92年生まれが読む、キム・ジヨン⑨

性別役割分業というのは、近代が生んだきわめて合理的な営みであった。

男が外で働いて給与を得てくる一方で、女が家を整え食事を作り、子を育て近所づきあいをする。二人がつがいになって家族を組織することで、安定して生きていける。そうやって、近代の家族は生き延びてきた。

生き延びられることと、個人が幸せであることは分けて考える必要がある。

生まれた性によって生き方を決められることは、現代を生きるわたしたちにとってはもはや、幸せではない。だけどそのシステムは、もっともらしい言い訳とともに、いまだに再生産され続けている。

 結局、夫婦のどちらか一人が会社を辞めて子どもの世話をするしかないという結論が出て、その一人とは当然、キム・ジヨン氏だった。チョン・デヒョン氏(注:キム・ジヨンの夫)の会社の方が安定していて、収入も多いし、またそれらすべての理由とは別に、夫が働き妻が子どもを育てるという暮らしが一般的だからである。
 予想していなかったわけではないが、キム・ジヨン氏は憂鬱になった。チョン・デヒョン氏がキム・ジヨン氏のがっくり落とした肩をたたいて言った。
「……(中略)……僕が手伝うよ」
 チョン・デヒョン氏は本心からそう言い、それが本心であることはよくわかっていたけれど、キム・ジヨン氏はかっとなった。
「その「手伝う」っての、ちょっとやめてくれる? 家事も手伝う、子育ても手伝う、私が働くのも手伝うって、何よそれ。この家はあなたの家でしょ? あなたの家事でしょ? 子どもだってあなたの子じゃないの? それに、私が働いたらそのお金は私一人が使うとでも思ってんの? どうして他人に施しをするみたいな言い方するの?」
 やっと結論が出て一件落着したのに、またいきなり腹を立てているみたいで、キム・ジヨン氏はちょっと申し訳なく思った。当惑顔で口ごもる夫に、先にごめんと言い、チョン・デヒョン氏は大丈夫と答えた。(『82年生まれ、キム・ジヨン』より)

このやりとりにあえてツッコミを入れたいのは、
①表面的な事実や一般論を持ち出して合理的な結論を導き出したように見せかけた、誘導(あるいは諦め)ではなかったか?
②「手伝う」発言問題に見られる当事者意識の欠如は、いつから生じるものなんだろう?
③大事な主張を、事を荒立ててしまった罪悪感によって打ち消してしまうやるせなさたるや……。
の3点である。

上記の引用がキム・ジヨンの妊娠がわかった後の夫婦の話し合いの様子であるのに対して、下の引用は出産後。昼間に子どもを連れて入ったカフェで、見知らぬ男性たちに「ママ虫(育児をろくにせず遊びまわる、害虫のような母親という意味のネットスラングとのこと)」呼ばわりされたことを夫に話す場面だ。

「……死ぬほど痛い思いをして赤ちゃん産んで、私の生活も、仕事も、夢も捨てて、自分の人生や私自身のことはほったらかして子どもを育ててるのに、虫だって。害虫なんだって。私、どうすればいい?」(『82年生まれ、キム・ジヨン』より)

これを男への攻撃だと捉える人もいるかもしれない。だけれど、キム・ジヨンがこうして自身の生きづらさを自分の言葉ではっきりと訴えられたことは、とても意味のあることだったと思うのだ。

苦しみを言語化できたからといって、ただちにその苦しみが和らぐとは限らないが、苦しみを乗り越えるために必要な、とても大きな第一歩を踏み出したことには価値がある。

苦しさを感じてはいけないと目を背けたり、自分の弱さを責めたり、自分一人で解決しなければならない問題だと抱え込んだり。わたしたちによって、そうやって生きづらさは存在しないものとして、これからも隠蔽されていく。

しかし、キム・ジヨンのように苦しさを直視し、発信することで、それは再発見されるのだ。声を上げることは存在を認めることであり、声を上げないことは、存在を否定することである。

声を上げることで誰かを傷つけてしまうかもしれない、自分が傷つけられてしまうかもしれない。そういう恐怖もあるのも、残念ながらたしかに事実である。身を滅ぼしてまで声を上げなくちゃいけないかと問われれば、そうしなくていいと言いたくなる。だからせめて、誰かが声を上げたことで自分が傷つけられたと感じたときには、その人がそうまでして存在を否定せずにはいられなかった苦しみに、わたしも勇気をもって向き合いたい。

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