読んだ人にしかたぶん伝わらない感想文

十数年ぶりに読んだ、辻村深月の『子どもたちは夜と遊ぶ』。物語の大筋とそれに関連する伏線はまだ記憶にあったものの、それ以外の内容は結構ごっそり忘れていることに気がついた。登場人物のことも、割と主要な恭司や萩野さんのことがすっかり頭から抜け落ちていた。
人間の記憶なんてものは案外当てにならないもんだな、なんて。あるいは、それってわたしだけだろうか。

なお、以下は完全なるネタバレなので、未読の方は要注意。
十数年の時を経て、わたしの心にぐさりと刺さったポイントを紹介する。

石澤恭司という人物

なんでこの人の存在を忘れていたんだろう。「ああ、もう早く死にてぇよ」が口癖で、どこか投げやりで壊れたような物の言い方をする、思考が自由でデタラメな彼。十年ぶり二度目の『子どもたちは夜と遊ぶ』で思いがけずわたしに強烈な印象を残したのは、石澤恭司という人物だった。

茶色く短い髪をヘアムースでわざとばさばさに立てたヘアスタイル。それをスタイリングするのには、毎朝結構な時間がかかってるんじゃないだろうか、月子はいつもそう思う。雑誌の中に出てくるような、洗いざらしのような髪は、流行で定義された乱雑さを備えている。色の褪せたジーパンをはいた長い足と、ノースリーブのランニングシャツから伸びる健康的に日焼けした腕。そんなに体格がいいわけではないが、それでも男らしくしっかりとした腕をして見えるのは、骨が太いからだろう。切れ長の目の、その右の瞼の上。片目だけ金のリングのピアスをしている。そんな目立つところにピアスをしてるくせに、耳や唇にはなし。右の瞼の他にはあと一箇所だけ、舌にピアス穴を空けているのを月子は知っている。

子どもたちは夜と遊ぶ(上)

実は、作中で一番最初に丁寧に紹介されているのが、浅葱や狐塚や月子を差し置いて彼、恭司だった。物語の進行とともにどんどん浅葱が壊れていくなかで、恭司は一貫して脇役だった。異質な脇役。
それに、しっかりした体つきで派手な遊び人の恭司は、浅葱とはまるで正反対だった。だから油断していた。
まるで正反対でありながら、だけど彼らは同じものをもっていた。

恭司は小学生の頃、父と母と弟を飛行機の墜落事故で失った。自分だけが助かって、親戚中をたらい回しにされた末に父親の知人夫婦に引き取られて育った。
かわいい女の子をとっかえひっかえして、すぐにダメになって別れる。行きずりに近い女の子たちに自分の過去と境遇を洗いざらい全部話す。月子はそんな恭司に腹を立てている。

「かわいい弟も、恭司を守って死んでしまった両親も実在してはいけない。彼らを心の支えに思えないなら、恭司は本当におしまいなのに、何故それをそんなに軽い小道具にしてしまえるの?」
(中略)身を挺して彼を守った両親と、自分を慕っていた弟。恭司がそれを簡単に切り売りできてしまうというのなら、彼の抱える闇は恐ろしく深い。

子どもたちは夜と遊ぶ(下)

恭司の歯止め

「別に何でもいいんだけどさ、俺、月ちゃんとか狐塚にだけはいつも笑ってて欲しいんだよ。泣かすようなら、いくら浅葱でも俺、殴らないといけなくなる」

子どもたちは夜と遊ぶ(下)

恭司はたびたび、「ちょっと人を殴りに」家を出る。一緒に暮らしている狐塚がうんざりするほどに。
だけど、彼がことさらに狐塚と月子を大切にするのには理由がある。彼にとって、狐塚と月子は「歯止め」。自分が人生にとても冷めていることを、「俺には何もない」ことを自覚して、だからこそ、彼にはふたりが必要だった。破滅への針が飛び抜けて大きく触れそうになったとき、それを止めるものが必要だと悟ったのだ。

「さっきの話の続きだけどさ、そういうのがあるといいよ。特に俺や浅葱みたいな人間には」
冷たい水を喉に通すと、頭がだんだんとクリアになっていく。浅葱は恭司を見た。
「そういうのって?」
「何ていうのかな。大好きで、泣かせたくない人を一人作っておくんだ。(中略)俺、これだけは譲れない。そうしないと駄目なんだって、昔、気づいた。でないと生き方がどんどんデタラメになって、だらしなくなる。俺、怖いよ。自分が何に対しても夢中になれない、執着できないっていう今の状態」

子どもたちは夜と遊ぶ(下)

「俺とは正反対だったから、いいと思ったんだ。こいつと友達になって、俺に巻き込まれてもらおう。こんな真面目ないい奴を巻き込むんだから、取り返しのつかないことだけは絶対にしないって決めた。だからさぁ」

子どもたちは夜と遊ぶ(下)

さっきわたしは恭司と浅葱を「正反対」と表現したけれど、別の意味で恭司と狐塚は「正反対」であるし、その意味で恭司と浅葱は「同じ」だった。

子どもでいられなくなった子どもたち

再読をはじめていちばん違和感が大きかったのは、月子と狐塚の距離感だった。二人は兄妹だ。しかし、読者には恋人同士だと思い込ませるトリックが仕込まれている。だから当然っちゃ当然なのだけれど、兄妹とわかった上で読み進めるとちょっと無理があるのだ。

ちょっと無理がある、そう思ったけれど、一方でそれが歪な事実でもあった。小学生の頃に父が死に、「お母さんをよろしく」と言い残された狐塚と月子。母親からの虐待に苦しんだ浅葱と兄の藍。
無条件に大人から愛を受けて、無邪気さを守られる子ども時代を奪われてしまった彼らは、生きるために必死だった。気丈に振る舞って親子関係が逆転したり、恋人同士と見紛うような異様な距離感で兄と妹が共依存的になっていたりしたけれど、生きるためにはその歪さを受け入れなくちゃいけなかった。

だからその意味では、「正反対」と思われた狐塚と月子もまた、恭司や浅葱と「同じ」であったと言えるのだろう。それぞれの生い立ちは全然違うけれど、奇妙に一致しているのは、彼らがかつて、子どもでありながら子どもでいられなくなったということだ。

恭司は、彼らのなかで一足先に社会人になった。ブラック企業に就職して、懸命に働いて、そうしてあっさり仕事を辞めた。BMWを乗り回して、女の子をとっかえひっかえして、ときどき人を殴りにでかけて。彼は彼なりのポリシーに従って、デタラメに自由だけれど、それでも大人になったんだと思う。子どもでいられなかった子ども時代と訣別して、大人として生きることを受け入れた。彼には大好きで、泣かせたくないふたりがいて、それを支えにさっぱりと生きている。
月子のように己の傲慢さに押し潰されたりしないし、狐塚のように過保護な兄にはならない。恭司は誰よりもはちゃめちゃなのに、ちゃんと大人だったのだ。

なぁ、お前を月まで飛ばしてやるよ。

まあいろいろ書いたけれど、二度目なのに懲りずに驚かされたのは何といってもエピローグの「月子と恭司」だった。
「すごいな、恭司。お前、本当、でたらめにすごい」と述べる狐塚にわたしは全面的に同意する。
そして、「石澤恭司はとても優しくていい男なんだ。本当にかっこいい」と述べる浅葱にも全面的に同意する。

最後の最後に彼はやってのけた。狐塚にも、秋先生にもとても真似できない、彼だからこそできるとんでもない芸当だった。作中で恭司が浅葱と接触する場面はそんなに多くはないけれど、大事な局面にいつも恭司がいる。そして彼は、一度は狐塚のため、もう一度は月子のために、彼らを深く傷つけた浅葱を(一発お見舞いしながらも)救ったのだ。


十数年ぶりに再会した恭司は、とてもかっこよかった。わたしが大人になったからだろうか。

生きる意味を見失ったあなたに、それでも生きて欲しいとわたしは願う。
ねぇ、不幸にならないで。

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