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丸山晩霞_飛騨の旅(日本アルプス写生旅行)1898年

【編注】明治31年6~7月に行った31日間の写生旅行を8年後に振り返った回想記。文章の味わいをなくさないように注意しつつできるだけ現代語表記に改め、読みやすさを最優先としました。日付を付し、推定ルートを示した地図も追加しました。

文章はやや硬い表現が目立ちますが、丸山晩霞(1867-1942)渾身の漫遊記とみて愉しむことをおすすめします。序章に配置した恩師の書簡は後回しにして、第1章から読んでも差し支えありません。挿絵は、当時の素描と8年後に描き足したと思われる絵が、前後編計12点が付属します。現代の研究者によって当時の素描が十数点確認されていますのでそれもいくらか付け加えました。

吉田博にもこの旅行の写生帖No.17(備忘録付き)が存在しますが、いくつか齟齬はあります。この「飛騨の旅」の解説はこちらを参考にしてください。[ ]は編者による注釈です。


『みづゑ』第十四 明治39年7月3日発行

飛騨の旅[上]

望月俊稜氏の書簡

謹啓、十二月三日御投与の御書面まさに受け取り拝読仕候つかまつりそうろう、御無事御安着の趣き大慶此事に御座候ござそうろう、かつは[一方では]かねての展覧会もすこぶる御盛况の由、何よりのことと喜び居り申候。御書中信飛旅行の内幕御自白のところ、御気の毒のようでもあり、おかしくもあり、当時の御風釆を追想して、思わず家内とともに吹き出し申候。

初め拙宅を訪ねられ候折、細君頗る恐怖の体をもって、慌ただしく、かつ低声に告げて曰く、ただいま頭の毛の長き人と今一人の人となんだか槍のようなるものを背負い、丸山でありますが先生は御在宅ですかと申して参りましたがいかが致しましょうとのことゆえ、また例の私は何々県のものでありますが、道中病気にかかり難儀を致しますから、何分の御志を仰ぎたいなどの御人物ならんと、直ちに立ち出でたるところ、これはまた意外にも両個の青年美術家ならんとは、とにかくあまりにそのいでたちの不思議なりしがため、むく犬ならざる近辺の子供らまで、わいわいと囃子たて、あれは何であろう、千金丹売りか兵隊さんか、いやいや武者修行であろう、など評判とりどりにて、門前に十数人集まり居りし事御承知ありしや否や。

(晩霞曰く その当時さらに気が付かざりし、いかんとなれば、至るところの村々にて子どもらの付き来たらざるは、寧ろ不思議くらいであったために)

なお飛騨方面の旅行を終え、御帰途御立ち寄りの時は、時節は七月中旬、もはや土用の入りにも近づく折からの晴天続きにて、暑さに耐え兼ねているにもかかわらず、いかに信州の山の中とはいえ、綿入れの重ね着に綿入れの書生羽織、そして例の槍に盾のごときものを両人とも前後に背負いたることなれば、誰が見ても到底真面目なる人物とは受け取りられざりしことと存じ候。

この当時旅費も使い尽くされ、一銭五厘ばかり所持され居りしとのこと。小生は学校へ出掛けに家内に向かい、書生の旅行なれば旅費もあるいは不足を告げいるかもしれぬ故、果たして不足を告げいるならば求めに応ずるよう申し聞けおき候ところ、帰宅後家内の曰く、けさ旅費のお話しあり之候も、先刻お二人にて入湯に参られ、その節、札が大きくて困るからちょっとと湯銭を貸してくれと申され候えば、別に旅費にお差し支えもなきように見受けられますとのことなりしをもって、これは少々怪しいとは思い候も、御自宅へ着し候までくらいのことには御差し支えもなきことと、押しても御伺い致さずおき候ところ、御自白によればもはややその時は旅費どころではなく、湯銭にも不足を告げおられ候ところにて、大札にて困ると申されしは、一時両人分の湯銭を得るの計略でありしとのこと、滑稽もここに至りて極まれりと申すべきか。

暑中間近かのことなれば、いかに美術家なればとて、暑い時には暑いわけにて、綿入れの重ね着にては到底耐え得べくもあらざるをもって、失礼ながら小生が着古したる単衣を御貸し申し上げ候次第に御座候。

拙宅御出立の朝、大札御所持の方には別に御入り用でもあるまじく、御迷惑と存じ候もわらじと団飯とを差し上げ候ところ、そのわらじと団飯のために餓死もされず、先は御無事に御帰宅相成りしとのこと、おかしくも御気の毒の事に存じ候。

湯銭を得るの計略は雅兄の方寸ほうすん[心中]に出でしか、吉田兄の方寸に出でしかは知らざれども、どちらにしてもあまり巧みに失し候結果と存ぜられ候。当時御預りの綿入れは、すぐさま洗濯致すべきよう家内に命じ候ところ、井戸端よりけたたましき声を立て、大変です大変です、ちょっとと来て見て下さいとのことなれば、何事か始まりしかとその場に至り綿入れを験査せしに、さてもありがたや数万の千手観音様が、所嫌はず綿入れに付着して在らせらるるという始末にて、いかんとも手のつけようもなく、もったいなくも熱湯の中に御流し申し上げ、あとは水にて清め候ことに御座候。医者の不養生占者の身の上知らずとの諺にもれず、美術家もその名に反して、無頓着不潔ならざるを得ざるものにや、されども御渡米以来は、信飛御旅行当時のありさまはいずれにか去りて、大分米国式になられ候ことと存じ候。吉田兄もただいまでは、勢い当時のごとく、頭髪もあまり長くはして居られまじくと存じ候、いかにや、そのうち欧州へも御漫遊の由、追々と英国式、イタリア式、御帰朝の頃には、武者修行的式はいつの間にか変じて、欧州の粋を抜きたるパリスタイルの大ハイカラにて御帰朝のことと存じおり候。風土の変わり候こととて、御身体の御摂養隨分御大切に祈り申し候。吉田兄へも御鶴声願い上げ候、小生は相変わらず山中の田舎先生にて消光罷かりあり候間、憚りながら御休神下されたく候。敬具
           俊稜拝
ボストン府にて
丸山兄座下

一 [明治31年6月18日(土)祢津村~鹿教湯]

過ぎし年、数うれば十年前[正確には8年前]、友なる吉田博氏と打ち連れだちて、山深き信飛の境に、探検的写生旅行をなした。この旅行はいたって興味深く、われらは生涯忘るることのできぬ楽しき記念の一つである。

われはこのたび、『みづゑ』の紙面をもって、無邪気なる青年時代の画家が、写生旅行の興味を読者に分かち、併せて信飛山中の風景を紹介するのである。わが信濃なる故鄕は、浅間山南の高原にして、南に開けて雄大の観望をもっている。怒涛に似たる大小の連峰は次第に重なり、天に接する南西の連峰は、信飛にまたがる乗鞍・焼岳・硫黄岳、蝶ヶ岳・穂高山・槍ヶ岳・獅子ヶ岳で、富岳の雪は融消しても、この諸岳は白皚々はくがいがいたる雪の残りて、黄に燃える麦畑、さては深緑の森や山々を前にして、かくも奇しき雪岳の景を盛夏に望むのである。われは髫髪うないの往時より、朝に夕にこれを眺め、ひとたびは雪岳の辺境に、探検的周遊を試みたく、かかる念慮をその度ごとに満たした。

多年の宿望を果たすべき時期至りて、都なる友は突然わが茅屋を訪れ、これより飛騨の境に、写生旅行をともにせんことを勧められた。われは大いに喜んでこれに賛し、早速発足することとなった。

季節はちょうど初夏の新緑、鴬は老いたるも山ホトトギスしきりに鳴き、卯の花まがきに乱るるという旅行の好期。南に面せるわが書斎に吉田氏とともに座して、はるかに飛騨の連峰を望めば、ふだん見慣れたわが目にも、今日ばかりはひとしお麗しく映じて、われらの行をほほ笑みて迎うるようである。かしまだち[旅立ち]の夜は旅装を調うるためにせわしく、更けて眠りに入れどわが魂はかなたに走りて夢ならず、曙の空にわれらの雙影を動かしつつ、高原なるわが鄕を南に向かって発足したのである。

初夏とはいうものの信濃路はまだ寒く飛騨の雪岳あたりは寒さ厳しからんと、人々の注意より、旅装は冬支度、携帯品は大なる写生挿と絵の具箱。傘立、三脚、画架、カンバス、画紙などは別に袋に入れ、これら三個の荷物を、左右の肩に掛けたり、背負ったのであるから、異様の旅装は人々の視線を集めたのである。

葉柳や蓮の葉一つ二つ浮き
朝立ちやわらじの軽き杜若

二 [6月18日(土)祢津村~鹿教湯]

山冷を送る朝風を身に吹かせ、ホトトギスの声を耳に満たしつつ、大屋駅に至りて筑摩川[千曲川]を渡り、依田河畔に沿うて上れば、新緑滴る桑園は午前の光を透かして鮮らけく、桑摘み乙女の歌う節を面白く聞きつつ、長瀬村より依田川を渡りて御嶽堂村に着いた。

この村の背後に聳立しょうりつせる一帯の岩山を突甲山[独鈷山]と称し、また小妙義の名ありて奇景多し。岩井観音堂[岩谷堂観音]はこの山の東端なる中腹にあり。われらの進み行く左側なればここに立ち寄る。入り口の両側に枝の垂れたる巨桜樹あり、今は花も散りて淡き緑の飜るはしだれ柳のごとくに見える。

古色蒼然たる石段を登れば、岩壁に懸りて堂あり、堂の背後に洞窟あり、洞内は暗黒にして咫尺しせきを弁ぜず、火を点じて入れば冷気身に覚え、コウモリ所々に|翔《こうしょう》するを見る。内部に進めば狭隘きょうあいとなりて、そこに観世音が安置してある。

ここを出で堂の縁にきょして東方を望むと、佐久小県ちいさがたの観望開けて雄大である。脚下の依田川は迂曲して流れ下り、千曲川に合する辺りは今過ぎて来たところで、大小の村落は各所に点在し、黄金に見ゆるは麦畑、淡緑は桑畑である。目に近く千曲川を隔てて聳立しょうりつする山は烏帽子岳[2066m]、それより東に走れる連峰は広野ヶ峰、三宝ヶ峰、湯の丸岳、ようやく小にコバルト色を帯びて続けるは籠の塔《篭ノ登山2228m》、赤岩山、黒斑岳[黒斑山2404m]、牙山でこの尽きる所に聳立して煙を噴けるは浅間山[2568m]である。かかる雄大なる自然を眺めつつ、行厨こうちゅう[弁当]を開きて午餐をなす。ここを発して龍の口村[辰ノ口村]に至る。両方の山迫りたる山間、渓流に沿うて点在する村あり。われらはこの間を進み行くのである。

平穏なれど初夏の山村は、農夫皆野に出でて耕し、桑摘む乙女の歌は麦刈る老農の節と和し、素朴なる無遠慮の鄙言ひげんは、四方に起こりて賑わしきことである。彼らの声は自然に近くいたって無邪気である。山里の真昼は静かにて、農夫らは皆昼の睡眠に入りて、囲い無き家々に平和を歌う鶏の声のみ。神の使いは幻の梯子を下りて、この平和なる戸毎こごとを見舞うのである。

初夏の山里を過ぐると、何日も松蝉の声を聞く。この音は人を睡魔の境に引き入るるようである。各所に画架を立て、水彩および淡彩の写生をなし、長き初夏の一日も暮れに近き頃、西内村鹿毛湯[鹿教湯かけゆ710m]浴舎に投宿。客舎は高台にありて眺望無比、浴場は渓谷にあり、迂曲の急坂を下るのである。

急坂を下りて浴場に入れば、前は清き渓流の清響を湧し淡き若葉はその上を覆い被さっている。霊湯に浴して一日の疲労を忘れ、浴後の身に若葉の香りを送る凉風を浴び、崖に沿うたる桟道を徐歩すれば、対岸に渡る橋あり。

橋は広くして屋根あり、欄干あり、われらは欄に寄りて流れを望む。水美しく透明して底を見るべく、渓魚ははつらつとして水輪を起こす。その輪のようやく大にして消え行く岸辺より、清澄たるカジカの声起こる。

ここを過ぎて対岸に移れば、巨樹叢をなして蒼翠そうすい滴り、その間に薬師堂あり、古色きくすべきである。風光明媚、清遊の地とし、また避暑地として愛すべき勝地である。

其声の睡気さそふや春の蝉
山里や真昼を歌う春の蝉
若葉した桑畑所々に歌いけり
蝶淡き影を河原にこぼしけり
流したる家の跡なり牡若
ふいと出た鳥や若葉にふいと入る

三 [6月19日(日)鹿教湯~三才山峠~松本町]

カジカの声に眠りにつき、ホトトギスの声に目覚めてこの宿を立つ。この日風なく平穏の好天気。流れに沿うて上る道ようやく険峻、朝の光を透かした若葉の影は淡く道にこぼれて、われらはこれを踏みつつおもむろにじると、山はようやく深くなりて、流れは瀑布となり瀬となりて白玉を躍らせ、清翠に覆われたれば、あるいは隠れあるいは現れて下るのである。ホトトギスはしきりに鳴いている、カッコウも鳴いている、ヤマバトも鳴いている。路傍の草にはさまざまの花が乱れている。ヤマアヤメ手折りて帽に挿す。草刈る乙女、牛曳く童に会す。

[増補]《三才山嶺眺望》1898年6月 鉛筆 27.5×57.0 丸山晩霞記念館蔵
デジタル補正済

見上げればわれらの行く方に聳立せる山あり。これは三才みさとうげ[三才山峠1505m]で、われらはこの嶺を越えるのである。数年前までは、北信および南信に旅する人々は、この嶺を越えるものが多かったとのことである。今は他方に新道の開けたるため、ようやく荒びれ果てて、道も人家も自然の命ずるまま、あるいは崩れあるいは傾いている。かかる盛衰の跡は画題として趣味深く、もとより急がぬ旅なれば、思うがまま、感ずるまま、各所に三脚を据えたのである。面白くコマドリの鳴く森林の道は、雑草生い茂り、S字形の急坂をいよいよ攀ずれば、山容樹色ようやく凡ならず、風寒く雲霧起こり、朦朧として数間の先を弁ずることができぬ。時々コマドリの鳴きて、幽邃ゆうすいさらに加わり、身は神聖の区域にあるの感が起こった。ようやく嶺頂に達すれば風寒し。ここより急坂を下り渓谷に入る。流れあり。流れに沿うて道は迂曲し、左岸右岸に渡りて下れば、谷は開けて麦畑、桑畑を見る。卯の花は路傍に乱れて雪のごとく、霧晴れ日輝き、嶺麓三才山みさやま村[830m]に至る。

[増補]《三才嶺山霊ニ遇》1898年 鉛筆 41.0×22.5 丸山晩霞記念館蔵
デジタル補正済

山を背後にして流れを前にしたる山村愛すべく、位置を選みて数葉の鉛筆スケッチをなす。三才山村より右折[左折]し、麦浪の間をたどりて一高丘の頂に出づ。丘山平坦にして芝生あり。南西を望めば、雲霧の間に隠現連続す残雪の高峰を見る。高丘は一帯の松林にして、下草なく赤土露出して掃けるがごとし。ここを下りて浅間温泉場[680m]に至る。さらに一里を歩して、松本町[592m]に到着、旧師望月俊稜氏[10年前、上田中学校時代に絵の指導を受けた教師]を訪問す。

われら氏を訪問のとき、未だ余と一面の識なき内室には、われら二人の奇しき旅装に接して驚けるもののごとし。折よく師は在宅にて、われらを歓迎したのである。打ち解けたのちに語るを聞けば、われらを怪しきものと思いしとのこと。初対面の人々には、無理もなき次第である。この夜は楽々と師の家に宿り、別後の状を語り、夜を更して眠りにつく。

駒鳥鳴くや麓に送る峰の雲
濡色の若葉そよぐや麓茶屋

ルート(赤線)は編者推定

四 [6月20日(月)松本町~島々村]

翌日天気晴。師の家庭よりしきりに滞留を勧められしも、早く目的地に達したく、帰途厄介になるべく約して出発。松本町を出でて南に向かう。島立村より右折して梓河畔に出づ。この辺りは広く開けたる平地にして、堤の楊柳かわやなぎ淡く風になびき、蛇籠の中よりカジカの清音起こりて耳を澄ます。散点たる遠近おちこちの村々には、のぼり風に動き鯉魚の飜るを見る。節はちょうど陰暦五月初旬、菖蒲葺きて端午の節句を祝う時であった。

川原に乱るる野バラの花の香りめでたく、その前に三脚据え、この間の感じを写生しておれば、水車の響き漏れ来る森の中には、行々子[ヨシキリ]がうるさくさえずっている。遠き川原に動く人影は、位置を定めおる吉田君であった。

「波多松林より望みたる梓川」(鉛筆画写真版)  『みづゑ』第14 挿絵

田の畦の細道をたどりて、波多村[680m]の大通路に出づ。ここには二三里にわたる大松林ありて、松蝉は眠気に歌うている。清風徐来の間を過ぎて松林区を出づ。右に黒沢大明神の山脈流れ下り、左に鉢盛山の脈迫り来て、ここより渓谷となる。梓川その問を流れ、河畔に茅舎ぼうしゃ散点す。所々に楊柳かわやなぎ叢をなし、たまたま巨柳樹を見る。左曲右折道は坦、かつ急、安曇村を経て島々村に到着。両側の山ようやく迫り来たる。左方[右方]、鍋冠山・大明神山の諸渓谷より発する川は、一流となりてここ梓川に合し、左方、鉢盛山の渓谷より出づる黒川もここに合し、川の両岸に断崖百尺、大石錯峙、人家は両岸の崖上あるいは山の麓を回りて建てられ、いずれも川に面している。

三流合したる梓川は水勢頗る猛激、白を飛ばして流下すれば、巨岩これをつかえてここに淵となり、坦平に渦巻きしつつ動く水色は、深碧にして無声、山容水姿凡ならず。蓋し仙寰せんかんの門戸、われらは画筆という鍵もてこの門戸を開き、目的とする仙境の幕は今ぞ切り落としたのである。

日はいまだ高かれど、明日仙寰に入るの前日なれば、この門戸に一泊することと決め、背後に楊柳の緑を望み、前に断崖激流を眺むる一旅舎に投宿。

のたり出た若葉の下や淵の渦
掛縁や若葉の茶屋に絵師二人
柳柳蛇籠ならぶや鳴く河鹿
白衣着た行者若葉に隠れけり
山里や若葉の中に鶏の声
葉柳や流れ木拾ふ梓川
水車屋を隠す柳や行々子

[増補]《島々村背後梓川畔》1898年 鉛筆 31.0×48.0 丸山晩霞記念館蔵
デジタル補正済

五 [6月21日(火)島々村~大野川村]

激怒して流るる渓流の響きにさまたげられ、ホトトギスの声も聞かざるに、暁色微茫、山々は夜の幕を除きて蒼翠滴り、満眸まんぼう[目の届く限り]皆鮮明ならざるはなし。この朝は早くより用意調い、わらじも新しく、団飯むすびは常より大にしてこの宿を出づ。若葉は朝風に飜り、露繁き路傍の草を踏む心地よく、足も軽く、身も軽く、心も清く、浄山澄水の間を行けば、道二つに分かる。左顧一つ橋[雑炊橋]あり。これを渡りて対岸に至る。村あり橋場[梓川右岸]という。ここはいたって平地少なく、茅舎板舎は崖端、あるいは山の急坂にあり。屋外至るところ泉水あり。清くして底を現す。

[増補]《島々村光景》1898年6月 29.0×55.0 丸山晩霞記念館蔵
デジタル補正済 雑司橋か
[増補]《島々村端より対岸に渡る橋》1898年 28.7×47.5 丸山晩霞記念館蔵
デジタル補正済 雑司橋 対岸は橋場か

ようやく進めば、山容いよいよ奇にして純緑色を呈す。いよいよ進めば奇絶妙絶、われらは恍として仙寰せんかんをたどり行くのである。各所に写生して稲核いねこき村に至る。ここは仙寰の市街ともいうべきか、煙草屋あり、酒舖あり、豆腐屋あり。ここを過ぎて道また二つに分かる。左すれば奈川谷を経、野麦とうげ[野麦峠]を越えて飛騨に入る。左[右?]すれば白骨温泉場を経て、平湯とうげ[安房峠]を越え飛騨に入るのである。

[増補]《大野川》1898年6月 29.5×47.5 丸山晩霞記念館蔵
デジタル補正済
[増補]《日本アルプス写生内 大野川附近梓川絶壁》1898年 29.0×57.0 丸山晩霞記念館蔵
デジタル補正済

われら左[右?]折して行くことに決した。われらは今、花崗岩の断崖千尺の頂に立っているのである。下瞰すれば脚下の深谷白玉を散じ、清翠の間を激怒奔流する梓川を見るこの壮観に筆を走らせ、道は山の中腹より傾斜に迂曲しつつ、次第に下りて河畔に出づ。流れに沿うて怪岩奇石の累々たる嶮道をたどれば、道きわまりて絶壁となり、これにトンネルを穿つ。そこを出づれば棧道をもって断崖を渡る。さらに嶮峻危険なる所は、木板を配列して飛梁を架し、藤蔓数條をもって、梁の端を岩石巨樹につなぎて空間に懸かれり。これを渡れば震掉する一奇観あり。両岸は岩石峭立して皆花崗岩なり。蔓生植物および緑苔はその間に巻旋攀縁す。大岩錯磊河中に蟠屈し、水勢猛激奔馬の駛走しそうのごとし。岩石に衝撃す、岩と水と激闘して大雷のごとき響きを発し、一大白玉を四散するの巨観壮観に接し、われらは奇を叫び妙を絶して、浩々たる造化の活力に今更のごとく驚いたのである。

[増補]《大野川》1898年6月 40.7×28.0 丸山晩霞記念館蔵デジタル補正済

この間の風物人間のものなく、われらも人間を忘却して自然と同化し、筆を走らせて知らずその懐に入ったのである。進めば進むだけそれだけ、風物は千変万化奇絶壮絶、花崗岩の峭壁は数個に分かれて峭立し、これを仰望すれば巨柱の天空に聳立するごとく、怪奇千態万状を極む。われらがかかる天景に接すると、自分らは人間の境を脱して神になったような考えに満たされた。そして人間が褒めたたえる名勝などいうものは、全く凡景俗景である。人境を去ったこの間の風物は、たしかに山霊がわれらに画題を恵与してくれたのと信じ、都にありて、隅田川や綾瀬または三河島などの風景を描いて満足している画家を気の毒のように思い、またかかる画家を凡画家として、語るに足らぬなど友と語った。

[増補]《日本アルプス写生の内 大野川附近の梓川》1898年 29.0×47.0 丸山晩霞記念館蔵

この当時においては、画題を選むに人間の跋渉ばっしょうした所を選まず、探検的未聞の境を探り、人間の未だ踏破せざる深山幽谷、または四辺の寂寥を破る大瀑布、または草樹欝蓊として盛観を極むる無人の森林、とかいう境地にあらざれば、真の美趣は無きものと信じ、こんな念慮より、われらはかかる境土のみ跋渉しておったから、ますます仙骨の観念は向上して、人間という念を脱しておったのであった。

[増補]《日本アルプス写生の内 大野川附近溪流に架せし奇橋》1898年
 29.0×47.0 丸山晩霞記念館蔵

今考えて見ると、人間としてなすことのできぬことを平気でなしておった、この当時の旅装の怪しいのは、人間としては恥ずかしくてできるものでない。写生をなすに日覆いを要せず、雨が降るとも雪が降るとも傘を要さず、衣類をまとうているのが、寧ろ不思議くらいで、人に接するに人らしき言葉を交えず、人を人として見ず、露宿どころか雨の降る夜、山中で立ちあかし、一日くらいの絶食は平気のもので、仙食と称して木の実や草の芽を食したこともある揃いも揃うたわれら二人は、人々よりも人間らしくないと言われておった。されど人間は人間であるから、恥も知り、空腹になればやっぱり苦しいのである。

この日も思いがけぬ絶景に遭遇したので、写生に人間を忘れ、ついに日が暮れたのである。日が暮れて空腹を覚え、今宵の宿という考えが出でたのであるが、この境よりはいずれに出ずるも三四里を行かねば、人家には出ないのである。平気で露宿をなすわけにもゆかぬから、勇気を起こして夜半大野川という山村にたどりつき、宿舎をたたいて無理に宿を請うたのである。

暮てから宿許がり行くや子規
岩洗ふ波のくだけて鳴くカジカ
若葉淡き中や隠れた水の音
水押しに寝た木そのまま若葉哉
寝た蝶の若葉を立つや朝日和
風軽ふ若葉の雫こぼしけり

六 [6月22日(水)大野川村~白骨温泉]

大いに疲労して、翌日はすっかり寝込んで、午前十時頃ようやく眼を覚まして発足した。大野川は乗鞍岳の麓で、岳は皚々がいがいたる雪残りて、眼の前に近く顕出したのである。今日はここより二里という白骨温泉まで行くのであるから、この間の風景をゆるゆる写生する考えであったが、途中はただ高原で、これという風景にも接せず、正午に近き頃、山の半腹よりはるかに白骨浴場を望み、大森林の中を経て、正午には到着したのである。

白骨浴場は乗鞍岳の幽谷にありて、浴舎の建築はいずれも巨大にして美しきは、木材の自由なるためであろう。温泉の質は硫気めりて、不透明の純白色で、乳汁のようである。一浴して付近へ写生に出かけた、渓谷を攀じて高原に出で、残雪の乗鞍岳を主にして写生をなした。さらに高原の細道をたどりて森林に入り、五葉(葉大にして五片に分れたる奇しき植物)およびシダの森林中に繁茂し、人意を施さぬ木は自然のままに発育し、枝を交え葉重なりて、若葉を透して来たる光の淡く美しく、時々コマドリの声起こりてさらに趣きを深くし、麓を流るる谷川の音もかすかに聞こえる。深山幽林という感をもって水彩にて写生をした。

白骨一帯の地は、巨大なる溶岩の集まりて、それが積み重なりたるもののごとくなれば、自然に間隙の大なるもの、または小なるものが各所にありて洞窟をなしている。われらは仙人遊びをなさんと、火を点じてこれらの洞窟に入る。洞に入れば狭きものあり、広きものありて、狭きものは五体を伏して蛇行しつつ進むと、内部はようやく宏濶となり、さらに進めば窟は左右に分かれ、鐘乳石の沈澱して大なるものは垂下し、または直上して、二箇合して柱をなすあり。洞内の岩石は奇怪万状を極め、いよいよ進めばついに他の洞口に出で、ここより他の洞に入ると、またさらに離れたる洞口に出ずるというごとく、はなはだ面白き遊びであった。この付近に鬼ヶ城という窟のあることを聞き、案内者を賃して、そこをも探ったのである。

乗鞍岳より発する川は、白骨温泉の左側を過ぎて駛走し、流勢激して峡谷の間に奔下し、峡はようやく狭りて、ついに両峡連続して一帯となる、流れは岩石と闘い、噴沫四迸して、岩底に潟ぎて消え隠るるのである。数丁にして峡谷は再び現れ、岩壁峭然、われらがこの頂に立ちて下瞰すると、毛髪悚然として立つ。たちまち岩底より、水勢の怒噴するを見る。これ先に隠れたる流れの、地下をくぐりて再び顕出したのである。

岩壁の頂を攀じて渡り行くこと数丁にして、人工を凝らしたる棧道あり。これを渡り行けば、絶壁を穿鑿した洞窟あり。これが鬼ヶ城である、間口十間奥行八間ほどありて、鐘乳石の柱三四あり。前は谷川に臨みて、遠き山々など見ることができる。鬼ヶ城と聞いて、われらの好奇心に適合し、いかに面白く、恐るべき所のごとく想像されしも、現場に来て見れば、さらに恐怖の念も起こらず、ここは凡景として、さらに浴客らの至らざるこの付近の洞窟を探り、幽谷を渡りて奇絶を叫んだのである。

[増補]《白骨附近森林》1898年 28.5×49.0 丸山晩霞記念館蔵

白骨温泉場を宿として、この付近を逍遙すれば、深山幽谷の趣味いたって深く、山水の画作をなすには、実に適当の地である。されどわれらの目的の飛騨山中にあれば、二日間滞留してこの境を去った。浴場の付近に、白骨に似たる岩石累々として散在す。われは記念として一個を持ち去ったのである。

白骨や湯つぼに蒸した粽餅
寝て聞かん湯河を前の河鹿哉
ふき縁や淡き若葉の影すべ
朝晴れや若葉の匂ふ湯場の宿
欄干の半ば若葉に隠れけり

七 [6月23日(木)白骨温泉~安房峠]

霖雨の季節であるが、晴天が続くので、われらのためにこの上もなき幸福である。されど深山幽谷幽邃神聖の境域にありては、晴天よりも曇天、曇天よりも雲霧に覆われた雨天の方が趣味が深いのである。

白骨を発した朝の間だけは、濃霹濛々とみなぎりわたり、山も谷も見ることができぬ。寂寥たる森林の急坂を攀じ登り行けば、朦朧たる霧の中より谷川の音と、コマドリの声とを聞くのである。午前九時頃とも思う頃、小嶺の頂に達すると、霧はようやく晴れて、われらは乗鞍岳の中腹に立っておったのである。この辺りより仰ぎ見れば、白皚々がいがいたる雪の連峰が目前に顕出するはずなるも、山々の雲霧はまだ晴れやらぬため、巨観に接することができぬ。

この日は平湯嶺[安房峠]を越えて、いよいよ飛騨の境に入るの日であれば、足も軽く心も勇み、密に茂る草間の細道をたどり、急斜に流れた山腹の傾坂を上り行くと、幾つかの沢あり。沢には清泉の流れあり、木立の叢をなす辺りには、小笹密に茂りて、林の中森の中には、未だ聞きなれぬ蝉が鳴いている。その音は濁音の鈴を振るごとく、日の光の直射すると、一時に鳴きたつるのである。この蝉は深山に限りて、初夏の頃鳴くとのことで、木曽山中または戸隠山中などにもいるとのことである。

幽邃ゆうすいなる森林のうちにありて、この蝉の声の微かに漏れ来たるのを聞くと、何となく寂し味を深くし、山霊の出現する楽[音楽]ではあるまいかと思われるのである。蝉の声はいたって陽なるものと陰なるものとありて、初夏の頃松林に鳴く松蝉の音は平穏にして、人を睡楽の境に引き入るるようである。このあたりに鳴く「深山蝉」の音は、人をして神の境に引き入るるごとく感じ、盛夏の入日に鳴く「日ぐらし」の音は寂しくして旅客の腸を断たしめ、ホームシックのなかだちともなるのである。

われは自然に感化されたのであるが、今もなお画題を選むに、幽邃神来の境とか、または精粹を極め尽くしたる、野花乱るる高原とか、または水色明媚なる、華麗の山村とかいうものを好尚し、かかる境土を跋渉ばっしょうすると、色にも形にも造花の活力が現れて動くごとく、渓流や野鳥のさえずる天楽を聞くと、言うことのできぬ美妙の感慨に満たされるのである。

絵の目的は形相の描出にあらず、その内包の真趣を顕出するので、山霊水神がほうふつとして画面に現れ、淙々たる流れも声あり、鳥や虫の音の天楽も現れ、草花の芳香もにおいを送り、山間の明月も活ける光を現し、軟風に飜る若葉も動き、すべてあふれ、また声を発して人を襲うごとく、山姿水容形相のほかに、心的感興を与うるのである。

《白骨温泉付近の森林》(鉛筆画写真版) 『みづゑ』第14(1906年)

美感は高尚のものである。美趣味は清溌なものである。美は人格を高尚ならしむるものである。純潔なる自然のうちにありて、美的趣味の感情を満たしても、その妙域に入り、極致に達し、生気ある絵を作るということは、実に至難の極みである。われらは幾度かかかる感慨を満たして、森林を出でたのである。満眸まんぼう[見渡す限り]皆緑、光のこれを透して目もくるめくばかりである。

はるかの森にヤマバトが鳴いている。山から森にホトトギスが鳴きわたる。背後の森、前の渓谷、そこにはコマドリや鴬が鳴いている、ここは楽土である、神の境である。たちまち人語は森の陰に起こる。一老農が若き数人の山娘を引き連れて下り来たるのである。この人々はけさ平湯を発し、信州の製糸場に向かう工女とのことである。頂巓一帯は残雪の上を踏むので、そこは滑りて危険なり。一度誤りて足踏み滑らすと、身は千尋の谷底に落つるとのことである。これなる杖にたより、注意して通過せよとて、太き自然木の杖を与えられた。実に山中の人々は親切である、われらの仙骨も情にはもろし、幾度か謝して彼らと別れた。

平湯嶺より見たる大観(水彩画石版) 『みづゑ』第14 1906年

森に入りて森を出づる幾回にして、ここは嶺の頂に近く右方に開けた所に出でたのである。巨観!! 壮観!! 奇絶、壮絶、壮厳、雄大、欣然きんぜん拍手して迎えたのである。それは皚々がいがいたる白雪に覆われた、信飛の境に巍然ぎぜんとして聳立せる連岳である。今ぞ雲霧の幕を切り落として、われらの眼前に顕出したのである。神韻縹緲たる霊山である、俄然疾風至るはなはだ寒し。われは稚児の頃より、朝に夕にはるかの天涯にこの連峰を望み、ひとたびはあの連峰の辺りを跋渉せんとの宿望は、今果たし得たのである。近づきてこれを仰望すれば、山岳は皆奇怪なる岩石よりなり、その岩石の高聳するもの、流れしもの、千態万状を極めて構造されたる岳は、峰頂鋸齒状をなして続けるもの、または峻秀孤立したるもの、連続して西北に走り、山のくぼめるところは一帯の白雪、沢となり渓谷となりて、頂より麓に流れ下れるものは、雪も、その形状に残りて、日に燦爛と輝き、華麗と言わんか壮厳と言わんか、われはこれを讃する語を知らず、ただ崇高の感を満たして写生したのである。

日本国を島山とすれば、その山の頂巓は信濃の国である、信濃の国の高き山と言えば、飛信にまたがるこの辺りの連山である。そしてこの境土より越中越後の境にわたりて東西十余里南北二十余里の間には、一つの人家なく、未だ人の踏破せざる幽邃神聖の寰区多く、原人時代をそのまま顕出する所あり。

《平湯嶺森林》 1898年 31.0×48.0 鉛筆淡彩、紙 丸山晩霞記念館蔵
デジタル色調補正済

われらはここを去り、右に雪岳を望みつつ、落葉樹の大森林裡に入る。巨木高樹は皆秀でてその時代を知らず。太陽の光は、八重十重に繁茂せるものを透し来たるため、森林の中は淡暗なり。ここに入れば小笹も絶し下草も見ず年々歳々落葉して積み重なりたる朽ち葉なれば、これを踏むと柔軟毛氈のごとし。がさがさと朽ち葉を踏み、急坂を攀じて登れば、頂は平坦にて、先に会した旅人に注意されしはこの所である。一方は平坦にして一方は急坂なり、急坂の頂をわたりて進むのである。積雪はここ急坂より平坦にかけて皚々がいがいたり。

ここよりは与えられし杖をたよりて、命がけの進行である。

われらは命がけの準備をなすためしばらく休憩をした。しかるに今踏み来たりし森林の麓の方より、がさがさとと響かせて、われらが方に進み来たるものあり。われらは顔見合わせ、言わず語らずの間に、互いに一種の恐れを顔に現したのである。

吉田氏まずなんだろうと口を開く。余も何だろうと答えた。夜行や露宿は平気にて、人跡絶えたる深山幽邃の境に入り、大古の形象を探らんとする仙骨のわれらが、森林のうちに起こるガサガサくらいの微響に、顔をしかめて恐怖の色を現すとは、何という意気地無き臆病仙人であるぞ。

音は次第に近づき、われらを目がけて進み来たるもののごとし。猛獣?? 怪物?? この音はわれらの胆を奪うようで、毛髪悚然として、ガタガタと震うのである。われらはまた言わず語らず、逃げる用意をなした。進まんとすれば、これはまた何たる不幸のことである。前は命懸けという積雪の難路、常さえ注意を要して渡るべきに、心急ぎてここを渡らば、足は滑りて千丈の谷底に墮落するのである。踏みとどまりて猛獣の餌とならんか、逃げて谷に落ちんか。いずれにしても一命はわがものでなし、進退これ窮まるとはかかる時のことを言うであろう。音はようやく近く、いも一分時にして猛獣の牙にかけらるるのである。あらゆる神の名を唱えて救助を祈ったのである。

さていよいよ猛獣はわれらの前に現れ、われらに飛びつくと思いのほか、これはまた何という優しき猛獣である。十四五の小児が白骨より平湯に使いするものとのことである。われらは人界を脱して、自然と同化した神であると自称した仙骨が、かすかな物音に神ならぬ人間の正体を現し、顔色蒼然毛髪を立てて恐怖したのは、誠にもって見苦しく、意気地無き次第であった。二つとなき一命をようやくのことでとりとめたが十四五歳の山童に対して慚愧の至りである。

山童の案内にて積雪の険道を恐る恐る渡れば、山童は平地を歩すごとく渡りつつわれらの方に向かい、侮蔑したような微笑をもらして進みつつ木陰に消え失せた。ますますわれらは顔色なく、積雪帯も無事に過ぎて平湯嶺の頂に達したのである。

垂帷の雪や若葉の山を蔽ふ
駒鳥鳴くや嶺から見る雪の山
朝の日や濡た葉蔭に駒鳥の声
巓に近き谷や鴬老を啼く
駒鳥鳴くや昔を捨てぬ峙道
綿雲の麓に満ちて駒鳥の声
駒鳥鳴くや山の乙女の峠越し
山神の御苑か峰のツツジ哉

八 [6月23日(木)安房峠~平湯]

麓の村々では、菖蒲葺き幟飜し、ちまき餅備えて端午の節句を祝う陰暦五月の初旬。春より初夏にわたる花も散りしきて、みぎわに咲ける花菖蒲、まがきには卯の花乱れ、山ホトトギスは滴る若葉の山に鳴くという初夏なるも、平湯嶺頂に至れば積雪あり。気候はとみに一変して、春まだ寒き弥生のようである。

積雪帯を出でて、クマザサの中なる平坦の細道をたどり行けば、山はいよいよ深く、右方脚下に奇しく美しき山を見る。

この辺りは岩石多く、雪かと思いしは山桜の満開にて、岩根岩角さては木立の間より、色鮮明なる紅のツツジが咲いている。里に老いし鴬もこの境では新しく、乱れし山桜の間に美音を弄している。コマドリは澄みし音を森林の中より発して、それが遠き音と代わる代わる鳴いている。空は淡く曇りて風なく、名を知らざる花は路傍に乱れて、それが芳香を放つのである。その香はいたって高尚で、天香ともいうべく、われは香をたより小笹を分けて進んだ。香りの主はほほ笑みて、われを迎えた、純白な梅花を連ねたような花であった。これを手折りて帽に挿す。青苔滑らかな平坦の石上に横臥して、この佳麗なる精粹の霊園を眺めた。鼻に天香を満たし、眼に絶麗なる天色を満たし、耳に絶美の天楽を満たして激賞すれば、身は羽化してこの霊苑を逍遙するのである。

《平湯嶺の森林》(水彩画石版) 『みづゑ』第14(1906年)
印刷図版

暗き森林の中より、淡翠の衣をまとい、裳裾を長く引き、両手にスズランをかざして出現したのは茂るの姫、山桜の木陰より現れしは佐保姫。春の女神初夏の女神はようやく現れ、これらの女神は袖を連ねて、天楽の調子につれて、この苑内を舞うのである、絢爛華麗の極致はここに現れた。

たちまち俗気起こりて、常春の楽境は夢幻のごとく消え去り、われらが自分に帰れば身は青苔の上に横臥しておった。小笹に音たててここに現れしは、平湯に越す旅人の群であった、われらは今日の道中にありて、多く激感したため、心身ともに疲労を覚えて、眠るにあらずさりとて眠らざるにあらず。夢ともうつつともの間に楽土に遊んだのである。

旅人の来たるに目覚めて、いよいよ嶺を下りて飛騨の境に入るのである。嶺の頂上が信飛の境にて、そこを下るとこれよりは常緑樹の大森林である。ヒノキ・モミ・ツガの巨樹は直上し、これが茂り合うて空を隠している。その間よりかすかに漏れて来る光は、昼もなお月夜の感が起こる。地面は落葉樹の森林に引き替えて、緑苔は隙もなく地をまとうて、瀟灑を極め尽くしている。脚下はるかの谷より水音の漏るるのは、さらに幽を加えて、地下にありという幽冥境とは、かかる境より遠くはあるまいと思う。

ようやく下ると、そこは広濶なる坦平の地にして、さらに大なる木の直上している。濛々、寂寞、沈静にして微少の物音もせぬのである。これのみならず、森林の中に池沼がある。水は深黒に見え、近視すれば凄いほど澄明して、直上した巨樹は影を倒映している。われはあまりに凄きため死水と叫んだ沼畔に近づきてこの辺り注視すると、水域は狭き処あり広き処ありて、それが迂曲して長く、さらに注視すると、水は溜水にあらず、無声に流れおるのである。死水の感はいよいよ深く、この死水はわれらを引きつけるようにもある。われらは嶺頂に遊んで楽土に遊び、嶺下において冥府に迷うのである。されど地獄の醜悪なる感にあらず、何となく高尚にして壮厳、幽邃神聖にして山霊の宿り家ではあるまいかと思われた。崇高の念をもってこの景を迎えたが、寂寞さらに深く、何とかしてここに音を起さんと欲し、小石を流れに投じたのである。されどその音はわれらを招く声のごとく聞こえ、恐ろしくて急ぎここを去った。

平坦の極まる所に急坂あり。これを下れば眼界宏壮、高原川の上流は前に開けて、平湯山村のはるかに散点するを見る。さらに下れば濃霧起こり、小さい雨降り来たり。濡れて平湯の旅舎に到着。

《付言、自然物に直線美と曲線美とあり、曲線美は人に穏軟の感を起こさしめ、直線美は壮厳の感を起こさするものである。直線美は岩壁、杉の森林、ヒノキ、モミの森林、竹林などのごときもの、われらがこの旅行において、平湯嶺、ヒノキの森林、または梓川の沿岸花崗岩の絶壁に対せしときは、たしかに神々しき感に打たれた》

雪残る山をうしろに若葉哉
駒鳥鳴くや麓は若葉峰は花
山深き黒き木立ちや駒鳥の声

赤線は推定ルート

九 [6月23日(木)~7月4日(月)平湯12泊]

越中の富山市に流れ下る神通川は飛騨より発し、上流なる高原川の渓谷の極尽するところは、信州より嶺を越えて下りし平湯山村である。

ここは深山幽谷の間にして、人の住むべき地にあらざるも、透明無比の温泉湧出するために開けたる所ならん。無人の境を跋渉して、風景画を修養するわれらが理想郷ともいうべく、はなはだわれらの意に適合せしため、ここに滞留して作画することに決めた。

戸数十数軒あり、いずれも旅宿を業となす。もとより山村のことなれば、部屋も食も美しからず。いずれの宿も自炊のほか宿泊することができぬ。

人民は旅客の入り込む割合に素朴なり。言語も太古そのままと言いたきほどで、人を呼ぶにさんまたは様の尊称を付せず、親子兄弟を呼ぶに一様の称語をもってす。客に向かっても年若き男女らは呼び捨てなり、されど礼儀は重んじて、われらが路傍に写生をなしていると、何人も礼を厚く挨拶を施して過ぐるのである。

われらは明くる日より平湯村を前景として、中景に平湯嶺[安房峠]の裾を現し、遠景に蝶ヶ岳[2677m]の残雪を配したる位置にて、吉田氏も余も同じ位置にて油絵を始む。

[蝶ヶ岳については誤認の可能性も]

飛騨に入るまでは連日の好天気にてありしが、平湯に到着してよりは日々の梅雨のため、少しの晴れ間を見て写生に出でたのである。日々の降雨なれば四山に雲起こり、冥々として昼も暗く、室内も湿潤して心地悪しく、されど前山に雲起こり、それが速く馳せて過ぐるさまなど面白く、仰げば高き乗鞍岳の一角も見られ、その残雪の雲霧の間より隠現するのも興多く、または雨に濡れて露繁き草を踏み、蒼翠滴る草樹の間をおもむろにたどり、高原川の岸に立って潔き流れに臨めば、白玉を躍らし石にむせび岩に碎けて流れ下る間、カジカの声のこれに和すのを聞いたときは、感さらに深かかった。

出発のときにちらと西空に眺めた新月は次第に太りて、この山村に満月を見ることになった。日々の降雨なれば月明かりに接することは少ない。五月雨やある夜ひそかに松の月、これはいかにも趣味の深い名作である。

ある夜のことであった。入浴して自分らの部屋に帰り、茶をすすりてのち、睡楽の境に遊ばんとて、吉田氏まず便所に行く。氏はけたたましき声を放ちて、妙々絶妙と叫んだ。何事の起こりしかと縁に出ずれば、さても妙なり、東の山の端にほほ笑める月は顔を出だし、夜の空気に月明かりを帯びた雲霧は、山の裾を静かに動いているのである。妙を絶叫して画具を持ちだし、月明かりに筆を走らしてこの間を写生した。

初夏の頃、深山に入ると、ホトトギスの属にて夜鳴く鳥がある。その声にて名命したのであろうか、木曽山中にては十一鳥という、十一十一と鳴くから命じた名ではあるまいか。日光山に行くと慈悲心鳥という。ジヒシンと聞けば、こうも聞こゆる。この境にもこの鳥が毎夜鳴くのである。すべて夜鳴く鳥は寂しきもので、この鳥の声も旅情を深からしむるのである。その鳴くときは谷より谷に移るときか、または山越えをなすときで飛びながら鳴くのである。寝て居ってこれを聞くと、最初は微小の声で、それがようやく近くなり、わが耳に近き辺り翔り行くときは、しみ渡るような声にて、それがだんだん遠ざかり行きていよいよ細くなり、ついには消えるのである。この声を耳にすると、多情の詩人ならぬ人までも、ホームシックを起こすであろう。

温泉は各所に湧出して透明なり、朝に夕に浴して心身の疲労を忘るるのである。残雪の山に近き山村なれば、暑中も冷風至りて、無論米はできぬのである、温泉の下流れに田を作り稗を植えている。子供は稲というものを知らぬであろう。

平湯より十丁あまり上りて銀山あり。銀の熔場を出づると大瀑布あり。平湯瀑という。高さ数干尺、水は奔逸矢のごとき勢いをもって激下す。一日流れを渡りて瀑下に写生す。瀑ツバメ群をなして翔す。瀑の左側なる岩壁を攀じて登る。数十丈の途に至りて、上るも下るも能はざる険峻の所に出づ。危険極まりなし、ようやく草を命の綱とたのみて頂に達し、銀礦を運搬する道に出でた。ここの眺望可にして、稜々たる峰頂白雪をかぶれるを見る。

《平湯大滝》1898年 47.0×29.0 丸山晩霞記念館蔵
※デジタル補正済
『みづゑ』第16(1906年)にも同じ挿絵

われは今一つの秘めごとあり。されど巻頭、望月氏の書簡をそのまま掲げたれば、今は秘すとも詮なき次第である、読者よわれらの不潔を笑うなかれ、いかんとなればわれらは仙骨である。まず正直に語らんと欲す。

山里の旅舎に日を重ね、不潔の夜具にくるまりしため、半風子しらみは遠慮なくわれらを襲いて、平湯の宿に日を重ねて以来はますますはなはだしく、仙骨とはいうものの、今は何とも耐えべくもあらず、種々の工夫をこらしてこれを退治すれども、いかんせんあまりに多く、人間の力も仙人の力も及ばず、ほとんどその策を施す道に窮したが、ついにここに妙案を出だした次第である。それは温泉の湧出する中に熱湯を噴出する所あり。その辺りは岩石にして、それらもはなはだ熱して、下駄のほか渡ること能はず。半風子の付着したる衣類のすべてをまとうて、人々の寝静まりし深更しんこう[深夜]に出で、着衣一切を熱湯に投じ、これを引き上げて熱せる岩石の上に置けば、しばらくにして乾く、かくしてようやく退治をなしたのである。

滞留中の主なる事はこれくらいである。この間一枚の油絵と数葉の水絵を描写して十数日を重ね、梅雨晴れて暑に向かわんとする候、ここを去ったのである。

崖に被ふ朝の若葉や宵の雨
淡く昇る若葉の山の煙り哉
何鳥か暮て鳴きけり五月雨
五月雨や乗鞍岳を下る雲
杜鵑雨に宿とる平湯可那
杜鵑鳴くや平湯は理想鄕
湯煙りや平湯の朝の子規

 [7月5日(火)平湯~本郷村]

霖雨晴れて快晴。高原川に沿うて下る高原あり。白百合の美しく咲きけるを写生す。(この辺りより信州木曽一帯にかけて、淡紫色を帯べる白百合あり、香気愛すべし)これを折りて帽に挿す。


《山中の霊花》(水彩画石版)  『みづゑ』第16(1906年)
《高原川の上流》(鉛筆画写真版) 『みづゑ』第14(1906年)
[増補]《日本アルプス写生内 高原川上流》1898年 29.2×47.0 丸山晩霞記念館蔵

高原を出づれば畑あり。久しぶりにて風に起こる麦浪を見る。最初見しは青麦なりしも次第に下れば次第に黄を帯ぶ。一重ヶ根ひとえがね、村上の山村を過ぎ行けば、中ノ侯岳[黒部五郎岳2840m]より発する川あり。この頃来けいらいの降雨に水まさりて、濁水満々、渡橋を流失して対岸に渡ること能はず、奔流速きこと矢のごとく。里農に道を案内され、川上一里余りを上り、怪しき危険の橋を渡りて栃尾村に出で、流れに沿うたる山麓を行けば、草樹鬱蒼たる間に夏梅の咲き乱れていと美し。急坂を上り森林に入りそこを出で今見いまみ田頃家たごろけ、笹嶋、上宝村の諸村を過ぎ、笠ヶ岳[2898m]より発する川を渡りて長倉村に出で、岩井戸より中山を経て高原川を渡り、対岸に移り、見座村に至る頃は日暮れたり。

《飛騨山中の風俗》(水彩画写真版) 『みづゑ』第16(1906年9月)

この辺りに宿を求むるを得ず、疲労の足を運ばせて本郷村に至り、農家に請うて一泊を求む。この辺りの風俗は浅青色の「カラサン」と称する袴様のものを男女とも着している。

雨晴れや流れに浸る花卯の木
朝雨や卯の花浴びて越す嶺

十一 [7月6日(水)本郷村~船津町]

翌日は雨天。ここを出発して二里という船津町に到着。船津は飛騨第三の都会、東京三井氏の鉱坑あり。山を出でた仙骨、まず第一に煙草を求む。平気ではあったが、久しき仙食に飽きて、いささか、いや、大いに美味と美しき部屋に美しき夜具にくるまりて寝てみたき欲情起こり、煙草舖の女房に、船津町第一等の旅館はどこぞと尋ねた。女房はわれらの怪しき旅装と、怪しき携帯品、かつは[一方では]われらの髪長きと日に焼けし赤黒き顔を見て、しかも舶津第一等の旅館を尋ぬるというのである故、不思議の顔にて、大阪屋なることを教示した。

大いに仙骨をふりまき、船津町を活歩して大阪屋に至る。いかにも山中の小都会としては美麗なる旅館である。

宿の主人はわれらを何と見しか、普通ならば謝絶すべきに、大いに歓迎して快諾したのである。われらの得意知るべきである。しかも通された部屋は第一等、いよいよもって大得意である。われら言えけらく、この家の主人公はわれらを見る目を持っている。茶もうまし菓子もうまし、湯に入ればこれも新し、下婢[女中]の運び来たる寝巻に着替ゆ。未だわれらの身に着けしことなき絹織りの大縞、この新衣に着替え、むくむくとした座布団の上に、達摩然と座せば、古模様のある火桶を運ぶ。上等の茶器も据え付けた、すべてが皆上等である。

平湯にて描写した油絵の乾かぬため、これを開きて部屋に掲げ、今日まで描きし鉛筆水彩画も開きて、加筆なしたり眺めたり、たちまち八畳の座敷に散乱して、われらの座すべき余席もあまさぬのである。下婢が夕餐の膳を運び来たり。この混雑なるさまを見て驚き、膳の据え場なきにうろうろしている。襖を開らけば隣室あり。そこにて夕餐をなす。久しき間の仙食なればすべてが皆うまし。

餐後、町を散歩す。高原川は町の背後を流れ、頃日来の霖雨に出水して瀬の音高く、物凄いさまであった。宿に帰れば、食事した部屋に寝具のべてあり、これもうまし。露宿同様の山村に宿を重ね、青苔芝生を錦の茵菌と愛し、雲霧をもって薄絹の垂帷とばりとなし、深嶺幽谿を金殿玉楼と眺め、人の世を俗と罵倒して、仙骨を自称したわれらが、美しき室に美食し、美しきしとね[布団]の中にくるまりて、楽々と横臥した心地は、決して悪しくはなかった。

ともに寝て語りつつ、今や睡魔の境に入らんとするとき、われらの部屋の襖は開かれた。下婢は枕頭に手をつきて、警察署の部長さんが御用とのことである。見れば白服を着けた巡査が、船津警察署の灯燈を点じて、下婢の案内にてわれらの部屋の入り口に立っている。

《船津町旅舎の光景》(ポンチ画写真版) 『みづゑ』第14(1906年)
※8年後に回顧して描いたものか

いかなる御用かは知らざれど、われらは大いに疲労してあり、起床も物憂ければ「明日来たるべし」とこれは吉田氏の口より発せられたのである。「急用あればこそ深更しんこうに来たのじゃ、起きんか起きんか」。これは巡査の口より発したのである。

(吉)「警官よ、余らまことに疲労してまことに眠し。人民を保護するは卿らの役なり。願くは僕らを保護して安眠を得さしめよ。そしてなお卿らがわれらを怪しきものと嫌疑し、今夜この宿を逃亡なすの恐れもあらば、この宿の出口出口に張り番を付されたし。余らは人間以上神と等しき仙骨なり」「しかりしかり」と余は相槌を入れたのである。

何という警官を侮辱した語であろう。巡査は立腹した。これは無理もなきことである。ついに起床することになった。警官の質問に一つ一つ答えた。

平湯の油絵を見て平湯でなきとのことである。油絵を初めて目にする人には、これも無理のなき次第である。これを親切に素人の了解するように解釈を試すべきであるが、血気にはやる青年、しかも仙骨を自称するわれらが、何として平穏の説明を施すべきぞ。

「平湯の景でなしとは近頃奇怪千万である。もっとも、われらに怪しき嫌疑をかけ深更人々の安眠を害してまで尋問さるる凡眼には、山紫水明を友となし、清雅瀟灑の間を逍遙し、蒼翠潤沢の美を嘆賞なす、嘯風弄月の高士、詩人、画家の世にあることも知らざるべし。汝らのごとく日々凡俗に接し、物質的名誉利達のほかを知らざる陋劣ろうれつの目には、いかでわれらの筆になりし神韻縹緲しんいんひょうびょうたる霊画を解さるべきや。われらは平湯にあり。山姿水容の形相を借りてこれに理想の極致をもって、内包の真趣精粹を写出して現れしもの、写真、または地図と同視し、物質的の見地をもって平湯にあらずと申されしは、さすがに汝の凡俗を現したる名語である」

何という高慢無礼の説明であろう、さすがに巡査は吾らより年長の兄だけに、われらの決して怪しきものにあらざることを認め、ここを去ったのである。

読者よ、十年前のわれらが人格を遺憾なく遠慮なく書き現したのである。十年の星霜はわれらに誠の人道も教え、誠の美術家の何者たるかも教えたので、今は仙骨も叫ばず、平穏なる普通の家庭を作り、そこに真面目の観念を満たして、斯道の研究をなしている。十年前のすべてを考うれば、今はただ苦笑をもらすのみである。船津を出で高原川を下り、宮川の渓谷を上りて高山に出で、野麦嶺を越して奈川の谷に出で、再び松本に出で、保福寺嶺を越えて帰郷した。その間の紀行は自分には面白く、またいたって長し。紙数に限りあればここにて筆を止め、不日改めて稿を継ぐであろう。
(「飛騨の旅(上)」終わり)

『みづゑ』第十六 明治39年9月3日発行

飛騨の旅[下]

一 [7月7日(木)8日(金)船津町]

船津町旅館大坂屋に投宿せし翌日は、野津将軍[野津道貫陸軍大将・日清戦争時の師団長]のこの町を通過して、高山町に行くとのことにて、われらの宿泊せし旅館は休憩所に充てられ、しかもわれらが占領せし部屋に、御休憩遊ばさるるとのことで、宿の主は手をもみ腰をかがめつつ、恐る恐るわれらの部屋に入り来たりて、右の趣きを述べ、一時階下の部屋に立ち退いてくれとのことである。さすがのわれらも、この道理ある請いには快諾して、階下の部屋に引き移った。この部屋も上等にて、植え込みある裏庭を前にして、眺望はあらざるも奥ゆかしき部屋である。

歓迎の人々はようやく集まる。郡長、町長、警察署長、町会議員、というような人々であった。われらのこの地に入りし昨日以来、なお昨夜の出来事は、誰いうとなく船津町に伝播して、一つの奇しき評判となったので、ここに集まりし人々は、将軍の来津までには、まだ時間もあり無聊ぶりょう[退屈]ではあり、かたがた評判高きわれらの奇しき仙骨の姿、かつは妙霊なる絵も見たしとのことで、彼らは申し合わせ、宿の主人の紹介にて刺を通じて[名刺を出して]面会を請われたのである。

昨夜の部長さんの剣幕に引き替え、大いに礼を尽くされたのである故、われらは快諾して面会を許し、霊画を見せたり物語りなどして、われらの大見識および大気焔を、遠慮なく正面から浴びせかけたのである。何という無礼の待遇である。

将軍は来たり将軍は去りて、われらはまた二階なる美しき部屋に帰った。時は午後である。この日は朝より曇りて、降りみ降らずみの小雨降りけるが、午後二時頃よりは、空は灰色に曇りて、滝なす大雨降り来たり、雨戸を締めるという混雑。雨は倍々強烈の勢いにて激降し、黒暗々たる部屋にありて、この凄絶なる音を聞くのみである。

この夜はとにかく安眠して、翌朝になると、昨日以来の降雨は、その勢いを減ぜぬのである。午前十時頃にわかに明るくなり、雨も小降りとなったのであるから、出発することに決めた。

一夜宿泊の考えであったが、日頃の疲労と雨のために、二日の滞留を重ね、仙食にやせた腹も美食に太った。いかに美しき部屋にても、美食安座に二日を送ったのであるが、自然いとう気の湧き出でて、今はまた鴬ならねど谷渡りの興も忍ばれ、山紫水明の境が懐かしく、緑の中のコマドリも久しく聞かぬ。かく思い浮かべると、一時もここに居ることが苦しくなる。

船津を去らん、船津を去らんと決した。空の明るくなりて小雨となりしは束の間である。またまた曇りは前に倍して、降りしきる大雨は、天の川のあふれ出でしにはあるまいかと思わるるほどである。この激雨では、いかに仙骨でも出発はできまじ。室内は暗くして絵の手入れもできぬ。時に触れての感興を文字にすることもできぬ。運動せざれはいかに美食なればとて、決してうまきはずはない。

去らん、去らん、船津町を去らんと、また言い出した。激雨を浴びつつ山村を過ぎ、渓谷の細道をたどり、または高原を逍遙して、草木の雫を浴び、時に黒雲のうちに入るのも興多し。

二人の仙骨はこの宿を出発すべく、手を打ち鳴らして出発することを告げた。主人は止めた。いかなる急用かは知らざれど、この大雨に出発するとはいかにも心強し。高原河畔の峡谷は、山は崩れ谷は落ち、崖は欠壊しやすく、少しの降雨にても危険なるに、この強雨に際しては大危険である。無理にも御止め申すとのこと、女房も下婢も一様に言葉を尽くして止めるのである。この情こもれる語には、いかに仙骨にても躇躊せざるを得ぬのである。

またも降り出だせし強烈の雨は、盆を覆すごとく、折から町の北部を流るる高原川は、物凄き響きを起こし、激怒して流るる音が聞こえる。洪水、山崩れ、落橋、町に水が押し出した家が流るる。これは人々の叫び声である。町中は大混雑を極めた。

午後に至りて雨は小降りになった。されど高原川の激流は凄然たる音である。好奇心に富むわれらは見物に出かけた。河畔に近づくは危険なれば、町の高丘より見下ろした。エンデアンレット、ランプブラック、を混じたような濁水は、小丘のごとき波を起こし、激怒して流るるさまは、いかにも荒凉凛慄であった。これのみならず大石の流るる音は河底に起こりて、百千の大砲を連発するごとく響き、何とも分からざるものは、浮きつ沈みつ流れ下り、河筋は一帯に長く水煙が立っている。この間の現象を鉛筆にてスケッチし、宿に帰れば点灯の頃であった。

水には絶大の活力ありて、風景の大部は流水の浸食した跡である。いかに堅固なる火山岩の嶮山でも、水の活力には深き谷を穿うがち、断崖絶壁をつくり、平原にありては、広濶こうかつなる川原をつくり、桑田変じて海となるも水の活力である。今一葉の地図を開きて、その示す所を見れば、平地あり、山あり、山は脈を成して他の脈に合し、その脈は東に流れ西に流れ、その山間には必ず流れありて、小流は大流に合し、高きより低きに流れ下り、平地を流れて海に注ぐ。その海の陸地を囲繞いにょうする海岸線は、凸凹極まりなく、凸なるものは岬となり、凹なるものは湾となり、さらに凹なるものは潟となりて、変化多様の風景の形はつくられている。これまた水の活力である。

また水は山岳に付隨したものにて、風のために雲を起こし、山雲を吐き雲山を吐きて、雨を降らし、雨水は山皺を伝うて小流となり、沢に集まりてようやく大となり、断岩絶壁に注落して瀑布となり、流れは急、かつ緩。この間水の浸食よりなりし、絶妙の風景はつくらるるのである。殊にわが島帝国の山紫水明は、列国に比なく、欧米人が美園国の賞語を付するも、決して無理ならぬのである。

われは今、高原川の洪水を眺め、黒き濁流の涛浪怒激して、橋を流し耕地を流し、断崖を崩壊して、轟雷のごとき響きをたてて、奔馬のごとく流るるを見て、水の活力の大なることを今更のごとく感じ、如上じょじょうの感を満たしたのである。耳を聾する高原川の音。闇をかすめて耳に入り来たるひと声! それはホトトギスである。

洪水の夜の空鳴くや子規
押水や河鹿流れて町に鳴く
晴れ告くる老鴬や雲の山
雨になる闇を啼けり杜鵑
欄干に合歓木の寝覚めや旅の朝

二 [7月9日(土)船津町~中山村]

炭火を運ぶ下婢かひ[女中]の足音に眠りを破れば、雨戸の間より漏れ来るは朝日の輝きである。大雨に三日間の滞留を重ね、山見たし谷懐かしと短き三日間もいと長く感じ、今日の御光みひかりをいかに待ちわびたであろう。われらの喜びは千万無量で、籠に自由をそがれし小鳥が籠を出だされ、自由のうれしき羽ばたきをなして、焦がれたる緑の山に飛び去るようであった。下婢は久しぶりにて雨戸をくりあけ、われは熟睡の吉田君を揺り起こした。

朝日の輝きを見たまえ!!!
山々の緑を見たまえ!!!

出発出発と歓叫したのである。

船津町を発すれば、昨夜まで降り続きたる大雨は洪水となりて、船津町も流るるという大混雑に引き替えて、今日の快晴は日本晴、澄み渡る夏の空は濃くして瑠璃のごとく、平和の御光はこぼれて山も野も洗い清めしごとく鮮らけく、疲労なき足を軽く運ばすれば、やや遠き鮮緑の山にはヤマバトが鳴いている。開けた船津平の緑田も美しく眺め、道に会する農夫ら機嫌うるしく、ここを過ぎ行けば、右なる高峰二十五山にじゅうごやま[1153m]の山脈と、梨ヶ根山[大洞山1349m]の狭まりて、われらは高原川を脚下に望む断崖の頂に立ったのである。

この頃来けいらいの洪水の名残りは、黄黒き水の激怒して流れている。にわかの増水にも驚きしが、またにわかの減水にも驚いた。

その対岸は鹿間村にして、目に近き茅舎三四あり。その屋根は頃日来けいじつらいの霖雨に染まりし緑苔の日を浴びて麗しく、その背後に三井氏所有の一鉱坑ありて、熔鉱場の規模宏壮なり。山巓、中腹、山麓などに工場の建てられたのは目に奇しく感じて、鉛筆画の写生を始む。三脚を据えし所は、梨ヶ根山の崖を削りてつくりたる危道にして、この頃の雨に道路の半ばを崩壊したる所なれば、通行人の妨害となる厄介の所である。

折悪しく船津町方面より来たれるは、白服をまとうた巡査である。またまた巡査の御厄介になることと思うて近寄り来たるその顔を見れば、先の夜われらを深更しんこうに起こして調べたその人である。しかもその夜大いに侮辱を与えたのである故、このたびはおとなしく道を開きて通らすべきであるに、血気にはやるとはいえ無事に通さなかったのである。

(読者よ今余はこのときのことを書くは大いに心苦しく思う、されど余の性情として秘密をいとうので、やむなくありのまま露骨に記さんと思う。十年はひと昔、今は一家の主人公として昔を忍ぶごとに苦笑のほかなし)

巡査はようやく近づいた。われらはいかなることをなせしぞ。吉田氏と顔見合わせ、一語を交えずに同感でありしは不思議である。三脚を少し前に出し、足は伸びるほど伸ばし、体を背にそり、高慢の態度をなして、写生に余念なく、人の来たるも知らざるふうを装いつつ筆を動かしておった。われらの傍に近づくものは、いかなる人間にても通行することはできぬ。後ろは断崖、前は崩壊したる崖、われらの体に触れずして通ることはできぬ。鳴呼われらは何という馬鹿者である。先の夜この人を侮辱し、なおその上侮辱を加えんとなす。その心根や実に常識ある人間のなさざるところである。この無礼極まる行いに対しては、人は人の権利のもとに立ち退かせ、巡査は職権をもって立ち退かすのである。

今やわれらの上に大喝一声の降り落つると思いきや、これは意外、危き崩壊の崖を伝うて、われらに少しも触れずして通過したのである。かくさるるといかに自称仙骨でも良心は責めて自ら恥じ入り、彼の後ろ姿をはるかに見送り、彼は君子である、とわれは心の奥に深く感じたのである。

ここを過ぎて一つ橋を渡る。鹿間熔鉱場の前を過ぐれば、両山ようやく狭まりて、谷いよいよ深し。この辺りは谷の両岸迫りたれば、十数年前までは籠の渡しをもって有名なるところである。籠の渡しは藤のかずらを対岸に張りて、これに藤蔓にて製したる籠を付着してそれに乗り、自ら手繰りて対岸に渡るのである。今も各所に藤蔓に替うるに針線をもって作りたるものを見た。

崖に掛かりし棧道を過ぎ行けば、対岸に大なる奇しき茅舎の続けるを見る。朝晴れの空はやや曇りて蝉の音絶ゆ。吉ヶ原村[原文の青ゲ原は誤記]に至る。ここよりは少しく谷も開けて稲田も見え、燃えるごとき緑の麻畑を見る。一つ家村[東漆山村か]を過ぎて牧村に至れば、高原川の渓谷は前に開けて壮観を極む。

道は山麓を回り、高原川を見捨てて右折すれば、一つ橋ありて寺地岳[寺地山1996m]より発する跡津川を渡る。土村に至りて回顧すれば、跡津川の流れ高原川に合す。二流急奔して水と水と衝撃して激闘をなし、怒涛白を散じて渦巻き流るる巨観に対して、妙を称え絶を叫んで写生の筆を走らせたのである。

[増補]《茂住村》1898年 47.5×28.5 丸山晩霞記念館蔵

この辺りの山岳は、いずれにも鉱坑ありてしきりに採掘している。西茂住を経て東茂住村に至れば、大なる熔鉱の工場あり。開けたる高原川の渓谷を眼下にしたる休憩所あり。入りて行厨こうちゅう[弁当]を開く。時午後一時。川に沿いて下る。杉山横山の二村を経て一つ橋[旧千貫橋か]を渡る。対岸は川の危岸、一路羊膓岩石狼藉たり。この辺りは暖国に繁茂するカシ、クスノキの常緑樹を見る。激流に沿うて中山村に至り、某旅舎に泊す。

雨晴れや白き野百合の香の高し
漏るる日や茂りの路の影丸し
茂りから透くや谷間の籠渡し
時鳥鳴くや金堀る山の煙
山里や麻畑薰る朝日和
山の端や茂をすりて鳩の飛ぶ

三 [7月10日(日)中山村~林村]

高原川の朝霧見んとて早く出発す。ここも山間なれどやや開けて、平湯仙境に比すれば何となく里めき、気候も暖かく、常緑樹の森は暖国の趣きを表している。夏旅の早立ちは心地よく、新しき空気を呼吸しつつ、朝の軽き足を運ばすれば、左方脚下に開け流るる高原川は、一帯の河霧流れを覆うて、綿もて包みしごとく、流れの清響は霧を破りて聞こえるのである。

河霧の深く濃く閉ざすときは快晴とのことである。雲なき濃青の空は澄みて、山々は皆秀でて高く透明の空気に鮮か[け]く見ゆる。山高きため朝日の出遅く、南の方より吹き送る朝風は暖かみありて、日の出でなば今日は暑し、とともに打ち語りつつ緑田の間を進み行けば、小流ありて、この頃来の洪水に流れたる川原に出づ。道路の中ば崩壊している。

西の山の頂には朝日の光こぼれて、艶もてる黄に輝き、東の高峰は明るき空に現われて暗緑色である。河霧は今散じて、濃灰色の川原に水のみ白く光りて流れている。小丘の裾を左折すればヒノキの黒き森あり、森の内なる暗き路を経て谷村に出づ。

《山中の霊花》(水彩画石版)  『みづゑ』第16(1906年)

ここを過ぐれば信飛の境なる乗鞍岳より発する宮川の岸に至る、宮川はここに至り、高原川もここに至り、相会して大河となり、神通川となりて越中に流れ入るのである。宮川は高原川に比して、水色澄みて藍靛らんてん色をなし、河畔一茅舎ぼうしゃの休憩所あり。白き花咲きたるトチの巨樹四五株ありて、枝を交え葉を重ねて川風に動いている。ここにはかけいもて崖より清水を引きて、水槽にあふれている。

橋を渡れば道は二道に分かれ、右すれば神通川に沿うて富山市に出づ。左すれば宮川に沿ひ高山町を経て信州に出づるので、われら左折して宮川の流れを上り行くのである。

[富山県側の蟹寺から宮川沿いの加賀沢・小豆沢を進んだものか]

宮川の渓谷はようやく迫り、山は高く谷は深く、山ますます純緑色をなす。宮川の渓谷は深くして断岩絶壁多く、ここを通過するはいたって困難なれど、開けゆく世はここを開きて坦平の道路を作り、われらが飛騨旅行に対して予想外の道を踏みゆくのである。

削りなした断岩、危き棧道、渓谷を覆う巨樹、コマドリ鳴く森林、対岸の岩壁に懸る瀑布[不動滝か]、のごときものを、絶えず迎えつ送りつ進み行くのである。わずかに開けた地あれば、茅舎二三点在し、平和を歌う鶏の声起こり、麦焼く煙は白く青く緑を染めて立ち昇るも興あり。

流れ近くに至れば、岸を覆うたる緑陰暗く、川辺の崖は紅色の丈低きツツジ所々に咲き出でて水煙を浴びている。人家のまがきには淡紅のヤマウツギ垂れ、白百合も咲き誇りて、いと麗わし。川筋はここもまたこの頃の出水に流れたる跡多く、崖崩れ各所にあり。

ここを過ぐればやや急坂となりて、桑の巨樹茂れり。坂の頂は平坦にして、ここは宮川を脚下にしたる断岩の頂である。ここに建てたる茶亭あり、入りて昼餐をなす。この亭を遠望せしときは、理想になりし漢画の山水画の家を見るようであった。

《宮川沿岸の山村》 (水彩画写真版)   『みづゑ』第16(1906年)

亭は高所にあるゆえ用水を得がたく、脚下数丈の宮川に針線を直垂し、これに小車を附したる釣瓶つるべに麻糸を付けたものを落下すると、針線を伝うて釣瓶は宮川の淵に落ち込み、麻糸をたぐれば釣瓶は水を満たして揚がり来るのである。好奇心のわれらは面白しと、幾度か水を汲み揚げた。筧の水も趣味深し、数十丈の絶壁より谷川の流れを汲みて茶を煎るなど趣味さらに深し。ここは展望ありて、谷を越したる遠き山も見ゆ。

この頃の日癖にて、朝受け合いし好天気も、午後一時頃となりて曇り来たり、高き山頂は白雲まとうて小雨降り来る。

《宮川沿岸》(鉛筆画写真版) 『みづゑ』第16(1906年)

ここを立ち出づれば僅かに下りて、このたびは山の中腹を橫切るので、暗きまで茂れる森林の間を行く。この尽くる所は、また開けて河畔に出づ。今まで激怒して流れ下りし宮川はようやく音を絶ちて静となり、われらこれに沿うたる坦平の道を歩す。静となりし流れは対岸の景を沈め、風物はすべて凄然となった。水の流るる音は賑わしきもので、激怒して流るる音は勇ましく無声の流れは凄味を持っている、この淋しき境を歩することおよそ四五丁にして、栃樹の森を左折すれば、ここは平坦に開けて流れも広く、巨柳河畔に茂れる牧戸村に出づ。

対岸の高丘流れに面して人家あり、小舟はこの静穏の流れを絶えず復往している、小雨降りければ、遠き山々は灰色にして、近き山は鼠を帯びし緑。巨柳のしげみ、静かな流れに小舟を配したこの間の風色は水彩画を見るごとく、また英国の田舎のごときようにも感じ、わが理想の境にも近きように覚え、ここに三脚を据えて一葉の水彩画を作る。

この辺土には画家の旅行など存せしことなき故、人々不思議がりてあまり近寄らず、地図を引くなどの私語は僅かにもれて聞こゆ。長き夏の日も暮れに近く、人々は耕しの野より帰り来たり、馬引く乙女の鄙歌も面白く聞こえた。

われらはここを去り林村に至りて旅舎に投ず。この宿は川を背にし、前は道路に接して、近頃建てた新しき家にて、部屋の造作などはまだ出来て居らぬ。

折から若き女房の来たりて、湯浴みせよとのことなれば、案内さるるまま、栗の木の下駄はきて外出したのである。道を隔てた前なる傾斜面の道を上れば、高く石を積みて作りたる平地あり、ここに家を作り畑もあり、家ごとに筧を引きて、水は凉しき音を立てている。われらの導かれし浴場のある所は、白壁の蔵ある一つの大なる農家にして、浴場は庭の真ん中の据え風呂にてありし。この古く大なる家は、新しき宿の本家である。山人の親切は古く黒くなりし据え風呂も遠来の旅客のために設けたのである。案内せし若き女房は湯加減の注意、背中流し、それはそれは誠を込めて気の毒ほど親切である。

初夏の頃であるから夕顔の花はなし、月明かりもないが、まだ暮れきらぬ夏の夕べ、農家の庭の湯浴み心地はわが意に適し、風呂の湯は透明して美しく、湯浴み終わりて筧の槽に行き、清水に頭を冷やし体をぬぐい、凉風に吹かせた心地は何とも言うことができない。

《日本アルプス写生内 飛騨宮川畔》1898年 29.0×57.0 丸山晩霞記念館蔵

見渡せば山々に雲かかりて、静かに流るる宮川も見られ、小さき水音の起こる暗き森より、飛び出でしホタル三つ四つも興を満たして眺め、終日の疲れを洗い流して宿に帰れば、山里ながら河の畔り、塩焼きの川魚は膳に上りて美味愛すべく、この夜は例によりカジカの声を耳に響かせつつ眠りに入れば、村の若衆の歌う鄙歌もこれに和して夢となった。

押水に押されながらや百合の花
葉柳やからかさなくて足る小雨
崖に咲く百合やそのまま沈む瀞
葉柳や流れ木拾ふ渡守
湯上りの肌拭く脊戸や飛ぶ蛍
山里の夜は静なり鳴く水鶏

四 [7月11日(月)林村~古川町~高山町]

未明の頃よりホトトギス鳴きたり。早く出発すれば、朝霧川を包みて流れの音のみ聞こゆ。道の谷間に入ると、トチ、カエデ、なんどの暗く茂りて、澄みわたるようなコマドリの声は、朝の森林に響かせておる。路傍には五葉およびフキの広き葉重なりて、葉の表の雫に木の間もる光の輝きて白く、白き野花の咲けるかとも思われた。崖をまとうたキイチゴには、黄なる実と赤き実の熟してあれば、仙果なりとてこれを喫す。霧はようやく晴れて、黒く茂り合うたる木の間より青き空見ゆ。山高ければ朝日はまだ現れず。

岸奥落合の山村を過ぐれば、朝日輝きて、夏の日の活動の舞台は、その幕を切り落したかのごとく、活々とした草木は風になびき、しぼみし花は開き、昆虫は葉陰の夢覚めて花より花に食求り、人々は皆野に出でて耕す。

谷やや開けたる斜面には茅舍二三ありて、宮川は右方の山麓を回りて静かに流れ、黒く茂れる鎮守の森を中景に配し、稗畑に隣りて緑波打てる麻畑、遠きコバルトの山も見えて、麦焼く煙は遠近おちこちに見ゆ。山村の夏の朝。この平和なる感じを描かんと路傍の木陰に位置を定めて三脚を据ゆる。ホオジロは木の頂に歌うている。鴬は谷の間に歌うている。歌うはこれのみか、高く茂りし桑樹の間より、

    飛騨の高山高いといへど低いお江戸が見えやせん
遥かなる桑樹の間より幽かにもれ来たるは、
    飛騨の高山御坊様過ぎる千原チンバに
    女房かかすぎる
    囃子 江名子(バンドリ)雨がもる
       三井田むしろは杤がもる

人間の音楽を罵倒して、自然の音楽に耳を清め興を湧かしておった仙骨も、今この平和の山村にありて、自然の楽に調べを合わせて歌う美音の鄙歌。殊にこの間の風物を眼前にして聴くためか、恍惚としてこれが人の口より発するものであるかとまでに感じた。

桑摘む山村の乙女よ、汝は鴬のごときのどを持っている。汝ののどは魔か、善か。たしかにわれらを引きつける力を有している。われらが写生の筆に表るる風景は形の上に面白く、色の調和もよく、かつは麗しき鄙歌もよく調和して、平穏なる山村の夏の朝の趣味は、十分に描き出だすことができた。

われは山村に感狂し、鄙歌に絶興し、この間の自然に同化して自失していると、たちまち起こるは人々の私語である、自分に帰りて傍を過ぎ行く人を見れば、桑の葉を満たしたる籠負うた乙女二三、それは美しきのどもてる歌の主である。谷は開け谷は迫り、村を過ぎ田んぼを過ぎ行けば、この日の天気麗しく、山々は皆現れて空に一点の雲もなし。広き緑の田の面を吹き来る風の凉しくて心地よく、景を送り景を迎え、われらの袖引けるもの少なからざりしも、今日のうちに高山町まで到着せんと欲して道を急ぎ、正午古川町に着した。

街衢がいく[まち]は荒木川と宮川の会同するところに駢列へんれつし飛騨第二の都会であるとのこと。ここに午餐をなし、一路坦平砥のごとき上を急ぎ、大野、上広瀬の村を過ぎ、八賀川を渡れば、一望開展したる高山平に出ず。

下切、松本、の村を過ぎて高山町に着せしは午後六時であった。高山は飛騨第一の都会、街衢齊整都雅愛すべく、宮川西を流れ、東北に高丘あり、金森長近の築きたる城跡ありという。地勢京都に似たるため、小京都の名ありと。この日は終日晴天にして気候やや暑く、疲れたれば早く眠りに就く。

紫に明ける東の山やほととぎず
昼顔や里の乙女の歌う節
筧さい音なき昼や蝉の声
水押しに荒畑や月見草
栗咲くや日ぐせの雨の今日も降る
小鳥歌う翠の蔭の清水哉
世の無事や昼寝の顔に蝶の来る

五 [7月12日(火)高山町~中之宿村か]

船津町を発してよりは、半日も休養せしことなく、朝は早く出発して、夜は遅く宿に着くというので、日々歩を続けたれば、いかに仙骨にても疲労はなはだしく、船津町の滞留など思い浮かべると、この高山町に一日の休養を心に願うたのである。

されどわれらが旅行の運命は、ついに滞留を許さざりし。それはこういう次第である。至るところの風物はわれらを歓迎して、予定の日割よりも多く日子を費し、かつは[一方では]船津町第一等旅館に滞留三日を重ね、大いに得意を振り回したため、この朝に至りて財布を改むれば、暁の空の星ならねど、旅費はわずかに残るのみである。いかに仙骨なればとて、霞を吸い雲を食うて居らるるものでなし。日暮れて道遠しは露宿も出来て詩的のものである。旅費尽きて帰路遠しはいかんとも策の施こす道がない。

ここに滞留して為替を取り寄するも面白からず、さりとて旅費尽きてほとんど難渋ここな主に情請わんなども芝居的で面白いが、世慣れぬわれらにはきまりが悪くて行う勇気がない。宿料が滞りて依頼に応じ、絵を描きて漫遊なすというのは画家によくある例であるが、それも陳腐だ。

しかしここにいささか光明のある望みは、われらが船津町に滞留しておったとき人々の物語りに、高山市に洋画家あり、その人は中学校の画学教員で、何々という人であることを聞いた。何々という人は余が親交というほどならねど、とにかく友人であるから、この友を訪問して旅費を借り出そうというのである。

友の住所を宿に尋ねて訪問に出かけた。彼の住むところは、町の中ではあるが、閑静の地にして家も美しく、門あり玄関あり、庭内広く、美術家の住居としては何となく俗気がちであった。二人は手製の名刺を通じ面会を請うた。妻君らしき人が現れて、しばらくわれらを注視して、主は不在にて何日帰るか分からぬとのこと。

妻君は初めての識である。色白くやや太りてなまめきたるあだ姿。美くしと言えば美しき方なり。されどわれらに物言いぶりのよそよそしきは、日に焼けて色黒き顔、櫛入れざる長き髪、垢に汚れ夏の綿入れ着、無愛想の言葉遣い、百鬼夜行の中から二鬼抜け出でしかのごとき容態、誰が目にも恐ろしき変人と見らるるを、ましてや心弱き女性の目にはいかにも恐ろしく映じたであろう。

あまりの恐ろしさに驚愕して生気を失しなかったのはまだしも幸福である。されどわれわれは、よそよそしき挨拶が癪に障りてここを飛び出し、宿に帰り用意を調え、前後の考えもなく高山町[565m]を出発した。

江名子嶺えなことうげ[美女峠945m]にかかる。展望可。山口、辻、の山村を過ぎ、嶺を下れば地やや平坦にして見座村あり。乗鞍岳の大池より発する益田川を渡る。川に沿うて甲、万石、上ヶ見、黒川、小瀬ヶ洞の諸村を経、秋神川あきがみがわを渡る。

このあたりは山深く、害虫にてブト、アブ、ハチアブ、メカスリブト、コアブなど多くして、農夫はヒノキの皮を打ちて軟らかくし、これを中に入れ藁にて巻きて苞苴ほうしょとなし、これに火をつけてくゆらしたるものを腰に下げて働いている。

黍生きびゅう谷村より宿島村[中之宿村か]に越ゆる小嶺あり、ヒノキ・モミの茂りて樹下凉しく、しばらく木陰に休憩していると、ここに来襲して来たるは灰色のコアブにて、百千万と集まりて着物の上に付着して、薄きものは肉に食い込み、払えども払えども払いきれたものでない。ようやく工夫をめぐらし、ヒノキの枯れ枝を束ね松明たいまつを作り、これに火を点じて焼き撃ちをなし、ようやくここを去りて嶺を下り行けば、開けし田んぼありて、田んぼの中なる旅舍に宿泊す。宿の四面は皆田んぼなれば、カエルの鳴きたちて賑わしく、ホタル二三室に飛び入りしも興あり、疲れしまま蛙声を耳に満たして睡魔の境に入る。

田所や蛍は家をぬけて行く
河添へに暮れたる旅や飛ぶ蛍
明けて行く夏野を歌う小鳥哉
里の雨ほろほろ散るや柿の花
山幾重幾重を啼くや子規
麦焼きや笹の葉動く風もなし
山里や夕栄消えて啼く水鶏
野苺や崖から落つる滴り水

六 [7月13日(水)中之宿村か~寺坂峠~野麦峠~奈川村松竹]

夜のまだ明けざる暗きうち出発す。このたびの旅行にてこれほど早く起き出で、これほど早く出発したことはなかった。われらの懐中はようやく軽く、今日は途中にて、いかに絶感の所ありても見る約束にて、足の進む限りは何十里でも歩さんという意気込みにて、未明の残月に道を照らして、一里行き二里歩す。

まだ夜は明けざりし、ビックリ嶺[寺坂峠・寺ヶ坂峠1380mか]にかかる頃、東の空は白みて、遠き村より鶏鳴が聞こゆる。嶺は樹木なく雑草なれば、露を浴びし草の間より、白き花はホタルのごとく明るく見ゆる。嶺頂に達すれば、夜は全く明けたるも、高き山々は朝霧深くまとうて見えず。ただ同じような山の開けて、一面に艶ある緑の鮮らけく、山崩れの跡、原を流るる河筋も見ゆる。

毎日のごとく見ざれば、目に新しく映じ、心に深く感ずるのであるが、この朝の出発のごとく、未明の頃より逍遙すると、東の空はようやく白みて、明を発すのはたとえば人の生まれ出でたごとく、または川の源泉のごとく、美しく清浄なるもので、光は曙の空を染めて、紫黄に輝くのは全く神の光明である。この光明に照らされた自然界のすべては、夜の眠りを覚めて麗しくほほ笑み、鳥は歌い、蝶は舞う。この夜明けはたしかに神のみ心そのままである。この神々しき朝の空気を呼吸して、神々しき感に打たれ、嶺を下れば、左足今越した嶺に残りて、右足また前なる嶺にかけているのである。ようやく登りようやく下りて呼吸する暇もなく、また同じような急坂の嶺に登るのである。

われらは朝風を身に浴び新しき空気を呼吸し、鮮かな緑を踏みて、心身ともに爽快を満たしてさい、また登るのかという感に打たれる。いわんや三伏の炎熱に、草蒸しの気を浴びつつ、疲れたる身にありては驚愕もするであろう。ビックリ嶺は、誰いうとなく名称されたのであるとのこと。軽き朝の足なれば、さのみ苦も感ぜすこの嶺も越え、野麦山村[1300m]に着く。

この村は信州に越える野麦嶺[野麦峠1672m]下にありて、飛騨の山村の極まる所にて、山は高所にありて家の構造も大きく、板葦き茅屋などありて風致愛すべきであるが、今日は写生することはできぬ約束。

ここよりは乗鞍岳にも近く、頂上の大池といふは、四面山岳をめぐらして、岸の巨樹は影を沈め、黒く澄みて凄味ある池とのこと。今はいかんせん、ここを探勝することもできぬ。岩谷ヶ大瀑布は、池をあふれた水の、絶壁に懸りて壮観のよし、袖引きとむる風物のすべてを、遺憾なから皆捨てて、野麦嶺にかかる。

嶺は乗鞍の脈にて、いと高く、巨樹欝蓊うつおうとして清翠滴り、篠竹は林下をまとうて、迂曲したる道を進めば、ここにまたコマドリ鳴きたちて、その澄み渡る声を聴くと、もう何とも言うことのできぬ美感に打たれ、感興胸をおどらせつつ、幾度か立ち止まりつつ嶺頂に登る。頂は坦平にして篠竹密生し、小沼ところどころにあり。折から冷風吹き至り、仰げは西北に雪を流した乗鞍岳は、雄々しく突起しておる。山容残雪、花も形も美しく、目に近き夏の緑に配した雪の山、画趣は泉のごとく胸にあふるるも、これを写生することはできぬ。深き印象を頭脳に刻みてここを去る。

飛信の境に至るに一大休憩所あり、入りて携え来たる行厨こうちゅう[弁当]を開きて午餐す。

亭婦篠竹のタケノコを供す。美味なり。亭婦は六十に近く太りてたくましく勇者のごとし、いたって饒舌にして、その語るを聞けばこの嶺は冬期より早春にかけ、信州より飛騨に越す唯一の嶺にて、十一月頃より雪は降り積もりて、旅人の通行はなはだ困難なるより、県はここに旅人のために休憩所を設け、亭婦は番人として、県より補給を受けているとのこと。

そしてこの亭婦は、若き時代より、今もなお非凡の力量と、非常の豪胆で、三十歳のとき、この嶺にて大の男の山賊、四人を一人で相手にして、谷間に蹴込みしことありてより、この付近に名声高く、誰いうとなく野麦嶺の鬼婆々と言われ、物騒の嶺も平穏になったとのこと。されど心は大の正直もので情深く、年々幾人かの雪に悩める旅人を救いしとのこと。かかる勇婦も愛にはもろく、一夜宿貸した優男に焦がれ、今の恋夫はその男にて、今は高山に使いして不在とて痴情の誇りまで聞かせられたのである。

婆々の話しに時を費し、急ぎて嶺を下る。巨樹蓊欝たる間、谷川の流れて濃緑の苔蒸したる間に、こぼるる日の光に黄緑を印したるものは、われらがしばしば物語りて、かかる自然に出会うたら是非描いてみたしと、長い間の望みであった。今眼前にこの現象を見ては、けさ定めた約束を破らざるを得ない。ままよ日は暮れても何とかなるべしと、この間に三脚を立てて一葉の水彩画を作る。

ようやく嶺を下りて奈川谷に出づ。この谷を流るる川は、先に探勝したる梓川の小流である。ここは飛騨の谷といささか趣きを改め、山一帯は花崗岩にて、川原も白く、道も白く、白は緑に映じ、緑は白に映じて面白く、急がざる旅なれば滞留する境である。

奈川谷の奈川村、わが頭脳に浮み出でしは古き記臆である。われはしばらく同居せし親しき友にて、その友は奈川村が故郷にて、互いに故山の風景を物語りするとき、いつも奈川谷の風景を誇ったことがある。この友の家は奈川に名ある古家。時は暑中、あるいは帰郷しているにや、道のついでなれば訪問せんとて、その家に至る。家は大きく、美しく、家の人々はわが名を聞きて、友より聞き知り居るにや、心を込めた優待である。美しき若き娘は、友の顔によく似てあれば、妹にてあるべし。尋ねしわが友は、都にありて帰らざりしとのこと。とににもかくにも是非御上がり下さいとのことなれど、友は不在にて、一面の識なき家に宿かるも心苦しく、引き止めらるる袖を払うて、この家を去る。

谷は開けて梓川の流れを眼下に眺め、疲れし足を無理に運ばすれば、空は曇りて小雨降りしきり、小雨の中なるこの境の、自然に遠近おちこちありていと麗し。ここは是非再び旅行する好地と、心に記してこの夕、名もめでたく松竹という山村に投宿。

葉柳や茨堤に牛の笛
葉柳の糸を崩さぬ真昼哉
散る栗の花退けて汲む清水哉
汗臭き人とすれ会ふ夏野かな
夏旅や友の古郷訪ふて見る
栗咲くや鬼婆々の住む嶺の茶屋
茂にも聞く駒鳥や野麦越し
雲を産む野麦峠や篠の花
恋語る茶屋の婆々や栗の花
雪解や乗鞍岳の肌見ゆる
馬の脊のすれすれ行くやねむの花
合歓木咲くや出水に落ちし崖の上

七 [7月14日(木)奈川村松竹~松本町]

滞留を許さぬとなると、袖引き止むる絶景に会するものにて、この松竹山村の風致は、まだ会せざる妙景である。梓川は開けて流れ、形容美しき山は遠く近く、巨柳茂れる白き川原には、所々に水車動き、茅舎はほどよき位置に配されて、黄に燃える麻畑、新緑の桑畑。村より村に通う路は白く明らかに、土橋あり堤あり、堤に沿うて蛇籠を配し、そこにも巨柳垂れて、川風に葉を翻して、青緑に発色し、遠き川原に群れ集う牛馬、頭上げしは馬、頭下げしは牛である。雑草負うたる牛三頭、ゆるく土橋の上を過ぐ。牧童これに鞭して静かに歩み行くさまは、実に平和である。牧童去りて桑籠負える乙女過ぐ。

山々は白雲を送り白雲を迎え、川原の遠近おちこちに奏づるカジカの妙音は、山ホトトギスの声に和して至る。これわが宿なる二階より望みし朝の光景である。宿もわれらを優待して、一つの欠点もなきわが理想郷である。されどわれらが胸には、一つの暗雲むらがりて、何となく気の引き立たぬので、それは嚢中僅かに残る旅費である。

今となりては、宿の優待を受けるほど、それだけ苦しいのである。山里の割合に、茶も上等、菓子も上等。はつらつたる川魚も、膳に上りて皆うまし。仙骨にも人知れぬかかる心配のありて、この宿を出発することとなった。

すべての用意を落ちなくなし、藁履も着けて宿の払いを問えば、財布をすっかり底をたたきて、十一銭五厘を残すのみであった。ホッと気息を入れて轟く胸を落ち着け、宿料のみを払い、茶料を置かずしてこの宿を駆け出し、宿の見えずなるまで、大走りに走ったのである。

十一銭五厘は何故に残したのである。それは「ヒーロー」という煙草を求むるためである。われらの携帯する器械は、人々に目を注がれ、至る所において、名称と使用を尋ねらるるのである。初めのうちは、いちいち説明して教えたが、ついにはうるさくなりて、飛騨の旅舍にあるとき、ある人の尋ねに答えて、画架を「ビンテツ」、三脚を「プラン」と教えた。不思議の名であるから、ただ「へー」と言うきりにて、使用法は尋ねなかった。それよりは、これをよき事にして、真面目になり「プラン」「ビンテツ」とばかり教えたのである。

この名称は、意味ありて付けたのでなく、あり合わせた鉄瓶と洋燈とを転倒してこしらいたのである、今も道行く人に尋ねられし故、「プラン」「ビンテツ」と教えた。

道は梓川の断崖を横切り、大白川を渡り、最初分かれて右したる、稲核村に至りて会した。それよりは旧識ある道を、再び歩すことになった。

最初ここを通過せしときは、山野は淡緑色の若葉にてありしが、今は濃緑色となりて、土用前の天はよく晴れて、微風だになし。草も木も、真昼の光を浴びて首うなだれている。菜なき握り飯を木陰に喫し、道を急ぎて波多官林の松林に入る。一路坦平なれど大いに疲労して、なかなかに急ぐことはできぬ。平和を歌う春蝉の音は絶えて、夏の炎熱を鳴く蝉は、耳を聾するばかりである。

ここを出づれば展望広濶になる、松本の平野、満目緑田と化して、その間を通ずる白色の直路は、やや西に傾く日を浴びて、焔立ちのぼり、暑い暑いとともに叫び、流れ落つる汗をこぼした。それも無理ならぬ次第にて、この炎熱の中を、フランネルのシャツと綿入れの胴着、綿入れの着物に、厚き布の合わせ羽織をまとうているのだ。いかに仙骨にても、冬着のままにて、日陰なき炎天の道を行くのであるから、さながら釜中の魚である。焦熱地獄である。流汗は厚き冬着を通して、松本町に入り、待ち詫びた「ヒーロー」煙草を求む。これを紙巻きとして、久しぶりにて口中を喜ばせた。

人々は私語して、われらに指差し、小児は争うて付き来たる。われらの奇しき旅装を見物せんためである。望月氏にはかねて報じおきたれば、市中の人々に視線を注がれつつ、氏の家に着したのは午後三時半頃である。

内閨ないけい[奥さん]の驚愕ひとかたならず、しばし無言にてわれらを見つめ、唖然として、まぁまぁと言うのみである。内閨は、単衣ひとえ二枚持ち来たり。早速脱ぎ替えられよとのことで、冬装よりたちまち夏装の早替わり、吉田君は曰く単衣でも居らるるなあー。

松高き道はほてりて蝉の声
夏草の中にまじるや花の彩
蜩や横日に長き森の影

八 [7月14日(木)松本町]

望月氏には、折悪しく宿直の日で不在、内閨は万事に注意して、早速湯浴みされよとて、われらはかつて使用せしことなき、垢すり、石鹸など出だされ、案内されたる湯屋に出かけた。

松竹村の宿払いに、残したる十一銭五厘の内、十銭は煙草に替え、残る一銭五厘は、一人分の湯代にも足りぬ。いかはせんと長髪の頭をふたつ合わせて、さまざまに工夫を凝らしたが、よき知識も出ない。湯に入る替わりに水に入りて、湯に入りしごとき態度をなして、ごまかさんかとは、余が絞り出せし名案である。

吉田氏の案として紙幣が大きくて細かきものがなき故、湯銭を貸して下さいというのだ。これは妙案。されど借りに行くものがないから、棒を折りて抽選となし、吉田君の負けとなり、長髪をかきながら出かけた。湯銭の四銭を借り出したのは、鬼の首でも取ったごとくに喜び、しっかり握って来て、早速入浴することができた。

浴客は少なく、湯は美しく、使用に慣れぬ石鹸をぬりつけ、白き泡を頭の上から足の先まで満たし、花のごとき美香を発すれば、流しては塗りつけ、塗りつけては流していると、氏の家より使いありて、早く帰られよとのことである。早速上がりて体をぬぐい、衣をまとうて外に出づれば、夏装の身も軽く、美しき香りは肌に残り、夕凉の風に薫らせて、静かに歩せば、体も新しく衣も新しく、さては心まで新しく感じて、家に帰れば、裹庭に噴井ありて、美しき水は音を起こしてあふれている。水までがウェルカムというように聞こえた。

望月氏は帰り居りて、大いに侍ちわびしごとく、早速二階に通された、二階というは氏の書斎にて、内閨のたしなみにや、香りゆかしき百合の一本は挿されて、雫も滴るごとく新し、床には淡泊なる花鳥の一軸かけられ、青味を帯びし畳表すべてが凉しき夏座敷の光景である。青簾越しにアオギリの線動き、噴井の水音は、ここにももれて凉し。氏も内閨もパッチリとしたる凉しそうな単衣まとうて、待遇ぶりに誠こもれり。

別して内閨とは、このたびで二回の識で、浅き交わりであるが、百年も前の知己のごとく、心の奥まで解け、主客の間に隔てなく、すべてが家族的であったのは嬉しかった。氏もよき方なり内閨もよき方なり。

佳肴は運ばれ、美酒も運ばれた。われは半杯の酒に顔面紅――、否このときは、ライトレッドにエンジアンレッドを混したごとき色を呈し、一抔飲すれは倒れ、二杯を飲すれば自失するという、酒に縁なき意気地なしであるが、吉田氏は嗜む方にて、殊に久しき間の仙食に痩せたのであるから、大いに得意がり、機嫌うるはしく、エンジアンレッドの顔、面に笑いを現し、左手より杯を離さず、右手より箸を離さず、食しては飲し、笑うたり語ったり、興多きこの旅行の長物語りは、なかなかに尽きぬので、望月氏は面白し面白しと聞き惚れている。

日は飛騨の山に沈みて、簾を巻けば、凉風入り来たりて酔い顔を吹く。望月氏は宿直なればとて、中座にして出かけることとなり、この部屋はわれらに占領さするのであるから、自家にいるごとく、心安く休養したまえと言いつつ出かけたのである。

夕餐後、長く伸びて寝ながら物語り居ると、茶は出る、菓子は出る、煙草盆にはいつも火の消えたことはない。今夜は疲れたれば早く眠ることと決め、旅行以来初めて蚊帳の中に入る。夢は遊ぶ飛騨の山中!!

師の宿の心安さよ夕凉み
噴き井戸の滴り聞くや夕凉み

九 [7月15日(金)松本町]

噴井から落つる水音は、絶えず清響を送りてわれらの部屋に聞こえて、町にあるとは思われず、山中の宿りのようである。安神の眠りも今覚むれば、雨戸をもれた朝日の光は部屋を輝かせている。いつ頃運ばれしか、枕元には、火を埋めたる煙草盆が置かれてある。

眼をすりながら、吉田氏を覚して寝ながら一喫して起き出ずれば、お目が覚めましたかと優しき内閨の言葉である。何時頃ですかと尋ぬれば、十時に近しとのこと。非常に寝過ごしたりと噴井に行けば、澄みたる美しき水はあふれて、冷たきこと氷水のごとく、顔を洗い頭を冷やし、肌全体をぬぐえば、心身ともに爽快を覚えた。仰げば夏の空の高く澄みて、今日もまた暑気酷烈ならん。

室に帰れば掃き清められて、茶も梅干しも運ばれてある。われは茶を嗜む性なれば、五椀を喫す。盧仝ろどう[古代中国の詩人]ならねど、茶を喫すると、

一椀喉吻潤、二椀破孤悶、三椀捜枯膓、惟有文字五千巻、四椀発軽汗、平生不平事尽向毛孔散、五椀肌骨清、六椀通仙霊、七椀喫不得也唯覚両腋習習清風生、蓬莱山在処、玉川子乗此清風欲帰去‥‥‥

のような感がある。

日は照りて風なく暑し。単衣になりてよりさらに暑さを感じ、食後写生に出づ。昨日までの冬装旅行を思うと、今日の単衣は実に嬉しい。日に火照る。街衢がいく[まち]を幾つも折れて行くと、天に聳立している天守閣が見ゆる。それを目的に行くと、高き石塀をめぐらした城廓に出づ。

城廓の周囲はほりにてここにはハスの葉が繁茂して、美しき緑の葉の面には、銀色の珠玉を転ばしている。今は新しき葉のみなれば、これに花咲きたらんには、いかに麗しきことであろう。蓮華には清香深きが、葉にも清香ありて、炎日を浴びて香るのは心地よく、西方の浄土には、清泉湧き、蓮華は不断に開きて、凉風起こるとかいうが、今、蓮池の畔に立ちて、深く注視すれば、如上の感が胸をついて起こる。蓮は仏花としてめでたく、雅花としてめでたく、文人墨客は愛好して、詩材画材となす。高潔なる泥中の白蓮や、汝は汚泥より生まれて汚泥に染まず、その清き心には、人々を感化なさしむのは少なくない。われは蓮に感じつつ写生をなす。

日は直射して暑気はなはだしけれは、歩を移して堀畔をたどると、天守閣は松林の中に現れ、垂柳緑陰深き中に入りて、天守閣を写生す。天守閣は昔のままにて、屋根石塀白壁などは青苔蒸し、蔦蔓まとうて古雅愛すべし。

正午を過ぎて、いささか空腹を感じたれば、凉しき料理店に行きて、昼餐をなさんと言い出でしとき、心づきしは昨日のこと‥‥‥われらの所持する一銭五厘は、湯を浴びることもできぬ。昼食の料に足るはずなし。昨日湯代を借り出した虚偽の口上は、妙案に失して妙案ならず。大なる紙幣所持致すわれらは、再び金借の口実がない。虚栄心にもほどがあるので、今更一文無しであるから貸して下さいとも言われぬ。つまらぬことを言い出したため、今は大いに悔いとなり、昼餐を喫すために帰る。

飯の箸を置くや否や、また出掛けるのである、内閨は誠を面に現し、慈母がその子に注意するごとく、いかにせわしい写生なればとて、この日盛りに外出するは身のためならず、景色は逃げるわけでもなかろうから、ゆるゆる休養して、夕凉を待ちて出でよとのことである。されどわれらは、人々の思うほど暑くも感ぜぬのであるから、しばらく休みてまた出かけたのである。

この夕べ、望月氏は友を携うて帰り来たりて、この旅行に出来し絵を見せよとのことにて、油絵、水彩、鉛筆画を開きて、この部屋は絵の展覧会場となった。両三日氏の家に休養し、「ヒーロー」を巻きては喫し、午前に出かけては正午に帰り、日頃の疲労をすっかり癒したのであるから、ここを出発することに決めた。 

[明治31年7月16日(土)]

出発の朝であった。望月氏は注意を払うて、冬装は後から送るべし、粗末なれども、この単衣を着て帰りたまえと、氏の単衣を借りたのである。握り飯は内閨の注意、用意も調うていざ出発というとき、望月氏も内閨も、口を極めて炎熱の中を徒歩するのは身に害あり、松本より上田までは馬車の便あり、馬車にて帰りたまえ、馬車の停留場は何々町であると、詳しく教示された。そのときは、吉田氏と顔見合わせ、苦笑を漏らしたのである。大紙幣所持のわれら、ここより徒歩して嶺を越え、十数里の道を急ぐのである。

十 [7月16日(土)松本町~上田町]

松本にはわが旧師望月氏のあれば、いかに旅費に欠乏するとも、これを補うは易々たることなり。心丈夫に松本に着して、氏の家庭を驚かせしが、前後の考えもなく、湯銭のことより、かねて頼みし大計略は失敗に終わり、松本銀行においても、小紙幣に替ゆることのできぬ大紙幣所持という大虚栄心、大名誉心のもとに、痛くなき腹を痛ませ、教示されたる馬車の停留場、道順など真面目に聞き、馬車にて帰るという虚偽の態をなして出発すれば、氏は門まで送り出で、この町を突き当たり、右に折れて行くのと教えられし道を、止むなく進み、氏の姿隠るると同時に、道を転じて本道に出で、徒歩して松本を出づ。

「ヒーロー」を紙に巻き、吉田氏は、日光にて求めしという自然木のパイプに挿して喫す。このパイプを、氏は大いに愛して、鼻の油を付けるやら、着物にてぬぐうやら、わが子のごとく大切にして、日に日に艶の勝りて、光沢の出づるを楽しみ、寝るも起こるも座右を離したることはない。今も取り出だしぬぐいつつ、松本平も過ぎて、保福寺嶺にかかったのである。

この頃の天気続きにて、今日の暑熱は非常のものにて、路傍の草も木もしなれて、蒸し暑き気を吐いている。森には蝉鳴きたちて、一層の暑さを感ずるのである。

折から松本の方面より、二頭立ちの馬車は、ラッパの声とともに疾走して来て、われらの前を駆け抜けた。車の中の人々はわれらを見て、この炎天に徒歩は御苦労様とでも言うような顔をしている。暑い暑い迂回した峠道。木陰に休憩し、岩間の清水を喫飲し、流汗道を染めて、ようやく頂巓に達した。わが来し方を回顧すれば、われらの通過せし、飛騨の山岳には一点の雲なく、山頂より流れ下る残雪は、やや消えたれど、見覚えし山容は、どこで眺めても知ることができる。凸状をなして、聳立する劍峰を幾つも持てるもの、馬の背のごときものの連峰続きて乗鞍、阿房、焼岳、硫黄、穂高、鎗ヶ岳、笠戸の諸岳は、巍峨として峭立し、呼べば答うるごとくである。

そして彼らの、山岳が作りし水は、断岩、深谷、渓流をなして、われらはその境を踏み破ったのである。この間の風物は、われらに教えて、彼らよリ得たる新知識と、興多かりしことよ、今われらは保福寺嶺頂に立ちて、彼らに感謝し、彼らと告別するのである。

飛騨境の諸岳よ、汝のほほ笑みてわれらを迎え、汝の愛護によりて、無事旅行を果たしたのを重ねて感謝す。さらばさらば飛騨の境よ、われまた神の愛で子となりて、汝の境に再遊するあらば、汝またさらに愛護をたまえ。さらばさらば、と深き感慨を胸に満たして嶺を下る。

開けたる北方は、わが故郷をおける千曲川高原である。嶺を下れば展望皆緑田、一直線の坦道は上田町に通じて、この辺り塩田平という。

炎天なれはのど乾くことしきりなり。田んぼの流れは汚水にして喫すべからず。一銭五厘の茶代あれば、いずれか美しからぬ茶舖に休慰して、湯など得んとてようやくにして路傍一小茶舖を見いだす。入りて湯を請えば、老婦ありてわれらを注視し、いまだかつて入りしことなき異人と思うてか、われらに茶を出して家を出でぬ。しばらくにして帰り来りて、今求め来たる茶菓子を供さる。運の悪きときは、どこまでも目的に反して、かかることのなきために、小茶舖を特に選みし、特に選みし小茶舖は、かえってかかる心痛をわれらに与えたのである。

茶菓は上等で、一銭五厘の茶代を知って、これが食わるるものでなし、幾度か茶器に湯をつがすれば、老婦は供せし菓子を勧む。心苦しければ茶の甘きはずはなし。十分茶を喫してのどを潤し、いざ出発とて手早く荷物を背負い、余は一銭五厘を茶盆に響かして駆け出した。続て吉田氏も走り出し、一丁ほどは気息をもつがず、一生懸命に走ったので、ようやくホツト気息を入るると、吉田氏は青くなりて、困ったと言うのである。われは氏が、にわかに病気でも起こしたではあるまいかと思うた。病気ではなかった、今の茶舗にて、あまりにせき込みし故、わが子のごとく宝のごとく大切にして、平素肌身を離さず、座右を離さず愛しておった、自然木のパイプを、今の茶舖に忘却して来たのである。捨てることはできず、さりとて取りに行くも何となくきまり悪しく、されど大切の愛品であるから、取りに戻ったのである。その時の氏の顔は、まだ余が頭に印象されている。

この日の徒歩十六里。午後五時上田町に着く。友の家に一泊して翌日自家に帰る。出発のときに咲き乱れたるカキツバタは枯れ果てて、白百合の咲きて濃厚なる香を吐いておった。(完)

[明治31年7月18日(月)祢津村帰宅]

削りなす岩は茂をのぞきけり
風もたぬ葉柳は瀞に沈みけり
将軍の笑みし様なり夏の山
河沿ひの道にこぼるやねむの花
風雅なり馬背にねむをおりてゆく
谷越して駒鳥の啼きけり離れ山

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