口にする前に少し間がある。今これを言うのが適切なのか、誰かを傷つける言葉ではないか、言わんとすることは正しいのか。そういうことを考えた末に発言を見送ってしまうことが少なくない。
「怒ってるところを見たことがない」と言われることの多い透明人間でも怒りを覚えることはあるし、苛立ったり悲しさや虚しさに襲われたりすることもある。負の感情が湧いてきたら、わたしがまっさきに考えるのはそれを鎮めることだ。負の感情は、自分一人で処理するもの。人を巻き込んではいけない(仮に相手がその原因を作った人であったとしても。なぜならその感情はわたし自身のものだから)。だからぐっとこらえる。気持ちが落ちつくのを待つ。

それはちょうど、涙を堪えているときのようだ。
小さいときから泣き虫のわたしは、ちょっとしたことですぐ泣いた。悲しいとき、悔しいとき、嬉しいとき、驚いたとき、怒ったとき、戸惑ったとき。わたしの感情はぜんぶ涙になって出てきた。「泣かなくていいよ」と優しくなだめられたときも、「泣けばいいと思うな」と余計怒られたときも、決まって嗚咽して一層泣いた。
泣いて感情表現したかったわけじゃない。ちっとも泣きたくなかった。泣いていいことなど何もなかった。泣いている自分を冷ややかに見つめるわたしがいた。
中学に上がるときに、泣くのはやめようと決めた。それからいつも、わたしは涙を堪えている。悲しいとき、悔しいとき、嬉しいとき、驚いたとき、怒ったとき、戸惑ったとき。わたしの感情が涙になって出てこようとするのを、喉をきゅっと締めて押さえ込む。泣いていると思われないように、必死にこらえるのだ。

言おうとした言葉を飲み込むのも、負の感情を自分のなかだけで消化しようとするのも、溢れそうな涙を押さえ込むのとおんなじだ。
あるいはきっと、涙が漏れ出てしまうのを防ぐために言葉や感情にまで蓋をしてしまうのだ。まるごと押さえ込んでしまえば安心だと。

泣き虫のレッテルからお別れすることには成功したかもしれないが、本質的にはわたしは未だに泣き虫だ。涙を堪えようとするたびに、言葉も感情も一緒に飲み込んでしまう。わたしはますます自我を消し、透明になっていく。
「泣いてもいいから言ってごらん」
そう自分に言ってあげれば楽になるかもしれないけれど、わたしにはとても言えない。泣き顔を晒すなんて、感情をぶちまけるなんて、こわすぎてできない。

色のついた涙を流せるまで、わたしは透明な顔のまま。嫌われてもいいと割り切れるようになるにはまだ時間がかかりそうだ。

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