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第3章第5節 家庭問題と上京決断


上京への夢と迷い

大井信勝(のちの冷光)は明治36年4月2日、富山県立農学校を卒業した。その後、同校の補習科に残り、受験勉強をはじめた。2年生の夏の日記に「東京病をやみ始めし」と書いて以来、東京で学びたいという思いは強かったが、具体的な進路となると決まっていなかった。

4月20日、東京に出た1年先輩の林一見と市山雄二から手紙が来た。そこには「野心に充たされたる僕等でさいもさてびっくり致した所だ」とあり、信勝は「アゝ東京、東京は果して自分等が予想して居る所のやうな場所だろうか」と思案する。5月4日、尊敬する先輩久田と語り合う機会があり、久田から「功名心にからるゝか、趣味にからるゝか」と問いを投げかけられ、信勝は悩んでしまう。それから2週間後の日記にこう記している。

「久田兄から功名心か趣味かと云はれてから自分の来年上京せんとするのもなんだかいやになってきた
而し又小康に安んじて心が止まるとそれでまた人間もだめだから宜しく野心でも功名心でも大きく遠く、且つひろくもつべしだ」(明治36年5月18日)

そして、その2日後こんなことを記している。

「五島は美の神にさらはれた清水は宇宙の……とか云つて迷へ出た、盛一はホームの暖かいので、久田は植物にとられて、澤辺は文芸に酔ふて居る、扨て僕は……」(『波葉篇』日記、明治36年5月20日)

五島は明治35年5月に上京して東京美術学校に進学。盛一は明治34年、2年生のときにすでに結婚して家庭をもっている。久田は園芸家の道を進もうとしている。澤辺は文芸にのめりこんでいる。[1]。そして自分は、農学校を卒業して今からどうするのか。そういう内容である。

伯父の投機で家庭不和

卒業後、東京に出ることに迷いが生じている理由の一つに、おそらく伯母の家の家庭不和とその原因である伯父の投機問題があった。

すこし時は遡るが、16歳、3年生の春から夏にかけての日記に予兆がみられる。

「帰省した。が嬉しくもない、又別に感心もしない」(明治35年5月2日)

「大掃除を下女と共に手伝つたのだけれど別に此の家は清くなつたとも快くとも思はれないのである、子煩悩も極度に至つては閉口」(5月13日)
「帰省した。が感心しない。それは余り家庭が不整頓だから。実に家庭こそ暖かるべきものなり」(7月27日)

伯母の家庭のどこに嫌悪感を抱いていたのか。伯父伯母にはこのとき2男3女の計5人の子がいた。信勝のいとこにあたる。一番上が長女でおそらく信勝より1歳か2歳下。のちに妻となるニ女文は4歳下、三女は10歳下である。そして一番下の二男は13歳下で数えの5歳だった。いとこたちとの関係はそれほど悪くなかったようだ。明治35年の夏休みに帰省した際、姉が妹の髪を結っている様子を日記に記し、幼い二男にお伽話を話してやり抱いて寝たと記している。その年春に帰省したときは、二男のために馬の玩具を半日余りかけてつくったこともあった。いとこたちから見ると、信勝は勉強も何でも教えてくれる頼りになる兄だった。

「まるで小春日和だ、リーダーのマツチガールを習ふ、金港堂発行の三銭お伽話を三冊買つてくる、これも故郷をしらない僕のその故郷の土産かアゝ実弟あれば実母あれば実父あれば団欒あればアゝ人生またはかなからずや」(明治35年12月17日)

家庭団欒への切ない思い。これを書いた1週間後、年の瀬を迎えてほとんどの学生が帰省し農学校の寄宿舎はがらんとしていた。「随分さびしいがまた帰省するのも面白くもないアゝ」と嘆いて、信勝は翌日、ようやく上新川郡太田村西番の家に帰った。そこから3週間の日記はすさんだ表現が多い。暗雲が立ち込めていく。

「帰省した、而し又感ずる、アノコエデトカゲクフカヨホトトトギス 実際つまらん、家庭のびん乱の如何なる影響を及ぼすべきか」(明治35年12月25日)
「あはれなことは一として金銭の奴隷、名誉の使とならない奴は居ない、またさもしひものならずや、教科書を収賄して選定した県視学官、中学校長、知事共が此頃みんなとらはれた、何が何でも日本の教育界がこんなものでは暗涙すべきだ、アゝあはれ!」(28日)
「小学教員の堕落また甚し教科書事件で騒いで居る今日枝葉の乱れるのも無理はない」(明治36年1月6日)
「物は欲するにも程がある投機をやって一時に巨大の金をとるともこれ果してその者にあたはりしと云へようか(1月16日)

教科書疑獄事件は明治35年年末に全国を揺るがした事件で、富山県内でも摘発されている。教員だった伯父の問題と、事件とは直接関係があるかどうかは分からないが、信勝が教員に対して不信感を募らせたことは確かである。名指ししていないものの、行間に伯父に対する軽蔑がうかがわれる。1月の時点で「投機」という記述があり、すでにこのころ伯父は投機に手を染めていたのであろう。

日記は罵詈雑言ばかり

明治36年春、卒業直後に帰省すると、伯母の家庭の状態はさらに悪くなっていた。信勝の日記は罵詈雑言で埋まっていった。

「帰省する、午後夫婦喧嘩をして頭から血を流して来る婦人あり、折りしも霰たばしるたゞ中、まるで小説にでもありさうだ、それも欲からのことゝ思ひばあさまし、無学者ども、而し無学者ばかりならず」(明治36年4月3日)
「あや子にリーダーを教へ初めし、我れはどこどこまでも兄弟のやうにして居るが、而しあちらからへだてゝ居る様だ、教育家は其の学力よりは人物をとるべしだとは無論だが今の時勢は反つて教育家の人物は屑斗リ」(4月4日)
「而して農学校の様子を知らせ給ひよと、無教育者の夫婦喧嘩は欲ばかりだ、アゝそもそも夫婦とは如何なるものか」(4月7日)
「感ずることあり小説となさん、あはれ猩々翁よ、アゝ今の教育家とはまたかく迄になつたザマか、戒むべし色欲、抑もかれに良心あらざるか」(4月8日)
「家庭のびん乱! 人物、英雄たりしはやはり英雄たらしむべき家庭があったに相違ないとおもふよ」(4月9日)
「アゝ小学教員郡視学に賄賂をして村長の御機嫌を伺つて月給の一円や二円を増してもらって、果ては同輩と咬み合ふ醜体……何んと云ふザマだいあんなザマには我なりともない」(4月10日)
「夜英語を教へた后で従妹と語る、噫嘆ずべし彼等の寄宿舎の腐敗は実に吾々の察すべきところ位ではない、そんなものが追ニ二葉のほやほやの学童を育てるとは実に危険千万」(4月17日)
「恐らくこの美くしい潔白な子供を育てる任を有する小学教師たるものは実に衆生を斎導するところの坊主連よりは清らかなるべき也、高かるべき也、さるを観よ、現時の状態!」(4月18日)

この時期、激しい心情を吐露する一方、家庭への憧れや母への思いを記した部分もある。

「連想はまた不可思議なもの哉今晩代数学で頭をかゝへ最中に何時もの空想がまた浮び出づると……十年の昔の自分の家庭にたかさんと云ふ少女が養はれて居た、それはなかなか優しい性格の人であった、これは実に一の材料(小説的の)になしても宜しいのだ、アゝ今あの人は一の母となって居やう、その時の家はなくまた母も居ない今のわれ」(3月9日)

伯父の投機問題は明治36年の夏には相当深刻になった。

「強へても我れは不自由に甘んぜんとす強へても我れは不遇に甘ぜんとす、されど一転国民として感ぜんか鳴呼我が教育者天眞燗漫天使の如き子供を育成する教育者!汝は汝自身の天職を知る事得ざるか 〓、〓(くちへんに突)投機事業、そは何ぞ」(6月30日)
「明日青島家へ帰らうと思ふ一寸……どうも此頃の様子が変で」(7月6日)
「家から金と手紙来るから帰るを止む、申訳のあてがましさ、誠にかなしくもない」(7月7日)

8月に入って事態は伯父が教員を辞めるまでになってしまう。

「浅間しきは金に目のない動物、どんな六十面かゝいて居ても己れを失ふからなアこまったものだ」(8月13日)
「家庭!!子供の前で夫婦喧嘩さへ……だのにお爺の醜行を家中の夜食の席上で露きだす等とはもうたまったものか」(8月14日)
「鳴呼予想通り!!、教育家が相場師と変り愈々二十余年の教鞭を捨つると、嵯呼」(8月22日)
「雄々しき決心よ、勇ましき志望よ、されど小供心の余りに名を尊ぶ故ならずや」(8月28日)

夏の最後に記した意味不明の記述のあと、2か月あまり日記は残されていない。

親友の手紙で上京決心

信勝は明治36年11月6日、上京を決心した。3日前に富山中学時代の親友で東京にいる永松豊治から上京を促す信書が届き、農学校の同級生で小学校時代からの親友でもあった深山庄作と相談して決断したのである。信勝は翌7日から8日かけて、農学生が歌うべき歌として「革新の歌」をつくった。後輩への置き土産だったが、いかにも信勝らしい。11月28日、深山の宿で送別会が開かれ、翌29日午後1時、友人たちに見送られて福野駅を出発した。見送ったのは山岡治兵衛・若瀬亀三・福井重次(中川滋治)・多田実の同級生4人と、五島寛平(五島健三の兄)、五十嵐、七ツ屋のアンマ氏、下宿屋の主人など、そして伯父の姿もあった。

卒業当初は1年後に予定していた上京を早めたのはなぜなのであろうか。伯父の投機事業、伯父伯母の不和、肩を寄せ合う5人の従兄弟たち。自分の本当の家ではないのだが、それでも9年間生活を共にした家の行く末を案じながら、信勝18歳の旅立ちだった。

[1]澤辺光久は、雑誌『雛の壇』の主幹をつとめていたが、詳細は不明である。『波葉篇』雑纂にある小説「星の子」は、『雛の壇』第2号に載ると注釈がある。明治35年、信勝は澤辺と喧嘩別れをする。明治38年8月15日の日記に「公用の状袋に入れて三年ぶりの音信、訣別以来の無沙汰を詫びた文句の末尾に列記すらすら……」とある。清水(たぶん清水安吾)は哲学や文学を信勝とよく議論した仲だが、彼だけは卒業名簿になく消息不明である。(2012/11/17 22:43)

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