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第5章第7節 長次郎とゆく黒部奥山廻りの道

児童雑誌編集者の大井冷光と、洋画家の吉田博が明治42年に立山室堂と黒部峡谷を往復した山旅の記録。案内人は、点の記で知られる宇治長次郎。一ノ越からザラ峠を経由せず中の瀬平に下りる近道は昔ながらの黒部奥山廻りの道だが、現在では幻のルートとなっています。


室堂周辺は日増しに秋の気配が濃くなった。明治42年8月22日、この日は朝から快晴で冷え込みが強かった。肌寒くて綿入れ着が欠かせない。8月14日に起きた地震の影響もあるのか、登山客は少なくなって前夜の室堂宿泊者はわずか2人だった。[1]富山日報の夏山臨時支局「立山接待所」は7月25日の開設以来まもなく1か月を迎えようとしている。大井冷光はこの日、画家の吉田博とともに黒部谷へ出かけることに決めていた。

黒部谷はいまでいう黒部川の谷すなわち黒部峡谷のことで、だいらと呼ばれるすこし広くなった場所に平ノ小屋(標高約1380m)があった。信州から針ノ木峠(標高2536m)を越えて立山へ登るルートの中継点にあたる。かつてここで通行料を徴収していた名残で、道銭小屋とも言った。小屋を守る主人は遠山品右衛門といい、足掛け36年も黒部谷でイワナを釣っているという。[2]針ノ木峠を越えて室堂に来た人たちの話を聞いて、冷光は一度その小屋に行ってみたくなった。名物のイワナを食べ、あわよくばクマに遭遇してみたいと思った。社務所の人たちに話すと「あんな山の中へ何が面白くて行きます?」と制止されるのだった。立山登拝を生業とする岩峅・芦峅の神官や仲語たちにとっては「室堂が御城下」なのだといい、黒部谷には関心がなさそうだった。

冷光は、道案内として、芦峅・岩峅の仲語ではなく大山村大字和田村の宇治長次郎を雇った。長次郎は、明治40年の陸地測量部の剱岳登頂、つい1か月前には石崎光瑤ら民間人の剱岳登頂を導いた案内人だ。冷光に言わせると「黒人(くろうと)」である。

3人は午前11時半、社務所の一行に見送られて出発した。「妙な気持ちがしますな」と吉田が冷光に言った。室堂滞在は冷光28日目、吉田が19日目になる。同じ釜の飯を食った者同士、「住み馴れた家庭を離れる時の様な」気持ちになるのだった。

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