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あわよくば、醜くて情けなくて怠惰なわたしから決別したい

今日も今日とて、趣味の中学数学を解いた(趣味歴はたったの数日だけど)。子ども時代あんなに苦手だった数学を今さら学び直したくなった話を先日書いたところだ。

今日は比例・反比例と連立方程式と一次関数をやった。「もうちょっとだけ」と自分に言い聞かせながら、ずるずると先に進む。大量の宿題プリントを泣きながら解いた中学生の頃のわたしが見たらきっと、気が触れたと心配するだろう。なんでこんなに楽しいんだろう。なにがあの頃と違うんだろう。

一つ言えるのは、これがわたしが主体的に選び取った行動であるということだろう。中学生のわたしは大人たちに言われるがまま、流されるがままに数学を学んでいた。教えられて、なんとかついていこうと踏ん張って、でもうまく行かないから嫌だった。できることならば逃れたい。数学は縛りだった。
しかし今、わたしにとっての数学は遊びだ。それもごくごく簡単で丁寧な問題と解説で「わかるぞ!」の成功体験を積み重ねていける、数学の女神さまに見放されてやさぐれていたあの頃のわたしを抱きしめてあげられる、そんなやさしい遊びだ。遊びだから進んでやるし、進んでやるからこそ遊びなのである。

新しいことを始めようとするときって、わくわくする。昨日までのわたしとは違う、素敵なわたしになれるような気がして期待に胸がふくらむ。たぶん、わたしはすごく単純な性格だから。
数学を始めるときも、アマゾンで注文してから問題集が家に届くまでの間ずっとそわそわしていた。全部解き終えた頃にはもう、中学数学がわからなかったあの頃の小さなわたしじゃないんだとか。その次は高校数学のチャート式をやるんだとか。
ピアノを買ったときもそうだった。YouTubeでハラミちゃんが楽しそうに自由自在にストリートピアノを弾くのを何度も見ているうちに自分でも弾きたくなって、ヨドバシカメラに行った。『ブルクミュラーの25の練習曲』をアマゾンで買って、パラパラめくりながらニヤついていた。今から少しずつ練習したら、ハラミちゃんには到底届かないにしても、50年後にはそれなりに弾けるようになっているはず。小学生の頃早々に投げ出してしまったピアノを、今度こそ。

そう考えると、新しいことを始めるときのわくわくは期待なのだろう。
わたしの中で蠢いているネバネバした劣等感から、やっとわたしはわたし自身を解放してあげられるかもしれない。そんな期待だ。

小学校の中学年ぐらいまで、家族みんなで川の字になって寝ていた。それ自体に大きな不満があったわけではないけれど、いとこのお下がりのベッドをもらえることになったときすごく喜んだのを覚えている。ほぼ荷物を置くだけの空間だった自分の部屋に、ベッドが来る。それはわたしにとって、新しい未来の始まりの予感だった。

ベッドが届く前の日の夜、いつものように寝転がりながらわたしは父に新しい未来のプランを話した。

明日ベッドが届くやろ?
そしたら、学校から帰ったらまずランドセルをお部屋に持って上がるの。
いつもはとりあえずリビングに置くんやけど、これからはちゃんと部屋に置きに行くんやで。
それで、リビングじゃなくて勉強机で宿題して、部屋で遊ぶの。

あの日の空想を、今も時々思い返す。
あんたその話全然ベッド関係ないやん、と思う。

それはつまり、ベッドが来るという事実がわたしの部屋の意味合いをガラッと変えたということなのだろう。ただわたしの所有物を置いておく場所だった部屋が、わたしの寝る場所になる。1日の3分の1を過ごす場所になる。それは劇的な変化であって、大きな変化はわたしに新しい未来をもたらす。

新しい未来を迎えるとき、わたしは思わず背筋を伸ばすのだ。小学生のときからそれは変わらない。わたしが丸ごと生まれ変わるような気持ちになって、あわよくば自分の醜くて情けなくて怠惰な部分と決別したくて。
そんなふうに都合のよいことばかりじゃないけれど、わくわくと期待に胸をふくらませるその一瞬の間だけでも、わたしは自由になっていたい。ネバネバした劣等感を忘れて、素敵なわたしになりきっていたい。

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