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第7章第3節 新聞こども欄スタート


児童雑誌を参考に構成か


『富山日報』は明治42年10月7日の1面に「こども欄」を新設する。紙面の中段に子どもと犬をあしらった図案が置かれ、こんな序文がある。

『富山日報』明治42年10月7日1面

こども欄を今日から設けました、成可く兒童を本位とした讀物を蒐める計劃ですが當分はさう充分なものは出来ますまい(一記者)

『富山日報』明治42年10月7日1面

一記者とは大井冷光のことである。入念な準備をしていなかったのか、自嘲気味の書き出しである。第1回は、

  • お伽噺「鸚鵡の太郎」(一)きねんど

  • 事物起源

  • 少年時事

  • 少年笑話

の4つからなる。全体で1100字の分量があり、1面のうちの約6分の1を占めている。きねんどとあるのは布村重次郎(杵人)の[4]筆名で、残りの3つは冷光が書いたようである。

事物起源は「新聞」「郵便」「無線電信」などの歴史を紹介するコラム、少年時事は「編集後記」に近いもので全国ニュースや身の回りに起きた出来事を書いている。少年笑話は文字通りの小ネタであり、のちに読者から募集するようになる。

こうした構成は、『少年世界』や『日本少年』など児童雑誌を参考にしたものだろう。

こども欄は明治42年末まで1面ないし3面で計54回掲載される。翌明治43年からは「少年欄」と変更して4月末までさらに約60回続く。7か月間で計110回余り掲載されることになる。

児童文化が盛んになりつつあった明治時代後期の日刊紙で、こうしたこども欄または少年欄が設けられた例は他の県にもあるのだろうか。

明治時代の子ども新聞といえば、久留島武彦の中央新聞日曜付録『ホーム』(発行地・東京)がある。これは明治39年11月3日に創刊され、週刊で第64号(明治41年1月)まで発行された。カラーページもあり、52号までタブロイド判8ぺージ立てだったという。その久留島は、大阪毎日新聞の記者だったころ、明治34年3月21日に最初の子供欄「幼稚園」を執筆し、明治35年から隔日掲載で「動物スケッチ」を連載したという。[5]

冷光は、明治42年5月に巌谷小波と久留島武彦と出会った。わずか3日間だったが、そこで児童文化運動の最先端に触れた。『少年世界』など児童雑誌の編集についても話題に上ったことだろう。巌谷も久留島も新聞記者出身である。巌谷か久留島からおそらく「冷光君、雑誌編集は無理かもしれないが、まずは新聞に子ども欄を設けらたどうだ」「私も新聞記者時代に子ども向けの新聞をつくった」ぐらいの助言があったのかもしれない。

『富山日報』こども欄のトップ記事である「お伽噺」は、きねんど「鸚鵡の太郎」11回に続いて、すが子「叶わぬ願」4回、あさぢ「馬と五重塔」1回のあと、いよいよ冷光の出番である。10月24日からから12月13日まで「楓の兄妹」「狐の提灯」「雀の宮」「雨降太郎」の4つの作品計38話を発表した。

『富山日報』こども欄に冷光が書いた創作 1909年(明治42年)

10/24~11/10 お伽小説「楓の兄妹」(15回) 先祖伝来の大カエデの木を守る兄妹。幼い時に母を亡くし、家計のために渡米した父の帰りを待つ。兄は山で迷うが、助けた山鶏に助けられ、家に無事戻る。そこへ音信不通だった父から手紙が来る。11/11~16 お伽噺「狐の提灯」(5回) お前の家の裏に狐の火が見えると友達から言われてケンカした臆病な少年が、勇気を出して探検する。火影の正体が分かり、その場で友達と遭って仲直りする。11/20~12/2 お伽噺「雀の宮」(10回) 山に入って小鳥のヒナ2羽を助けた2人の少年。2人は1年後、金色の雀に育った2羽といっしょに出かけるが、途中で姿を見失う。2羽を捜して不思議な森に入ると、女神と出会う。女神はヒナを助けたお礼に金色の袋と銀色の袋を2人に贈った。12/3~12/13 お伽噺「雨降太郎」(8回) 雨が嫌いな少年が、雨宿りのため地蔵堂に入ると、地蔵が雨嫌いを直すために薮の中にある笑い傘を手に入れたらいいと忠告する。少年は途中で助けてやった小犬とともに藪に入るが、小犬は地蔵に早変わりする。地蔵は少年の優しい心と勇気を称え、笑い傘を渡す。

高岡新報の社友で文芸評論家の高田浩雲(庸将1878-1945)は、「中越文壇の概観」を寄稿し、その中で冷光の取り組みを評価している。

さらに四十二年の壮者は、既に一個の人である以上其子孫の養成に留意し即ち年少作家の養成である。此役は富山日報のこども欄に依って顕はれた――小品文の作家は年少者であらうが而も青年の部に属するべきだ。お伽文學の作者は全然少年即ち子孫で、將に次代の人物である。故に直接文壇の交渉は受けないが、お伽文學として一個の面目と領地を開拓した事は、特に注目すべき一事実である。

「中越文壇の概観」(上)『高岡新報』明治43年1月2日

高田浩雲といえば、冷光が明治42年6月に『越中お伽噺』を上梓した際にも『富山日報』で批評を書いたことは既に記した。浩雲は明治43年3月11日、富山日報社に入社し、冷光の同僚となる。

[4]布村杵人、本名重次郎。大正7年『山荘独語』を著す。序文に井上江花・久留島武彦・大井冷光・舟木香洲・横山白門・滝本助造・原迷・黒田兎毛・蜷川酔眼光・奥村岳人・早崎斜帆が書いている。白門の記述によれば、横山が『富山日報』に在籍していたころ、下新川郡入善の在で小学校の教員をしていたが、その後、男体山の頂から寄稿してきたという。そして船峅の森林測候所に勤めるようになったという。

[5]大島十二愛「新聞記者時代の久留島武彦と子ども向けジャーナル―中央新聞『ホーム』のデジタル化保存と分析を中心に―」『共立女子大学文芸学部紀要 』57号(2011年)。

(2018.06.11)

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