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卯月コウ focus on 感想(メタ注意)

何度もやりとりを重ねて作ったとTOYBOXで語っていたFOCUS ON。その口ぶりから感じられた確かな自信がなんだか嬉しかった。

放課後シャングリラ

卯月コウの名刺代わりになるべく作られた、まさにキャラソン。しかし単なる活動内容紹介ではなく本人の思考や配信上のポリシーがキャラとして仕上がっているのがいい。これと比べるとアイシーは卯月コウ以前が含まれており、公開する必要はもうないのだろう。なぜかそんな納得感があった一曲。少し意表を突いてくるイントロのメロディーと展開は、にじさんじ内でも際立つ彼のクセあるキャラクターを表しているのだと思うと面白い。

何者

筋が通った解釈ができずしばらくループ再生していた。もちろん歌詞よりもリズムを重視した楽曲や、私秘的な楽曲もあるが、コウはあくまで歌詞を読ませようとするだろうという妙な信頼があった。

重要なのは「世界」と一曲の中で夜から朝へと進行していく「時間」だ。ラスサビの「君はいない」「別れを告げる間もなく朝日が照らす」、冒頭の「世界が無くなる」、最後の「最果てよりも遠くの景色を見に行こう」辺りからして、世界という空間的なスケールと夜という時間的なスケールは同期しており、夜が終わって朝日が来る時、世界もまた終わる。しかしこの「世界」はたった一つの世界というわけではなく、より良い望んだ明日のために、「世界」の先の景色を見に行くところで曲が終わる。

この「世界」とは卯月コウによる一連のプロジェクトそのものであり、「夜」とはこの楽曲で歌われるような苦境の日々、人生のことを指していると私には読める。「世界の果ては誰かが手放した未来」というフレーズにもこれなら筋が通る。世界の果て即ち卯月コウの終わりが到来したとき、卯月コウであった何者かは卯月コウ目線で描写しえない「誰か」として最果ての先に去り行く。「鏡写しの痛みが僕を呼んだ」とは卯月コウと卯月コウであった誰かが離別する瞬間の、後ろ髪引かれるような感覚を表しているのかもしれない。(ちなみにこの歌詞が軍団視点であり、「鏡写しの痛み」がコウであるとするなら、卯月軍団同一視支部が考えを改め自身の生を歩む物語としても読めることに気が付いてしまったので重たい感情をお持ちの方はどうぞ。コウ自身は同一視支部のことは嫌いではないのものの釘を刺しているので、コウ視点から軍団を表現するのに鏡写しという言葉は使わないだろうという認識。)

以上、私にとって『何者』は卯月コウという世界の限界についての歌であり、最期を見据えた激励の歌である。彼は夜を抱擁し、私たちに放課後シャングリラを提供してくれるが、確かに世界の外部は存在し、そこで私たちは独り行かなければならない。卯月コウが世界の外部について語ることはないし、世界の外部で私たちと交錯することもない。それでも遠くの景色を見に行こうと彼は勇気づけてくれる。

私にTOYBOXの既婚者(ほんとう)卯月コウ概念がちょっと効いたのは、この矛盾した論理が世界内ではありえないために、却って最果ての到来を予感させたからである。(ヴィトゲンシュタイン!?)(俺の中の読書の秋卯月コウ2は背伸びして論理哲学論考を読んでるけど何も頭に入ってないんだよね!?)

それにしてもこの男、あまりにもファンに誠実に向き合いすぎている。
コウ、次回は少し肩の力を抜いて袖について歌わないか?

追記:リリース後の夏の写真コンテスト配信にて、世界の終わりについての言及があった。

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