吉田博_関連重要文献資料〔その1〕
吉田博に関連する資料のうち、注目しておいたほうがいいものをまとめました。少なくともこれだけに目を通すことで理解がかなり膨らみます。さらに詳しく調べたい方は、やはり図録(生誕140年展か没後70年展)にある参考文献を参考になさってください。
中村不折「裸体画と画題」『日本美術』(明治40年)
裸體畫及畫題 中村不折
「神に属するものは神に、王に属するものは王に返せ」そしてそこに初めて宗教の發達を見、國家の安全を得るのである。その如くに藝術も或意味に於て獨立が欲しい。「藝術の爲めの藝術」といふ言葉は、あながち反道徳の聲とのみ聞く必要はあるまい。廣く一般藝術に亘りては、學者ならぬ予の素より知る所でないが、繪畫彫刻にありては、裸體研究の必要缺く可からざるものであることは、東西の歴史に考へ、予自身の経験に鑑みて、夙に予の確信する所である。今から四五年前までは、展覧會などに裸體畫の出品があると、警視廳の役人は直ちに駆け來りて、布片を以てそが腰部を纏ひ、或は別室に追ひ込み、甚しきに至りては、撤回を命じたことさへもあったのである。其度毎に我等は血涙を呑むで其命に服した。然し乍らそれに屈して人體研究を捨てやうとは、夢更に思はなかった。否々飽まで我意を貫徹せうといふ決心の度が強まるのみで、何時かは藝術の爲に藝術の存在する日の必ず來らむとは、當時我等が信念であった。
今春博覧會に、予は「建國剏業」と題する理想畫を出品した、それはいふまでもなく裸體畫である。其時予は審査官の顔ぶれに見て、希望は繋いで居たとは云ふものゝ、猶一種不安の念を抱かざるを得なかった。處が容易に鑑査に入ったので、予は當時窃に是等の審査官に對して、感謝の念を致したのである。夫れから又世間の多數は案外にも之を歓迎して呉れた。素より美術家が世評を顧慮してはいかぬ。予も今まで人の批評などは餘り念頭に置かなかったのであるが、偽りの無い處此時ばかりは予の心中一種の喜びを禁じ得なかった。然るに圖らざりき、當初深くも意に止めざりし「建國剏業」といふ圖題が仇して、某々有力家の、罵倒を受け、甚しきに至りては、裸體畫そのものまでも排斥せられた。殊に奇とすべきは、此等の反對論者が、何れも古くから美術通を以て自任せる人、又は文藝美術の評論に筆とる人なので、予が胸中は驚きと悲みとに満ちて、思はず數年前を回想したのである。鳴呼藝術のための藝術の日は未だ遠い、裸體畫が容れられない限りは、其の國の美術は遂に發達するの期が無い。
予は再び云ふ、裸體を外にして、繪畫彫刻は其光なしと。
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【編注】『日本美術』明治40年11月。中村不折(1866-1943)は、太平洋画会所属の洋画家で書家。吉田博より10歳年長で黒田清輝と同い年。《建國剏業》は原始の時代をイメージした裸体群像画の大作で、東京勧業博覧会の洋画で第一等。
吉田博「けれども私は自然を崇拝する側に立ちたい」『写生旅行』(明治40年)
かかる主張によって察するに、ホイッスラーはだれが何と言おうが一切頓着なく偉常なる自己の見識に頼って、まるで世間を踏み付けにしていたということがわかる。その行為の批判はともかくとして、美術家はこれだけの見識を持つべきである。あるいは彼と反対の見識でも彼のと同じ強さにおいて保持しなければならぬ。ホイッスラーは自然を尻に敷いてしまっている。けれども私は自然を崇拝する側に立ちたい。態度は同じでないけれど、しかし私の考えといえども、ただホイッスラーと言語の上の差のみで、しょせん帰着するところは同じであるまいかと思う。
また思うに、自然は決して画家のためばかりにできたものではない。見る人の心持ちと場合とで、同一物でも感ずるところを異にする。けれども美の方の目から見ると、すべての物が時間々々種々なる変化を示すところに非常な面白み、うまみがあるので、春面白くなかった所でも、夏大変に興味ある所もある。昼前何でもなかった所でも、夕日を浴びて非常な盛んなものになったり、汚い乞食も日向ぼっこしている間にすてきな画趣を呈したり、船中の客がことごとく酔って、何も見ないで苦しんでいる時にも、自然は波を逆立て、荘厳なる姿を表している。一つのものを大変に盛んに感ずる人もあれば、何もそれについて感じない人もある。自然ほど変化に富んだものはないし、自然の力ほど大きいものはない。人間が何と言おうと、騒ごうと、動かすことも、届くこともできない。かかる場合に、画家は自然と人間との間に立って、見能はざる人のために、自然の美を表して見せる天職である。画家がどれほど立派なものを作っても、自然の偉大にようやく近づき得るだけで、自然と一致する近さまでは到底寄り付き得ない。これがつまり、美術が年月とともにいかに進歩しても、いかに傑作が出ても、決して頭のつかへぬ所以である。ミロのヴィーナスといえども、自然の美にわずかに近づいたというばかりで、決して自然と一致する美の極限であるとは信じない。これから先いかに絵画や彫刻が発達しても、他の方面からどこまでもこれに近づくことができて美術は世のあらん限りいつまでも進歩して行くものであると思う。
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【編注】「日本の日本画及び西洋画」『写生旅行』(明治40年9月19日の発行)p348-366の中の一部分抜すい。太字は編者(引用者)による。米国人の画家でジャポニスムの巨匠と言われるホイッスラー(1834-1903)の講演録『Ten O'clock』を吉田博が翻訳して引用したあとに続く一節。現代語表記に直した。『写生旅行』は。帰国後の吉田博の絵画に対する考え方がうかがえ、吉田博研究では必読書。
霞事件論評_『萬朝報』(明治41年)
美術界の悲劇 掬汀生
彫刻家北村四海氏が「霞」と題する自作彫像を破碎したる一事件は、藝術に心を傾くるものに、甚大悲壮の感動を與へた。確信ある藝術家の作品は、大抵心血の結晶體である事は言ふまでもないが、夫を作者自身が打碎くと云ふは、並大抵の出來事でない。彼が此非常手段を執るに至った動機は、情實に依って輕重さるゝ美術審査の宿弊を一洗して、公平なる鑑査を爲せ度い爲に、彼等審査官を覚醒すべく苦心の作を犠牲に供したと言て居る。然う聞いて見ると何となく悲壮の感が起る。又深く作者の心状を味ふと、名状すべからざる、哀感が生じて來る。予が此事件を目して、悲劇と云ふは此故である。
悲劇は個人と世界との争ひである。別言すれば數多人格と小數人格との闘ひである。少數人格―若くは個人―が一代の運命に反抗して、其豪邁卓犖の意氣を徹さうとするところに、衝突の火花が發するのだが、其火花が時代を焚く焔とならずに消え失せる。悲劇は大概斯うして起るやうに思ふが、随って悲劇を起す人物は、潔癖で感受性が猛烈で、豪邁の意氣あるものが最も相應しい。這回の事件を透して観たる北村氏は、何も此種の人物らしく思はれる。いや慥に夫に違ひない。
して見ると出品破壊に對する我等の問題は其行爲の善悪を論らふよりも、是れが感情性の藝術家に相應しい事か否かを檢するのが、悲劇の内容を定むるに恰當であらうと信ずる。尤も常識一片の、藝術家の心情を離れた眼で見たら、彼は輕擧の謗りを免れぬだらう。我等は常識論者の代表として、審査部長正木氏の言を聞いたが、氏は「審査は部長會議と總長の採決を経て始めて定まるので、夫が着手されぬ今日公平不公平の判明らう答はない。然るに單に審査不公平云々の流言に惑はされて、丹精を凝らした作品を打毀すとは、餘りに常識外れでないか」と言って居る。規則から割出した理窟では如何にも其通りであらうが併し悲劇の因て來るところは、其様な理窟で解剖されるものでない。此潔癖な藝術家をして斯る手段を執らしめた原因は何か、と斯う考へねば解決されぬ。愛子に等しき作物に向ひて、無惨の鐵槌を加へた心地は如何あったらうと考へねば、悲劇の眞價が會得されぬ。
昔者、希臘のペリクレース時代に、ファィデアスと云ふ名匠があった。彼雷神の像を作り、殿堂に安置して其出來榮えを檢せんとし、多時凝視して居る中に、忽ち畏敬の念に打たれ、我知らず自作を拝跪したと云ふ話がある。壮美と優美との差こそあれ、北村氏も雪膚滑らかに、恍然酔へるが如き少女の像に對した時には久時忘我の境に入って、槌持つ腕が鈍ったに疑ひない。併し反抗の焔は執着の縄を焼いて鐵槌魔の如く少女の頭に下った。大袈裟に言へば、理念が感情を壓したのだ。愛子の首は斯くして地に落ちた。輕擧か盲動か否々藝術家たる彼の價値は、俗物の眼に映る此輕擧の一點にある。
藝術家に尊むべきは卓犖不撓の意氣にある作物に現はるゝ、不可犯の氣品と云ふは、此の意氣の閃めく影であるが、夫が最も明瞭に現はるゝは、悲劇的の場合に勝るものがない、凡そ如何なる時代に於ても、革新の業と云ふものは、必ず悲劇の舞臺を透して成さるゝのだが、さて今の藝術界を見渡すと、此氣骨を有するものが甚だ乏しい。偉さうな事ばかり言ひながら、事實革新的の悲劇の出來ぬのは、此意氣此氣骨がないからだ。美術家は勿論、舌筆の達者な文學者を見るが可い。彼等が時代に反抗すると稱するのは、體よく人を貶しめる事である。進歩を期すると叫ぶのは、體よく與黨を持上げる事である。世間が解して呉ぬと憤って、百枚の原稿を焼棄する勇者が幾人あらう?況んや暴れる眼を拭はせやうとして、己れを犠牲にするもの抔は殆んどないと言っても可い。
常識外れを以て目さるゝ北村氏の悲劇は、多數藝術家の心臓に異様の鼓動を起させた。覺醒せよてふ音聲が耳に響いて、濁った血が俄に清むやうな心地をさせた。藝術的氣骨ある者は鈍れる腕を撫った。氣骨なき者も氣骨を有するの必要を感じた。苦心の作を破った彼の悲劇は、藝術界に大なる賜物であった。
審査員諸氏悲劇の眞價を解せりや、是でも眼の曇りが脱れぬとすると或は多数の北村氏が續出せぬとも限らぬだらう。博覧會の出品破壊てふ一事に對して、加ふべき罰あらば加ふるが可い。行爲の善悪は他に議する人があらう、予は悲劇の眞價が人を覚ます力あるを悦ぶのである。(萬朝報)
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【編注】『美術新報』明治40年6月20日。いわゆる明治40年の東京勧業博覧会で起きた霞事件に関する新聞評論記事。田口掬汀(1875-1943、たぐち・きくてい)。太平洋画会に所属する彫刻家の北村四海(きたむら・しかい、1871~1927)が、審査の不公平を理由に、自分の作品である大理石像《霞》を会場で自ら破壊した事件。北村は翌年の第2回文展に《『霞』の嘆き》(石膏像)を出品した。
第2回文展審査方針『讀賣新聞』(明治41年)
美術審査方針
小松原文相は昨日の第二回美術展覧會審査會席上に於て大要左の如き演説をなせり。
美術は古來我邦の特長とする所にして、文部省美術展覧會の目的は将來益々此特長を獎勵するに在るが故、流派の如何に偏倚へんいすることなく公平に審査を施行し、汎ひろく我邦美術の歩を圖らざるべからず。本會に對する當局の方針は素より毫すこしも變せざるを以て、諸君は克く其意を体し、流派團体の如何を問はず、公平慎重に其審査を遂げんことを望む。又鑑査の手續に於て、其議事を秘密とするの規定を設けたるは即ち議事の神聖を保持せんとするに外ならず。若議事経過の一端他に漏洩するが如きことあらば、委員全体に對し迷惑を及ぼすこと尠なからざるを期せざるべからず。次に裸體畫に關しては、其高尚なるものは假令身體を露出するものと雖も陳列するに支障なしと雖も、近時風俗を壊亂かいらんする文章圖書の發行益々多く、淫靡いんびの風漸く青年子女の間に浸透せんとする傾向あるは、教育上深く憂慮に堪えざる處なるが、美術家たる者努めて高尚健全なる美術的嗜好を増進せんことを期すべし云々。
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【編注】『讀賣新聞』明治41年10月9日。
「裸体画の不幸」『美術新報』(明治41年)
裸體畫の不幸
今回は内閣の交迭と共に、文部省は裸體に關する出品に對して概ね排斥の方針をとりしより、洋畫の側には之が爲め落選の不幸を見るもの多く、彫刻の方に於ては婦人全身の裸體像なる建畠大夢氏の『閑静』石川確治氏の『花の雫』新海竹太郎氏の『ふたり』の三點だけは入口右方に別に特別観覧室を設けて陳列することゝしたり。こは最初開會に先だち警視廳の臨檢を乞ひたる際、其意見に基づきて同會は裸體像の一分に布帛を蔽ひたるが、第三部長再び臨檢して、此は却って観覧者に悪感を抱かしむべければ、寧ろ其布帛を蔽ふには及ばざるべしとの意見を述べたれば、同會にては結局其儘にて此三點を特別室に陳列する事としたるよし。但し此室に入る者は優待券所持者及び美術學校生徒に限り、優待券にても學生と女子との入場は禁じ居れり。
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【編注】『美術新報』明治41年11月5日。
吉田博評伝『美術新報』明治42年(坂井犀水)
現今の大家[一]吉田博氏 坂井犀水
緒言
数年以前、元の五号館に、慥か太平洋畫會の展覧會であつたと思ふ、予の記憶に一つの印象を留めた畫があつた。今は其印象も朧ろげで、図取もハツキリとは覚えぬが、何でも夕霧の立ち罩めた初冬か晩秋の郊外の景色であつたと思ふ。東京近郊の霧の夕に興を覚ゆること深き予が、そゞろに自然のおもかげをしのび、其畫の前で佇立之れを久うした。畫題はすつかり忘れて了つたが、作者の名は吉田博とあつたのを確に記憶する、之が吉田博と云ふ畫家の名の予の脳裡に印せられた始である。其後ち予の境涯は幾変転を経て、都門春秋の展覧會季節に背いたことも数次であつたが、何時か、同じ五号館の展覧會で洋行中の吉田氏の畫が数点陳列せられた中に、月影淡く照らせる寺堂の如き建物の図と、月影鮮やかに流れて室に入るの図とが、予の興を惹いたことがある、予が吉田氏の名と共に思ひ浮ぶ畫趣は、繊巧な、和らかみのある自然の現象を捉えんと心懸けつゝあるところの熱心なる態度を有てるそれであつた。今から顧ふと予が氏の絵に初めて注意したのは、多分氏が第一回洋行を終へて帰朝した頃の様である。
氏が第二回の洋行後、其色調は華やかに旦つ強くなつた様に思ふ。洋行みやげの作品の夥しかつたことは、氏の勢力の旺盛なるを証するもので頗る世間を驚かした。技巧は数段の上達をなして、一昨々年の東京博覧會に「紐育ブルクリンの夕景」と「アルハンブラの景」とを出品して二等賞を得、一昨年文部省第一回美術展覧會に「ピラミツドの月夜」と「新月」(水彩畫)とを出して、後者は三等賞を受け、昨年の第二回展覧會に「溪谷」と「雨後の夕」(水彩畫)とを出品して、後者は二等賞の選に入り、今年第三回展覧會に「千古の雪」と「精華」と「雲表」(水彩畫)とを出して、「千古の雪」は再び二等賞の選に入つた。斯くして氏の我畫界に於ける位置は略ぼ決せられた。固より氏は年尚は若かく、意気も亦頗る盛んな人で、多望なる前途を有する畫家であるから、今後発展の極度は未知数であるが、我洋畫界の現状に於て、茲に新進大家の一人として氏を挙ぐるも、恐らく之を拒むものはあるまい。加之氏の半生は堅忍励精、立志伝中のもので、学ぶべきものが尠くない。
其略歴
吉田博氏は筑後国久留米藩士上田束氏の次男で、明治九年九月に生れた。四歳の時、廃藩後家計上の都合から一家を挙げて吉井と云ふ町へ移ることになつた。吉井は東京で云へば青梅位な田舎の町で、割合に豊かな處ださうである。筑後川に近く、屏風山などゝ云ふものがあつて、山川の風景面白く、氏は活発なる小学時代を此地に過ごしたので、出生の地たる久留米よりも、此町の方が故郷の如き懐かしい感がすると言つて居る。性來運動や遠足が好きで、紙と鉛筆とを携へて山川を跋渉して、到る處で寫生をした。山川の抜渉を好むのも、風景畫家として身を立つるに至つたのも、此地の天然の感化に由るものが多いのであらう。十二歳の時、一家福岡に移転して、此處に中学時代を過ごした。斯く転々移住したことが巡遊旅行を好むの癖を助長したのだと氏は言ふ。厳父束氏は文学思想あり。慈母は手先の器用な人で畫を嗜み、家兄も幼より畫を好んで居たので、氏は自ら夙く畫を好むに至つたのださうである。中学では学課の出來は普通であつたが、畫学は其最も長ずる處であつた。當時中学の教師たりし吉田嘉三郎氏(元中津藩士)が、其畫才を見込んで、氏を其養子としたのを見ても、早く畫に秀でたりしことが察せらるゝ。唯数学は其最も嫌ふところであつたが、負け嫌ひなる氏は兎も角人並みにやつてのけたさうである。旅行癖は年と共に長じて、暇ある毎に郷里九州の山野を駆廻つて彦山や阿蘇や霧島などの高山に攀ぢ登つたことがあるさうな。十八歳の時京都に出た。それは養父が嘗て畫を学びたる田村宗立氏(洋畫の率先者にして、今は日本畫家)の門に入らんが為であつた。留まること一年間、京都附近の寫生などをして居た。偶々三宅克己氏が寫生旅行をして京都に來たとき、其畫を示して東京に出でよと勧めたので、思ひ立つて東京に來たのが十九歳の時で、養父の先師たりし本多錦吉郎氏の指図に従ふて小山正太郎氏の不同舎に入つた。當時不同舎には、満谷、鹿子木、河合等の諸氏が居て、小山氏の不在のときなどは代つて後進を指導した。中川八郎氏などは稍々遅れて同舎に入つた仲間ださうである。
其頃不同舎の組織では、夏冬は人物、春秋は景色と云ふ風になつて居たさうである。既にして氏は学資欠乏てふ難関に逢着して、月々三四円の学費を以て支えざるを得ざるに至つた。其頃のことである、千駄木に三四人の同窓が一戸を借りて自炊生活を為し、交代して炊事番に當つたが、何事にも器用なる氏は最も飯飲の上手なりしと云ふ。かゝる苦しき窮乏の時にも旅行の癖は止み難く、時々野宿的寫生旅行を試みた。又或時は中川氏と共に人跡絶へたる日光赤城の山奥に十数日露宿して畫作に呪り、或時は丸山晩霞氏と共に浅間其他信濃飛騨の峻山高峰を跋渉したること数回であつたさうである。其後或職業に就いたが、其職業は常に旅行を要するものであつたので、始終到る處にて寫生をしたさうである。氏が斯く常に旅行をして、自然に親しんで、之を師としたことは風景畫家として氏の技巧を練達するに大なる裨益となつたのであらう。
ニ回の海外漫遊
明治三十二年、海外遊学の志願益々切になつたので、中川八郎氏と相謀り、先づ旅費と渡米後一箇月間を支へ得るだけの資金を借り、又予ねて外国人が好んで日本の水彩畫を購入するとの噂を聞いて居たので二人とも、自作の水彩畫を多く携帯することとし、東洋汽船會社の亜米利加丸に乗込んで、喜び勇んで横浜を解纜した。太平洋畫會派で冒険的私費洋行を企てたのは氏等が率先者ださうである。桑港に着して直ちにデトロイトに往つた。それはサムライ商會の主人野村氏の紹介にて同地のフリーヤ氏を訪はんが為めであつた。フリーヤ氏は非常に日本の美術を愛好せる富豪の一人で、ウィスラー崇拝家の一人で、多く其畫を蔵し、其他世界の名品を蒐集し、又頗る漫遊を好み、曾て我日本にも來遊したことがある。氏等が往訪した時は拾も旅行中にて不在、空しく二週間ばかりを待たねばならぬことゝなつたので、一日同市の地図を買求めて美術館の所在を調べて参観した。其時携へて居た氏等の畫を館長が見て、面白いとて賞賛し、展覧會を開くから一箇月間滞在せよ、費用は一切氏等に負担はさせぬからと勧めた。実は一箇月滞在すれば、嚢底全く空しくなる訳であつたのだが、兎も角勧められるゝまゝに滞留を承諾した。幸に之が氏等の運命を開く鍵となつた。展覧會中に畫が大分売れて収入のあつたのと、斯う云ふ工合にすれば畫が売れると云ふことも分つたので、出発前にはボーイでも硝子拭でも何でも労働苦役を厭はずやつて往かうと云ふ決心であつたのが、今はそんな無駄骨折はせんでもよい、畫を売つて往けば立派にやつてゆかれる。小さく小さくやつて往くよりも大きく大きくやつて往く方が成功すると云ふ秘訣を悟つた。それで其方法を以てボストンに行き、華盛頓に行き、遂に欧州に渡航するの資をも得て、先づ英国に到り、次で巴里に着したのは丁度一九〇〇年萬国博覧會の開かれた時で、博覧會には其前氏の出品して置た「高山流水」も陳列されて居た。
「高山流水」は氏の大作の一で、三十一年か二年頃の作である。横凡そ九尺位、竪凡そ四尺五寸乃至五尺位あつた。其畫に就ては面白い話がある。其頃氏は千駄木に住んで居た。畫が出來たが、室が小さくて適當の距離を隔て、見ることが出來ぬ。そこで其畫を六畳敷の室の天井に張つて、之を見るには皆仰臥して眺めたさうで、今でも友人間の一つ話しになつて居る。此畫を作るに就ては、最も場所の選択に苦心した。凡そ半年間も信濃飛騨の深山幽谷を探り巡つても、理想に適ふた處がなく、遂に小諸附近から長野方面を見渡した広い景色を描くことに決定した。頗る雄大な構図で、當時の我国の洋畫界に於ては、実に大胆な試みであつた。其時分は孰れも景色の一小部分を取つて畫く風があつて、そんな大きな景色を畫いたものはなかつたのである。畫成るや尠からず我畫界を驚かした。其畫は万国博覧會で褒状を獲た。仏蘭西人の間には「日本人にして能くもあれ程雄大の景色を纏めた」との評もあつたさうである。
それから獨逸、瑞西、伊太利等を歴遊した。伊太利に行く途次で、本国の友人より満谷、河合、鹿子木、丸山四氏の渡米すると云ふ報知に接し、米国に戻りて四氏に會合し、四氏は欧州に、氏等は本国に帰つた。それは三十四年である。二年の後、氏は再遊の企を為し、義妹ふじを女史(養父喜三郎氏の三女で、今は氏の夫人である)を伴ふて三十六年十二月二十八日に横浜を出帆した。氏は漫遊の目的を説明して『前のは彼の地の美術家が、今何をなしつゝあるかと云ふ事を観察したかつたのと、も一つは彼等の造した仕事に親しく接したいと云ふ願望で、彼の美術製作を観て之を智識の上に学ばうとしたので、今度は自己の畫家たる手腕を実際に養ふ為めに山川風土のさまざまを寫生して歩かうと云ふ目的であつた」と云ふ。シヤトルに上陸し、直にボストンに赴き、紐育、フィラデルフイヤ、華盛頼、ピッツバーク、シカゴ、セントルイなど、東部諸州の都々を経廻り、到處で自作展覧會を開いて畫を売つて漫遊の費を作つた。其セントルイには世界博覧會があつて、氏の「雨後の桜」と「蓮池の夕月」が陳列されて三等賞を得た。二年間の滞留に渡欧の費用と準備とを整へ、又都市至る所に畫趣を探りて畫賞を肥やした。かくて欧州に渡り英吉利、仏蘭西、獨逸、和蘭、瑞西、伊太利、西班牙諸国を巡遊し、阿弗利加に入りてモロツコ及挨及を旅行し、随所に寫生を為して三十九年の二月帰朝した。各地各様の風光景象は氏の畫想詩思を涵養するに多大なる感化を与へたるべきは弁を俟たぬ。
氏の自信
記者嘗て氏に向つて外遊の所得如何と、欧米古今の大家中、氏に多少の感化を与へたるものありや否やとを問ふ氏は答へて曰ふ『外国では一人も自分の仕事に近い仕事をして居るものを見なかつた。自分は何處までも自分の特色を発揮しなくつてはいかぬと思つた。外遊以前には小山、川村、黒田、久米などの諸氏が欧州から帰る度毎に我国の畫風が動揺し、変遷した。自分も世の風潮に連れて幾分か迷つたことがないではないが、自分で親しく欧米の畫壇を見て來てからは、他人の技風の如何に拘らず、自分は飽くまで、自分の技風を持し、自家の本領を発揮せねばならぬと云ふ確信を得た』云々。
氏は自信の強い人である。決して其所信を枉げない。而して畫家は自己の見識を持つべきものたることを主張して居る。氏が第二次洋行土産の著書『寫生旅行』の中に、ホイツスラーの『テンオクロツク』の一部分を訳した次に
と云つて居るのを見ても、略ぼ推察が出來る。
其趣味と畫題
氏の趣味は甚だ広い。其本領とするところは風景畫であるが、自ら範疇を定め、城廊を築いて、其中に閉ぢ籠るのは陋なりと信じて居る様である。氏は曰ふ『一時は山や水や岩などを盛んにやつた、外国に行く頃から平原の景色などもやつた。人物の裸体は学校の稽古時代にやつたし、動物なども時々畫く。此頃又山などをやつて居るが當分いろんなものをやつて見様と思ふ』と。又『由來日本人の癖として、何か眼先の綺麗な、而して一種風景と云ふ型の中にきちんと入るものでなければ景色をなさぬものと考へる。私は稍々風変りで、平凡なところでもごちやついた市街でも何でも彼でも面白い甘味のあるものと見る流儀だから、媒煙に充ちた工場町にも絵具箱を肩にして出掛ける』云々と。
まこと氏の選ぶ畫題は、頗る多方面に渉つて居る。風景ー風景に於ても多様の題を選ぶは最も多いが、其他建築あり、街景あり、人物、動物あり、遂に装飾畫をも試みつゝある。併し其趣味の中心は深山、幽谷、平原等にある様である。人物と動物を組み合せた一種の理想畫風なる彼の「精華」を見るに、総ての点に於て決して成功したるものではない。装飾畫及日本の建築装飾に関して氏は獨特の意見を有して居る。予は氏自身からも聞き、又『寫生旅行』でも読んだ。中々面白いが、実地の応用に就ては未だ之を論ずべき時機ではないと思ふから、今は省略する。
其構図と色調氏の趣味の多方面なのと、其畫題の多用なるに伴ふて、其構図も亦多様である。茲に掲げたる「サンマルコの景」の如きは一見平凡なるが如くにして、実は中々興味のある構図である山水畫の構図に於て氏の好んで用ゐる構図の二様を代表するものは「雨後の夕」と「千古の雪」である。「雨後の夕」は広い眺を一望の中に収める横長の図で、今年の太平洋畫會展覧會に出た「多摩川の遠望」又は往年の「高山流水」など同一の式に属し、「千古の雪」は高山の絶嶺の一部を仕切つた図取で、其稍々変化したのが「雲表」「峰のながめ」「ウエテホルン」などである。前者は広澗な感じを得るが、後者は動もすれば窮屈に陥つて高遠な感じを失はんとすることがある。
色調に於ても前記の二者は、各氏の特色の一方づゝを代表して居る。「雨後の夕」は和かみのある、そして自然の情致を捉へ得たものである。「千古の雪」は色調強く、重々しいところがあつて、そして深山幽谷の感じも出て居るが、何處かに人工的の感があつて、色調も濃厚に失し自然の情致の幾分を妨げる様に覚え、「雲表」の如きは、華やか過ぎる様に思ふ。序に注意したいことは、氏は極めて深山幽谷を跋渉することを好むが故に、或は観光の紀念として、又は冒険的旅行の紀念としての興味が、畫其物の芸術的興味よりも、氏自身に取つてより大なる価値を覚えしめることがありはしないか。「千古の雪」も佳作ではあるが、予は「雨後の夕」を一段上に置きたいと思ふ。
河合新蔵氏の評
予は氏の親友の評を聞くべく、先づ河合氏を訪ふた。そして其説が頗る予の所見に近く、且つ氏の畫歴等に関しては最も信憑すべきを思ふが故に、茲に摘記して此評伝を結ぶことゝする。
『吉田君は元から元気旺盛な人で他の企て得ざるところを敢てするの風がある。人跡の絶へた深山幽谷などに分け入つて野宿をして畫を描いたり、寒気凛然たる雪の日に寫生に出懸けると云ふ様なことをする。また勢力の強きこと異常で、製作の多いことは同人等の敬服するところである。』
『洋行前の畫は平板で、日本畫の様に薄つぺらで、自分でも苦んで居たが、帰來其点に非常に注意し、奥行のある厚みのあるものになつた。』
『第一回の洋行から帰つた頃は、色調に和らかみが出た。それは多分紐育の風景畫家トライオンの畫風に私淑したのだらうと思ふ。』
『構図は洋行前には、或形式に囚はれて居たのが、帰來自由になつて、変化が多くなつた。』
『色彩も豊富になり、調子も強くなり、随て絵にも深みが出來て重々しくなつた。』
『第二回の洋行中の絵は色彩がケバケバしくなつて居たが、今は落付いて來た。是が吉田君の本領であらう。』
『其長所は春の芽ばえの和らかな感じとか、雨後の朝とか、夕とか云ふ様な、自然の或る特殊なる現象の和らかな感じを捉へることにある様に思ふ。』
(『美術新報』第9巻第2号、明治42年12月1日発行)
吉田博出品『山岳』第4年第2号(明治42年)
吉田博氏出品
水彩畫アルプス湖沼の景額面十四點 十八葉
(一)瑞西ロテルブルネン山村の絶壁と霧降の瀑布
(二)瑞西インターラークンの山市よりユンフラウを望む
(三)瑞西ルセルン湖を隔てゝリギを望む
(四)グリンデルホルム高原より見たるヱテルホルンの夏
(五)瑞西グリンデルヲールドの山家よりヱテルホルンの夏の朝
(六)瑞西ミユレンの大氷河
(七)瑞西スタンダホルムの夏雲
(八)瑞西クラインシャイデグの高原より見たるユンフラウとシルバーホルムの氷河を望む
(九)瑞西ルセルン市街と同湖を隔てゝリギを望む
(十)瑞西夏夕のルセルン市街とピラタス
(十一)瑞西ルセルン市端よりルセルン湖を隔てゝピラタスを望む夏の月夜
(十二)瑞西グリンデルヲルドよりマンクを望む夏の午後
(十三)瑞西グリンデルヲールド山村のヱテルホルンの夏の月
(十四)伊太利北部ルガノの山岳
(十五)西班牙トレドーの山岳
(十六)阿弗利加大沙漠の巨崖
(十七)阿弗利加テベスの山岳(午後三時の光景)
(十八)北米大陸バイクシイヤーの山岳
[編注]
※ロテルブルネン=ラウタ-ブルネン Lauterbrunnen →シュタウプバッハの滝
※インターラークン=インターラーケン Interlaken
※ユンフラウ=ユングフラウ Jungfrau(4158m)
※ルセルン湖=ルツェルン湖 Luzern
※リギ 1797m
※グリンデルヲルド=グリンデルヴァルド
※シルバーホルム=シルバーホルン(3695m)
※ピラタス=ピラトゥス Pilatus
「山岳画漫評」『山岳』第8年3号(大正2年)
山岳畫漫評
○近頃大分山岳が繪畫の題材として取扱はれて来た、私は之を喜ぶ然して悲しむ。山の繪は見る然しそこに山岳があるか、山の繪は描く然し山岳畫家が居るか。私は山を愛する然して藝術を愛する、山を描いた畫には残念乍らひきつけられる、そして常に一様の憤満を侮辱とを感ずる、山岳を藝術とは其に踏みにぢられてゐる、我が尊敬する山岳を藝術とは所謂山岳畫家によって美事に其の尊厳を傷けられてゐる。
○文展ももう第七回である、初めて文展によつて畫を見る眼を開かれた者もはや七年の生長をなした、然して文展は依然として模倣と芝居気と商買家との展覧會である事に呆れてゐる、眞實がないのだ、筆先の遊びをしつゝ畫道を自己を一握みに軽蔑してゐる。然らば文展以外にどれ丈の藝術家があるか不幸にして私は餘り多くを知らない、(近頃は個人展覧會や其他の小さい展覧會に多少の生命と眞實とを見るが、)太平洋畫會も光風會もやっぱり文展以下といはねばなるまい、此の如くして私が山岳畫として論する處は彼の觀工場の如き文展に見出さねばならぬのである。
○昨年は吉田博氏の「飛騨の深山」に呆れたが今年は眞山孝治氏の「初秋」である、之は恐らく上高地の河童橋邊から穂高を見た處であらう、成程山の形と楊の様子に上高地へいった人はそううなづけるであらうが、之によって其の畫が穂高の眞を傳へてゐると思つてはならない、初秋を畫く為に一時の拝借物とあってもそれは近頃迷惑である、日本アルプスの重鎮穂高の姿は初秋のうしろをしきる屏風の役をつとめるには餘りに尊い、それよりも私にはワザワザ徳本峠を越えて不自由な上高地に幾日かを費した畫家の心がわからない、穂高を朝に夕に見、霞ヶ岳を見ながら温泉に俗腸を洗つたなら、もう少しは山らしい山が表はせさうなものだと思ふ、何といふ貧弱な畫だらう、山の樹は疲せてはゐる、然し雪と風とに鍛えられた幹は鐵の様に堅く根は磐石の様に固い、白樺は病人の様にヒョロヒョロしてはゐない、緑色も秋となれば露ひも失せやう然しあの畫の線には命がない、あゝ一萬尺の穂高は屏風の様に立ってゐる、薄っぺらに不安定に。パサパサに乾いた畫面は口の中の唾液を吸取紙で吸取られた様に不快にさせて長く見てゐるに堪えない。
○眞山氏は毎回山村の秋や湖畔の夏を畫いてゐるが、何だか畫がだんだん悪くなってゆく様に思ふ、第二回の「残暉」などはよかった様に覚えてゐるが。
吉田博氏もよく山岳に畫材を採る、第三回の「千古の雪」は有名であったが誰かの悪口の様に肝心の「千古の雪」はおすと膿が出さうに思はれた、たしか立山室堂邊で畫かれたものと聞いたが、立山の雪があゝいふものであったわけでもあるまい。此時の「雲表」其次の年の「劔ヶ峯より」の小品の方がよかったかと思ふ。第四回の「雲界」はスバらしいものであつた、大變だったらう、十五六貫の荷をしよって飛輝山脈を縦走する人夫を後から見送って感服する様に感服した、とても出来ぬことだ一寸眞似は出来ない。畫室で拵へるのも或處まではしかたもなからうが、去年の「飛騨の深山」の様に其實からすっかり離れてゐるのは如何のものであらうか、創造といふ言葉を寫眞といふ言葉より私には尊くひゃく、然し畫室に於て畫筆をもてる労働者が作りあげる大作物は寫眞ともいへまいが創造とは猶更遠いゝ様に思ふ。努力は労働であり大作は面積の大を意味する文展は餘りに我々を疲れさす。
○山本森之助氏の「春の山」「炭焼く煙」は夢の様にボーツとした春の光に紫の山も悪くはないが、山に骨格がなかった、十里の裾を四方に張って地球の中心から根のはへた山岳が春風に春の霞を一所に消えてしまひさうであった、夢二の女には骨がないけれども人體を畫くには骨盤や肉附は面倒な研究を要するのであらうに山岳は地質も何もめつちやくちや、神保博士に地質學の講義を聞かなくても自然を見る眼をもった藝術家には自ら自然科學の結論がわかってゐさうに思はれる、古畫の山の皺法は流石に山を平面盤にはしなかった。吉田氏が早春の「妙高山」を畫き、中川八郎氏は雪の妙高山を太平洋畫會に出陳されてゐた、中川氏には「高原の花」又那須野のあたりの馬つゝじを畫いてゐる、私は割合に中川氏の畫は好きである、「北國の冬」もよいと思った、又山本氏の第一回の「森の奥」は非常にいゝと思ったが近頃の山本氏の筆が細かく神経質な冷いのはいやに思ってゐる。
○一體風景畫家は自然を何と見てゐるのであらう、自然の懐にとび込まないのであらうか、草でも原でも川でもそれを機縁に自己と自然との冥合といふ様な境地に至る事がないのだらうか、山を畫く人に山に對する愛着があるのかしら、畫かないではゐられないといふ衝動を感ずるわけではないのかしら、それとも一坪の畫面に引のばすので空虚が出来たり、感興が失はれたり、何等の「自然」の臭ひもうせ、人格の色もなくなって、只苦しさうな勞力を冷い固い顔料のみが残るのではあるまいか、何故引のばすのだらう、あんなものにして藝術家の心は傷まないだらうか、それとも藝術家の心は労働者の腕の様にかたくなってるのであらうか。技術といふものが人間を殺すのだ、畫家が「自然」に醒された心は「技術」といふものに一律にされた腕に裏切られる、反覆と模倣とは先輩の藝術家の畫法から死んだ技巧のみを傳へる、畫家の心は技巧を傳習に壓せられて、畫面にあらはれるものは只反覆であり模倣である、何處をかいても同じである、畫室で作りあげても同じである、「自然」との冥合はない、畫家の創造はない、只死んだ顔料がカンバスにぬりつけられる。
○哲學も心理も美學も知らない私が畫論はしない方がいゝ、も一ぺん頭を文展に回らさう、前の人に比べては無名の畫家ではあるが文展の山岳畫を論ずる場合に見逃し難い一人がある、それは第四回以来つゞけて赤城山を畫いてゐる小林眞二氏である、氏の畫が特別に傑出してゐるとはいはないが其質實なる虚飾のない芝居気と商買気とを離れた態度を喜ぶのである、今年は「夏の濱邊」に別趣の畫を出してゐるが再び赤城山に歸らんことを自分は待ってゐる、上滑りのしない器用でない筆は數年を續けて赤城山を畫く山を愛する熱心を一所になって私が心に待ってゐる眞の山岳畫が氏によつて出現するかもしれない。
「深く汝の立つてる其足下を掘れ、必すそこから泉が湧き出でる」といふ様に自分の愛する處に深く突き入ってもらい度い、あまりに中途半端な、世間次第な、今の畫界が己れに忠實な歩を進めて貰ひたいのである。
○今年も赤城山の畫が三つ程出てゐる、水野以文氏の「赤城の山」は小沼あたりの山の傾斜を見せてゐるが私は之よりも「葉つゝじ」の方がいゝ、前年太平洋畫會に見た磯邊忠一氏の赤城山の繪はよかった様に思ってゐたが今年の「けぶり」は何處の山だかしらないが色鉛筆の様に弱い薄ぺらな畫はいやだった。又故大下藤次郎氏が秋の黑檜山をかゝれたのを中學時代に感服した事をおぼえてゐる、大下氏は實によく歩いてをらるゝ、先覺者だ、尾瀬も上高地も早く畫いてゐるが、どこを畫いてもそこに「山」が認められない、尾瀬沼は庭の池の如く穂高さへ巧なる箱庭の様にかゝれてゐた。丸山晩霞氏の如き所謂「山岳畫家」山岳の國に生れ山岳の間に育った日本のセガンチニともいはれて然るべき氏の藝術は我々に失望の外に何一も齎らさない、欧洲土産を帝國ホテルに見た時も一やっぱり之では駄目だと思った、欧洲アルプスもモノクロォムの滑かさを小奇麗さに全く着色寫眞で見る以上の感興はなかった、之では何處を畫いても同じではあるまいか、どこへいつても同じではあるまいか、繪畫の約束はもうちやんを胸の中にあり構圖も色彩も筆觸も一つの約束の下に整然を動いてゐる、多い経験は心を富ます養ひではなくて背負うに苦しき荷となるのにすぎない。自然が外物として存在する間は自己に對する敵手であり重荷である、自然を自己に取容れるのか自然に自己が歸一するのかは知らぬが自然と自己が一體になり、自然の心に入った時に自然は自己に生きる、畫面に生命が躍る、自然の風物がカンバスのに永久の生命を得る。
○茨木猪之吉氏の作には流石一道の山岳の気が流れてゐる、文展第一回の「深山の夏」といふのは記憶に存せないがかの「北國街道」は氏の最も得意の畫面ではあるまいか、今年の太平洋畫會に見た「桔梗ヶ原」もよかった、山岳誌上に見たあの積上る様な装飾化された構圖の巻頭畫は面白いと思った、然し氏の細かい筆づかひは或は山岳の雄大に確固たる姿を表はすに不適當ではあるまいか、もつとのんびりした氏の筆を見たい。又氏は北國街道に代表された様に山民の生活、自然と人間との交渉に興味をもたれる様に思はれる、此點に於て吉江孤雁氏の作品との其通點を見出す。
○アルプスの畫家セガンチニの如きもなほ山岳を周圍として取扱つてゐる様に思はれる、勿論實物は知らずに只寫眞版でとやかくいふのであるが、羊飼の女がまぶしさうな眼をして日向に編物をしてゐる畫や、「アルプスの眞晝」の皮膚を快く刺す様な太陽の光と澄んだ空の色鮮かな草の色は如何にも心を惹きつける、高爽と清澄の気が畫面に漲り溢れてゐる、之と敢て上述の貧しき我國の大家諸君と比較しやうとはしない、寫眞版なりと雖も標準を別にして論ぜなければならない。
私はアルプスをなほ周圍として取扱つてゐるといつた之は一方に於て更に山岳に直接に追つてもらい度いといふことを意味する、云ひ方を知らないがセガンチニの畫ではなほ自分が一ぺん畫中の羊なり羊飼の女なり、引いてゆかれる牛なり、鋤をひく馬なりになってアルプスの懐に抱かれなくてはならない、中間の物を要する、私は更に一段論法的に即身即佛といふ様に畫を自分を對立したままアルプス山中に居たい。なまじつかの言葉を費やすことは自分の眞意から遠ざかることであるかもしれないが、私は山岳そのものを畫家の心に生かしてもらいたいカンバスの上に再現してもらひたい、山岳を對照として外部に置いてをかないで。
又一方に於てこういふ事かも知れない、形式的にも山岳を主題として貰ひ度い、又ェーデルワイスやアルペンローズンを裸形の女に象徴しないで物そのものを直ちに描いて、山岳に自然の生命を見出して呉れ、山岳をそのまゝに表現して呉れ、と。
○ホドラーの「遠い國の歌」は眼も逢けき高原を思ひおこさせる、高原の深い沈黙を無音の歌を想はせる、その「ユングフラウ」は初めて見た山らしい山であった、ホーフマンの「雪の山」は山が畫家の心に一遍融けてやさしく弱められてあらはされたが、此のユングフラウは色のわからないのは惜しいが簡単な大まかなブラッシュで山の生命が躍動してゐる。
○欧洲に如何なる山岳畫家がゐるか知らぬ、昨年の山岳誌上に見たセザンヌとゴッホの繪はまだ山岳畫といひにくいがあゝいふ力と命とをもつた畫が見たい、然し寫眞版ではやはり物足らない再び我國の畫界に戻って来なくてはならない、私の今迄展覧會で見た山岳畫のうちで山らしい気のしたのは去年の文展で瀬野豊蔵氏の「高山の一部」と此間の生活社の展覧會に於る高村光太郎氏の作品である、瀬野氏のは何だか焼岳の枯木立の邊だと思へたが、その土の色と空の色とが如何にも高山らしくてうれしかった。高村氏のは今夏上高地に於て畫かれたものゝ由で、霞ヶ岳、焼岳、穂高、乗鞍、などが表れてゐた、黄を紫の病的な色彩で畫かれた焼岳の畫はいやだったが、上高地の白樺の林道はよかった、梓川は霞岳の下を流れる、山本氏の濁らぬ水、吉田氏の奔流の様に詳細に畫かれてゐないが却って無雑作な一刷が眞を表はしてゐる、楊のしげみは白い河原の向ふに煙ってゐる、眞山氏の楊の様に乾潤びてはみなかった、強烈な眞夏の高山の日光に輝いて崖の繁りも白雲を深碧の空も快い階調をなしてゐる、豊かな然しケバケバしくない縁濃き六百、初秋の色に彩られた三本槍、私は初めて山らしい山の畫を見た。
○以上は専ら西洋畫に就てゞある、日本畫に於ても山水畫といふ位故山は多く描かれてゐる、然し此にいふのは高山性のある山である、今年の第一科に田中頼章氏の「木曾の残雪」がある、有明の月を見る迄に吉野の里に降れる白雪といふ位故此残雪が容積も重量もない月影とまがふのも満更理窟がないでもあるまい、左半双の雪の遠山は古い形だけに却つて無事であった。
山本春擧氏の繊巧な筆は夏空に燃える火山岩の高山を畫くには適せなかった、今年のでは寺崎廣業氏の千紫萬紅の第四に秋らしいコバルトの遠山のある幅が山らしい気がして嬉しかった残雪の白線は無雑作にすぎた、第三回溪四題を一しょに出陳された秋山雨後は新味もある苦心の作であったが同時に失敗の作であった、然し此繪には何者かゞあつたと思ふ、聞けば寺崎氏は澁温泉の邊に畫室を有して居らるゝ由である、溪四題に表れた新味と瀟湘八景に示された優秀なる技倆とを以て高山に圍繞された山上の畫室に山岳畫を大成さるゝの日あらんことを期して待つ。
秋山雨後の出た年に吉岡華堂氏の高嶺残雪といふ長い横物があった、之が今迄で一番高山を主として描いたものであったが、へんなギザギザした雪を冠つた山嶺が只雲の上にならんでゐた様なものだったと記憶する。
○中心のない漫筆はだらだらと續いてもういゝかげんに切上げなくてはならない。
○何にしても私は不思議でならない、穂高の岩にミケロアシヂエロの力の彫刻を忍び赤城の火口丘地蔵岳の斜面にロダンの女の柔い手ざわりを思ふ、苟も藝術的天分を有する畫家諸君が何故に此の如くくだらない作品を出すのであらう、山岳はしかく貧弱に畫家の眼にうつるのであらうか創作の心理を私は知らない、然しあんなにうつるつまらない山岳を勞力と費用とを拂って畫くのであらう、静物よし人物畫よし又都會の街も郊外の川もよからう、山岳を特に撰ぶ理由が何かあるのであらうか私にはわからない。虎を描いて猫に類すとかや、山岳を畫いて何を見せやうといふのか海鼠か對た自然薯か。
○私は泣きたくなる、偉大なる山岳は色つけ寫眞の如くボヤけてしまひ、高山植物は友染の模様にされてしまふ、我々は山を此の如くは見ない、我の愛する山は死んではゐない、乾涸びてはゐない、崇高であり雄麗であり、優美であり又壮快である、我々は山を此の如く上っ面に見てはゐない、山の心に深く入り自然の懐にかたく抱かれる。忠實なる寫眞は寫眞の復製ではない、鏡の様に只反射させるのは畫家の眼ではあるまい、生命を握め、自然の大精神を見よ。何故に畫家の筆に何等の内心の躍動の一部もが表はれてゐないのか私は奇怪とせざるを得ないのである。
○技巧は内容とはなれてはない筈である、然るに空しき技巧の形骸が畫家の心を襲ひ繁雑なる約束が畫家の腕を高手小手に縛める、漢文の紀行文の様に何處を畫いても同じである、美しさうな文字が奇麗にならんでゐるだけである、未来派や立體派はわからない、後期印象派の主張はほんとうだと思ふ、埃及邊の彫刻を見やう、自然に反れとルソーの言葉を繰り返さう。然し實の所は自然の中心に迫る誠がないのだ、物の本體を執へる熱心がないのだ、いつまでも畫かきとして畫筆を握る職人としてカンバスをぬりつぶしてゐるのにすぎないのではあるまいか。
○私の心は一番中村清太郎氏の畫に共鳴する、前號の口繪の木版「大日峠の眺望」もコロタイプ版の「硯島本村」のスケッチも、今度の第二號に於る「澤の木」や「朝」や其他も皆とりどりに山を慕ふ心を躍らせ又慰める、うそがない、心をかくす技巧、運筆上の手品がない、山を愛する心が其傍に畫面に溢れてゐる様に思はれる、暗い南アルプスの澤を通ふ濡った風も、雲伏す階の山頂の空気も私の胸にしみ込んで来る、又表紙畫に於ても昨年度のが一番好ましい、殊に第一號のはすきであた。愈々之で筆を擱く事にする、小島氏の「浮世繪を後印象派に於る山岳畫」を論んぜらるゝの日を樂んで待つてゐる。(安曇梓磨)
◇
【編注】かなり辛辣な絵画批評である。掲載されたのが雑誌『山岳』第8年第3号、大正2年12月発行。安曇梓磨という人が、第7回文展に出品された山に関する絵画を批評している。
安曇氏はよほど山に思い入れが強い人なのだろう。「昨年は吉田博氏の《飛騨の深山》に呆れた」と書く。どうも、飛騨の深山らしさが表現されていないという意味らしいが、詳しくは書いていない。
一方的に悪口を書いているわけではない。第3回文展の油彩《千古の雪》は「おすと膿が出そうに思われた」と書いたあと、水彩《雲表》と第4回の《劔ヶ峰より》の方がよかった、という。そして第4回文展の《雲界》は「スバらしいものであった」と評している。再び《飛騨の深山》に戻って「真実からすっかり離れている」と、いう。
吉田博「僕は山党です」『美術新報』(明治43年)
スケッチと云ふ言葉の意味からいふと、雑と描くと云ふ事だが、人によってスケッチを丁寧に描くのがある。大きい絵の下画きでなく、単にコンポジションとしてゞなく、スケッチはスケッチとして別に独立さして、充分研究する人がある。石井柏亭君などは先づ此部類に属する人であらう。単に下絵として取扱ふ人のスケッチは極く雑としたものに過ぎない。特に風景などは何んな紙っ片に描いても好いのだから、是が本当のスケッチでせうが、僕などは更に突っ込んで光線の研究までやる方です。雲の変化などは最も注意して研究してゐます。
トーローといふ画家は水を描くのが上手です。平生、水をスケッチして緻密な研究をしてゐます。殊に流れてゐる水を描くのが巧い。水に映る影、波の皺、細かい波動まで、微妙な自然の現象を捉へて零細な描写をする。スケッチとして此の位緻密なスケッチは無い。が、愈々之を描き上げるとなると、粗い筆で颯々と描く。誰も彼様な細かいスケッチをやる人と思ふ者は無い。日本にも自然から稽古する人は沢山あるが、トーローのやうな研究をやる人は先づ無いでせう。
風景でも人物でも、スケッチとしての捉まへ所は、纏まった絵の捉まへ所と異った点が有ます。勿論それはスケッチとして独立した場合です。主に何ういふ所が好いと云ふ事は実景に対してゞ無くては分りません。僕は平地よりも概して山を好みます。春は余りスケッチ旅行をしません。海岸へも滅多に行きません。満谷君、石川君などは山岳党でなくて平地党です。中川君も平地が多い。山では、越後方面、信濃飛騨の境など克く歩きました。此スケッチは、越後の小出雲村から、南葉山を見た景色です、今ま太平洋画会の展覧会へ出して在る「妙高山」の、北に連つて居る山脈の一部なんです。
銚子、霞ヶ浦、潮来、佐原、あの附近にはスケッチの好材料は沢山あります。鴻ノ台、中川、野田近傍にも好い処がある。なに、東京でも市中でも絵の材料は幾らも発見することが出来ます。(談)
◇
【編注】『美術新報』9巻9号(明治43年7月1日)。トーローは、ノルウェーの画家フリッツ・タウロウ(Fritz Thaulow、 1847-1906)。「雪の画家」「水の画家」と言われ、反射する水面などの描き方が巧妙である。吉田博といえばホイッスラー(1834-1903)一辺倒になりがちだが、吉田自身が言及しているタウロウにも注目したいところだ。「Fritz Thaulow」で画像検索すればとりあえず鑑賞できる。
吉田博「東西モデルの別」『グラヒック』(明治43年)
東西モデルの別 吉田博
西洋のモデルと日本のモデルとは大分其趣を異にしてゐる西洋のモデルは斯々の畫を描くのだから其積になつて呉れと言ふと精神まで其者の如くなるから隨つて畫家が描かうとする氣分までが自然と表れて來る、然し日本のモデルには未だそれが出來ないのである。又日本では斯んな畫を描きたい故、姿勢だけでも宜いから、モデルになつて呉れと頼んでも素人は容易に肯ふて呉れないが西洋人になると雜作もなく快諾して呉れる。だから吾々が田舍に往つて實地に農夫なり鄙乙女なりの畫を描きたいと思つても西洋ならば雜作もないが日本では困難な事である。畢竟日本人の頭にはモデルは畫を描く道具土臺になるのだと言ふ事と畫家がモデルについて如何に苦心を凝らして居るかと云ふ事を解し得ない故であろう。昨今日本の洋画界も風景畫は餘程進歩して來たが人物や動物畫の方は極めて幼稚なものである、之れも専門の動物畫家がないからでもあらうが、一つはモデルが自由でないのにも據るだらうと思はれる、それに日本には象徴畫家が殆ど皆無である。假令ば象徴畫はモデルの線や四季折々の草花木葉の萠芽凋落の状等を不斷頭の中に入れて置いて描出しやうとする畫題に應じて氣持に應じた畫材を配合して象徴せしむるのであるから天才者にあらねば至難の業である。
◇
『グラヒック』2巻16号(明治43年8月1日)
吉田博「摺りの技法」『アトリエ』(1928年)
摺りの技法 吉田博
創作版画は、作者自らが描き、彫り、摺ることによって完全であることはもちろんのことであるが、事実、結果から見ると、彫り本位の版画と摺り本位の版画とがある。つまり、前者は、彫りは良いが摺りの方は簡単に片付けられており、言い換えると彫る時にその彫りに芸術的価値をもっぱら含めて仕上げられたもの、後者はその反対に、彫りよりも摺りの方により多く力瘤を入れてどんな摺り味を出そうかとか、こういう色味にしたいとかいうことに苦心する。いわば、摺りは色彩の方に片寄り、彫りはデッサンの方に片寄るとも言えよう。絵画の方にもその傾向はあると思う。つまり作者の感覚が、そのいずれかの傾向によって表現されるのではないかと思う。
私はここでは、摺りのことについて、主として技法のことを題目として話してみよう。
◇
幸いに日本の木版は、徳川時代から築き上げられた経験によって、深い伝統を持っているので、他の国に見られないものがある。それが一つの習慣として陳腐なものになってしまってはいけないが、その経験を基本として、種々の技法を生かし、更に、忘れられて用いられずにあった技法を発見し、試みてみることは私もしばしばやっていることである。種々の技法について、別に系統だってはいないが、思いついたことから述べてみることにする。
◇
従来、日本の木版では紙を湿らして用いることになっていた。湿っている方が紙に絵の具が付きよいからである。日本の紙は、その紙の目に色のはいってゆくことが外国の紙と違う点であった。紙の厚さの半ばまでも色がはいって二三度摺りを繰り返すうちに、ある微妙な表現が行われる。これは日本で今までやっていた特色の一つである。
また、日本の木版画は、時がたつと色が良くなることは事実である。この二つの特色は、日本の木版画が(摺りの点で)外国から褒められた主な原因だろうと思う。
しかし、これらは日本の伝統としての特色であるが、次には、私の経験し研究せる技法について述べることにする。
◇
前述では、紙を湿らして用いるのを特色としたが、これと反対に、比較的水分の少ない紙へ摺ることは、従来忘れられていたものの一つである。この場合、色は紙の中へはいってゆかない。紙に水分が少ないために、色が付いたり付かなかったりする。これは胡麻摺りというが、使い方によって面白い結果を見る。その水分の程度は、経験上の呼吸であるから、水何割くらいとかいうようには言えない。
◇
バレンの構造は説明するまでもないことであるが、円形の紙板を、竹の皮で包み、その竹の皮と紙板の間に、竹の繊維をねじって筋にしたもの(四本からなるもの、八本からなるものなど種類がある)が、渦巻形に入れてある。この筋は、平板なもので摺るより強く摺れるために入れられてあるのだが、この使い方によって表現上に一種の試みができる。それは作品の性質によってある箇所に、その筋を応用して生ぜしめる効果で、色着きにある変化を与えることができる。
◇
ボカシは昔からある方法で、ほとんど正則な技法であるが、作者の意志でいろいろに試みられるものである。例えば太陽の光を摺り出す時、一つの中心から円形を描きつつ遠ざかって、次第に力を強める。もちろん、版が既にボカシのように彫られてあるが、その上に一層それを複雑なものにすることができる。
また、バレンの動かし方、例えばそのカーブのつけ具合で、版にないような表現の効果を出すことができる、彫りで表せないものが、これによってできる。動かし方ばかりでなく、使い分けることによって、即ちバレンに加える力の分量で、表現上に効果をもたらすものである。例えば海岸の図であるとすれば、水の部分は、いかにも水の潤うているように、そしてまた砂漠の乾いてのいるように、感じを出すことは、この力の按配で意志通りになる。それはあたかも玉突きの場合、玉の活動が力の分量に作用されて意志通りになるのと似ている。また、エッチングなどに見られる一種のさび――味感は、木版でも同様に表さるべきもので、それもバレンの按配によって出る。私は目下このさびを表はすことを研究中である。
以上の如くバレンの使い方は非常に微妙で、かつそれだけ作品に影響するところは少なくないが、研究を積むと、その摺っている音や、その摺り数や、力の入れ具合、力の抜け具合によって、紙を剥ぐらぬうちに既に結果の予想がハッキリ分かる。おそるおそる紙を剥いでみたり、剥ぐってから結果がまるで違ったりするようなことはない。
そして、このバレンを使うのに力仕事がある、場合によって他人に命じてつまり職人を使って摺らせてもよいと思うが、(これを俗にツブシという)しかもその場合は人を機械と思って使うのであるから、私が自ら摺ることと、結果において変わりはない。場合によっては絵描きの体力では間に合わないことさえある。
墨版と色版とが必ず合っているはずなのに、往々にして合わないことがある。一方の木が収縮しているような場合であるが、これを合わす方法としては、水に漬けてふやかしたり、あるいは板の片面を水で濡らして紙を貼り、他の面を天日に乾かして反りかへらす、すると反った方が紙の長さより面積が伸びただけ長い寸法に使える道理である。
これは昔からやっておることですが墨摺りの時に紙に充分水分を加えて色摺りの時水分をぬくのもまた一法である。
摺ってから色に錆びが出ることがある。これは原因がハッキリ分らないが、バレンの竹の皮に油を塗るために絵の具と化学的作用を起こすらしい。これは酸類を用いて取ることができる。これは主に細かい版に起こることで、力の加わり過ぎた場合に起こるのである。
摺りに油絵具を用いる人もあるが、油はすぐ乾かぬので、眺めていろいろいじくって様子を見ることができてむしろたやすいのである。水はすぐ乾くので、そんな暇はないが、この方が正式と思う。油の絵の具と水の絵の具とは一見して色の気持ちが違う。
色版を摺る順序としては、絵を描くのと同様に、特殊の場合をのぞいて不透明色を前に用い、透明色を後にする。以上のようなことでこの話はまづ打ち止めておく。
◇
【編注】『アトリエ』5巻1号(1928年1月)、p83-85。吉田博の木版画に対する考え方をうかがうことができる基礎資料。p84にある白黒挿画「日本アルプス十二景の内(木版)」は、日本アルプス十二題の内 《白馬山頂より》24.8cm×37.3
吉田博「日本アルプス」『アトリエ』(1928年)
日本アルプス 吉田博
私の山登りは登山家の山登りとは少々立場を異にするので、山の上ではある意味でぜいたくもやる。これから話そうとする日本アルプスのような高い山に登るには、私は絵の具箱一つ自分では担いで登らない。自分は全く無理をしないよう、精力を傷つけないように心掛ける。それには十分な人夫と用意が必要であろうと思う。つまり携帯品は必ず人夫に持たせることで、ある場合には食料を先に持って登らせ、分かるような目標を立て置いて来させるようなこともする。また急に好天気の続くため、あるいは天候不良のため、製作の都合上滞在を長びかすことがある。そんな場合には人夫を下山させて次の食料の補充をやることもある。また目的の山を描くために他の反対の山に登るようなこともたびたび起こってくることである。
ではまず北アルプスを遠方に眺められる写生地からの話を先にしよう。
北アルプス連山は一万尺もあるから、麓から遠景に眺めるには大変美しい。それには信濃の側に出なければ見られない。松本、大町付近、四谷の平地、松本の東の鉢伏、美ヶ原の近辺、それに引き替えて飛騨の方からでは見られない。それらの写生地は、田や畑のある人家の在るところで描くので、種々雑多の生活状態を中間に置いて、広い範囲の山を取り扱うことができる。それから今少し山にくっついて山の麓から見ると、広い面ではなく豪壮に山を取り扱うとなると、その場所が非常に少なくて飛騨側にも少ない。孤立している山はどこからでも見えるが、日本アルプスはこの点ははなはだ都合が悪い。
上高地は山間の平野というほどではないがあの平地が埋まったら湖水にでもなりそうなところである。上高地は焼岳、穂高、槍ヶ岳、大天井、六百山に囲まれた小さな長い平地をいうのである。この辺の冬の登山は何しろ七千尺の山を越さなければならないし、二軒ある宿屋は冬期は閉鎖するので、特別の用意をしなければならないだろう。しかし五月頃は類の無いほど、またいいところであろうと思う。近年自動車が通うようになるので夏は登山者で混雑するだろう。また秋の写生をやろうとするのには十月五日頃から十日頃に紅葉するので、その頃に出掛ければいい。高山では特に寒気が急激に来るので、もし紅葉の時期が早すぎたら登ればいいし、遅すぎた場合には下ればいい。そうしてこの辺りは上の方まで登らずとも絵を描くことはできるだろう。それから番所原という所にも少し平地があって、乗鞍が眺められる。以上が日本アルプスを平地から見る所であろう。また四谷から糸魚川の平地に出れば白馬山を見ることができるかと思う。近年山上の小屋ができたのでテントを持たずにも描くことはできる。山上の写生は七月の十日頃から八月の十五日頃までがいいと思うが、それもはっきりとはいうことができない。実際山の上の天気をアテにすることは至難でできない。それであるから山に登る時期を見定めることはなかなか難しい。登山の時期をねらうのは、梅雨の明けたか明かぬかを感ずることであって、東京では未だ明けないが、越後の方では梅雨がほとんど無かったりすることがある。その時節には山上は雪も未だ多い。そんなわけで雪の中から出ている樹木から芽が出ていることも高い山の上らしいと感ぜられる。
それから登山口の主なものは上高地口、中房口、横断縦断で大町口、四谷口、越中の方に廻って鐘釣温泉、三日市口からは黒部川の川を登り、立山、劔山は立山村などである。飛騨の方で、平湯口、蒲田口、乗鞍に登るに高山口、信州から行くのに番所がある。
宿屋の名を挙げると、松本で下りて飯田屋、飛騨屋、下りてから一杯やろうと思うのには浅間温泉にたくさん宿屋がある。上高地には清水屋、五千尺というのがある。中房は中房温泉がある。大町には對山館がある。四谷には白馬館、鐘釣では鐘釣温泉、他には特別にいうほどのこともないと思う。
小屋の在り場所についても、たいていは分かっているが、年々変わるので簡単にすることにする。それらの小屋は毎年春になると修繕する。槍の付近には三つ四つすてきに丈夫な小屋がある。中房、燕にもいい小屋がある。白馬の上にも二つある。それから立山の天狗平に越中の旧藩士が建てた丈夫な小屋がある。それから五色ヶ原平の小屋は黒部川の辺りにある。鉢の木、スゴロクにもある。この他に特種なのが建ててあって、食料などが置いてあり、勝手に払ってゆくようにしてある。劔山に行くには小屋の便宜を得たらテントが無くとも行かれると思う。
次は岩山と草山の区別をしてみると、険阻な山の塊りでは上高地を中心とした前述の山々で穂高、槍ヶ岳はヨーロッパのアルプスにも損色がないかと思う。立山の一塊というのは永く世に隠れていた。登山の流行しない前までほとんど知られなかった劔山もその中へ加えられる。ここは未だ人跡未踏のところさえもある。そうして穂高の方よりは雪渓の急なのがある。雪渓を登るものでは平蔵、長次郎(これは人夫の名から取ったという)一の窓、二の窓、三の窓(大窓)でこれらからは劔山は見えない。劔山を見るには池の平、三田平、黒部別山の低い山などが比較的よく見える。ここには熊がいるが恐れることもないだろう。それらから見た劔山が立山の一塊を遠方から眺めると実に雄大に見える。
次くらいに険阻なものとして白馬の一塊、白馬大蓮華。杓子岳、乗鞍岳などがある。これらも雪渓を登るのだが、険阻に見える割にそんなに骨は折れない。
のんきに草原に昼寝して山を眺めたり、絵を描いたり楽にやってゆけるのに五色原(かなり高い)、太郎兵衛平、雲の平、烏帽子縦走(烏帽子、槍ヶ岳の間)などを挙げる。
日本アルプスで色彩の強い山は槍ヶ岳の北、赤岳の北、硫黄岳はそういうふうな画材にいい。
また険阻な谷川では黒部川があって、約二十里も人家がなく、水は非常に澄んでいる。谷川からは山の頂上は見えなく、俗にこのあたりを黒部の廊下といって地図にも出ていないほどで、日本アルプス中最も険阻といっていい。多少発電所が出来ていくぶん破壊したにしても、神秘境には違いない。硫黄岳の中の高瀬川の上流赤岳は温泉が流失し、すたれたままになっている。このあたりも人手の入らないところがある。なお薬師岳、黒部五郎、太郎兵衛平などの頂上は未だに処女地である。
次に高山の写生に対して少しばかり経験したことを書いてみよう。ところで山の上ではなかなか絵などを描くことは難しいことで、眠ることも慣れないうちは醒めやすくて困るものである。高山の昼間は夏の上天気でも曇りやすいもので、朝の四時頃から十時頃まで写生をやってから、また夕方晴れ間を見て描くことになる。多くの画家はたいてい天気の変化をねらって描くが、これはいろいろ各自で工夫したり、研究しないとなかなか簡単には描けるものではない。
面白い現象としては、下界が曇って山の上が晴れている場合には雲の海の中にちょいちょい山の頂が突き出てちょうど島のようにしか見えないものである。それと反対に山の上が曇って下界の晴れていた場合には次の天候が悪くなる予告である。
また、山の上で幾日も天気が続いたりする場合にぶつかると、描けるだけ描かなければならないので、その精力を使い果たしていると大変な無駄をするので、先に言ったように体を精いっぱい使うことは禁物である。つまり画架とか三脚とかいうものは、あれば便利であるかも知れないが、決して持って行くものではない。絵の具箱にしても少しでも軽いものを選ぶこと、必要なものだけを各自に考えることがいい。それから山の写生は、山の写生をやったことがないと描けるものではない。それに一度や二度山へ登ったのではまとまったものは描けない。まとまったものを描くにはどうしてもたくさんスケッチを作らないと描けないものである。おかしなことは下界の描き方は山の上では通じないことである。それには練習と研究を積まなければなるまい。
それからテントについて少し書いてみよう。私のテントは大きくて中で火も焚けるほどである。テントの中で火が焚けるのは私のだけかも知れない。またこのテントは山の上で私の画室にもなるわけである。テントの根拠地選定法としては第一に水のある場所、やむを得ない場合は雪でも仕方がない。第二に水と同じように必要なのは風を避ける場所だが、これは非常に難しいもので、ちょっと素人考えでは谷間のような窪みがいいように考えられるが、これは風が集まってとてもテントは張れるものではない。風の方向は木の吹きさらされた方面を見てテントを張り、人夫の意見も聴くことは忘れてならない。一番よい場所としては、もぐり込んだところでテントの頭をちょっと吹き抜ける程度のところがいい。それから焚き火がやれるようになるとこれはもう一人前で、生木に火を付けることはこれまた難しいことだ。うまくなると雨に濡れた生木でも雨の中で火を付けることもできるのだ。それにはハイマツの枝をたくさん切って来て、その枝を気長に中の芯の乾いた部分まで、濡れた皮を削り、それをたくさん集めて焚き火にするのである。そうすれば生木は非常によく燃えるもので雨が降ろうが消えないものである。
日本アルブスは最高一万尺である。もう二千尺も高いと氷河を見ることができる。それから日本アルプスには限らないが、わが国の山と外国の山岳とを比較してみると、一体に変化に富んでいる代わりに、山の姿が優しい、大まかでない。スイスの山に似ているところもあるかと思う。
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【編注】※現代語表記に改めた。『アトリエ』5巻7号(1928年)所収。『高山の美を語る』(実業之日本社・1931年)を書くきっかけになったとみられる雑誌寄稿文。この小文は、いったんアンソロジー『日本写生旅行』(1930年・アトリエ社刊)に収められた。雑誌記事では、挿絵として「白馬山」「三田平」「五色原」が白黒図版で掲載されている点が注目される。このうち、「白馬山」は第9回帝展出品作の油彩《白馬鎗》(1928年作・東京国立近代美術館蔵)の構図とほぼ同じであるが、油彩か水彩かまでは判別できない。また、「三田平」は今の剱沢キャンプ場にあたるが、原画の所在は不明である。「五色原」は、木版《五色原》との関連が考えられるが、横構図ではなく縦構図である。いずれにしても、1927年か1928年かに吉田博は立山剱・白馬方面を旅したものと推測される。
【参考】劍山を望む(スケッチ)
吉田博_談「版画に就いて」『浮世絵界』(昭和11年)
版畫に就いて 吉田博(談)
私は山が好きである。子供の時から山を喜んでみた。繪をかくやうになってから、私は専ら山を書いてゐる。好きだから畫いてゐるのであって、誰かの要求によつてかゝされてゐるのではない。書かずにはをれぬのである。私はテントをもつて山に入るのである。アトリエを山に移し、山に包含せられて、山の霊気によって、俗世間の煩らひを一洗し、山の精神になりきる。そこから私の繪は生れるのである。版畫も出來るのである。
その代り山に對する努力は並大抵ではない。色々回想して、夢は山邊をかけめぐることがあった。向ふの山を畫かうとして、どうしてもすこし降らねばならぬが、こゝに絶壁千仭の谷でどうすることも出來ない。そこでカゴに乗つて木に吊してもらひ、ずっと岩壁を降つて、その目的を達したこともあつた。かやうにして、日本のみならず、アメリカ、ヨーロッパ、印度等世界の屋根を傳つて、畫き歩いたのであった。それ等のスケッチを版畫にしたものが、今では可なりの多數にのぼつてゐる。一つの山といつても、四季朝夕によつてその容色をことにし、風雨雲烟またその形容雰圍氣を變化せしむるのであるから、一つの山を畫くにも、甚だ多數なる感覚があり、藝術が生れるのである。それ等を私は版畫に作つてゐる。
さて、版畫に就いて少しく私の考へてゐることをのべてみたい。版畫には、墨一色のものと、筆彩のものと、多色摺のものとがある。墨一色のものは、所謂白と黒の版畫であつて、紙の白い地色と、それに加へる墨色の版とによつて繪を構成するのである。これはまた二つのねらひ所がなる。その一つは、白い部分、即ち板を刻み彫りとつたあとの部分、畫紙に印せられない部分が、物をいふものがそれである。他は、墨線の印刷が物をいふ場合である。
外國では、大抵この一色摺が行はれてゐる。多數色にする場合は、彩色することが多い。色版は、外國は、日本から學んだ影響をうけたとみて差支へない。
版畫の形式をみると、三種類ある。その第一は凹版である。それに属するものはエツチングである。第二は、平版である。それに属するものは石版である。第三は、凸版である。それに属するものは木版である。各々その特色を有してゐて、各種各様の藝術性をもつてゐる。然し最も面白いものは木版畫である。
私は木版畫を作つてゐる。木版畫の彫りの上で考へたことがある。肉筆書で面白いさび、筆のかすれなどいふものを彫つてみた。これは非常に骨が折れ、熟練と努力を要することであるが、作つてみると骨折つた割に効果がない。何とかしてそこに面白味藝術性を發見したいと思つてゐるが、仲々見出せない。木版には具合が惡いのではないかといふやうな氣がする。
版畫に自分が畫いて、自分で彫り、或は更に摺る人がある。所が繪がかける人必ずしも彫れず、彫れる人必ずしも繪がかけない。こゝに問題がある。日本では、徳川時代から、長い間、彫つてもらふことが行はれておる。即ち彫師といふものがある。これは特殊な技術であつて彫師といふ一つの技術家に依嘱すれば、大抵の所までは彫つてくれるものである。然しその場合には、彫師が筆者をよく了解してゐなければうまく行かない。彫師は畫家を理解することを要するのであつて、そうでないと、よい版畫は出來ない。これをうまくやつて行ったのは日本だけである。
自彫といふものがある。これは自分が畫いた通りに自分で彫り、或は、彫りたい通りに自分で彫るのである。これは非常に困難なことであって、相當に研究をしないと出來ない仕事である。つまり、畫家であるといふ外に、彫師の技術に習熟するのであるからむつかしいことである。又これを自分で摺ることになればそれに短時日の間に大量の繪を作る場合などには、非常な體力を要するのであるから、この方法による大量製作といふことは、殆んど望み難いものがある。然し彫ることは畫くことであるといふ考へ方は正しいことであるから、版畫家は出來ることならば自分で全過程をやりたいものである。
日本の版畫のよさはどこにあるか。私の考へでは、欧米の版畫では、どうも色摺は駄目なやうに思ふ。日本では、摺師といふ特技家がゐて、これにやらせれば、二十色でも五十色でも、幾らでもマネーヂすることが出來る。これは徳川時代から、長い間行はれてゐる傳統の力である。摺師がよく心得てゐる。然し作者自身も心得てゐなければならない。
日本版畫は、さびがないかはりに明確性がある。ごまかしがない。明確性といふのが非常に美感を發揮するものである。
日本の木版畫は、年數を経ると、いゝ調子のものとなる。色が褪めるのでなくて、調子が出てくる。せつかちな版畫家は、出來た當時のことを考へて調子を合せるので幾年かたつと調子のくづれたものとなる。年數を経ると調子が出るといふのは、一體どういふわけか、その現由を、私は實験的に探求してゐるがわからない。色がかれてくるんだといへる。が、このかれるといふのが分らない。ローサが抜けるのかとも思つた。壓力を加へられた紙が、もとにもどるのかとも思ふ。日本で版畫に用ひる紙は非常にいゝ感じのものであると思ふ。その感にもどるのかと思ふ。色々考へてゐるが、このかれるといふわけが分らない。或は色がしみこんでくるのではないかと思ふ。外國では出來ぬところである。色が紙の中まで入つて、重なつてよい感じをおこすのであらうか。外の繪でもそうであるが、日本の版畫では、地紙の色を出しておく版畫がある。これは、奉書紙の質そのものに美感をもつてゐるから面白いのである。
平版では、色が平らであるが、木版では、色のバリアテーがあり、又板目のあぢもある。板目の味も使ひやうによつては、藝術的であるが、子供藝に終ることも屡々である。例へば、繪の上で板張りの縁側だとか腰板だとかを畫く場合、實際彫り出したのではなくて、版木の板目を利用して書いたものなどは、奇は奇であるとしても、藝術的であるとはいへない。所が作者の働きで、これを水流などの表現に用ひた場合など、妙味を發揮することがある。然し原則としては、木版畫に板目を利するといふことは、藝術的ではない。けれども摺刷をするには、どうしても多少の板目が出る。それで、その板目の感に、色の美感を発揮せしめることを心懸けてゐる。
私は版畫を作つてゐるが、多くの場合、彫師摺師にやらせてゐる。充分に私の氣持をのみこませ、私の癖を知らせておいて私が意のまゝにこの二者をつかふのであるが、どうしても彫師摺師にまかせられないところも繪によつてはある。例へば海の波を書いたもので、その畫をスケッチしたときの気分なり、風の向きなりを表現するに、どうしても他人では私の気持を受け容れてくれないのである。そういふ時は私は自分で彫る外はないのである。私は一つの繪を版畫にする場合、頭の中で、版畫として出來上つた結果を描き出し、その頭の中の繪を色に従つて分解して板に彫り出す。それで、私には原畫といふものはない。強いて言へば頭の中のもの、或は出來上つた繪が原畫であつて旦つ版畫である。
浮世繪版畫は、その當時の思想をそのまゝ現はした。現代の版畫は現代の思想をあらはさねばならぬ。廣重は當時の世想であるところの東海道の旅の姿を描いた。現代では、山のぼりは一つの浮世の姿であらうと思ふ。私は山を描くのである。
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『浮世絵界』1巻7号(1936年9月)。
吉田博_黒田を擲る(高村真夫「老友のエピソード」『太平洋』昭和12年)
老友のエピソード 高村真夫
私が今茲で述べやうとする逸話は、実は去る拾月、丸山晩霞君の古稀、吉田博君と僕の還暦の賀宴を相互會の発起で数寄屋橋畔の階楼に催ふされた時、テープル・スピーチとして私は話したいと思ふて居つたのでしたが、幹事さんが気がキカヌでそんな機會を考へなかつたので、其儘埋もれさすには余りに惜しい逸話と考へますので改めて荻に発表することに致しました。
文藝部からは私に釣の哲学を寄稿する様に注文が來て居りますが、夫はイツでも書ける事なので後に廻わして頂くことに致したいと思ひます。
扨て吾々の老大會員は何づれも揃ふて其の青年時代から苦学力行・獨立不屈・異性ナンゾは静物の一片位にしか考へて居らない硬教育を受けた人達で、唯一心不乱、芸術の大道を真一文字に馳り続けて來た人許りであるから仲々逸話の持主尠ないのでありますが、取分け吾丸山・吉田両君ナゾは最も傑出したその方のヒーローであるのであります。両者は御承知の如く主として山岳畫家でありますが、ナンデモ近來流行の日本アルプス登りなぞは今を距る四十余年前、未だアルプスなぞと云ふ舶來名のつかない時代に於て、両君は大概の今の日本アルプスの凡てを登り尽くして居らるゝとの事であります。同じ山岳畫家でも丸山君は高山植物を熱愛されるので、同君の作品は日本畫と謂わず、水彩と謂わず、悉く高山植物を配したるアルプスの山容が畫題となつて居るのであります。従がつて植物学の知識も相當深い者で、先年私は只一度八ケ岳に丸山君に伴して登つた事がありましたが、途々路傍の野草を摘取つては説明されたが実に素晴らしい植物の先生と思ふのであります。全く高山植物とアルプスと云ふと直ぐに丸山晩霞を思ひ起すのであります。
丸山君の健筆
晩霞君は俳句の方でも一方の宗匠株であり、且つ俳畫も得意とせられ、よく旅行先の宿などで依頼され、ば幾十枚の絵も立ちどころに描上げると云ふ健筆家であります。私とも親友である著述家の横山健堂君が先年丸山君と相携へて丸山君の郷里信州へ講演旅行して行かれた折、或る席に招ぜられて、丸山君が絵を描き、健堂君が其上に賛を書くことになつたが、丸山君の絵は筆に喰を生じて速く出來ること輪転機の如く、二時間余りに百何十枚とやら描飛ばされたので、健堂君の字が間に合はず、流石剛腹の横山君も遂に悲鳴を上げて帰つて來てから私に話された事がありましたが、字より速い絵と言ふことは恐らく天下無敵、丸山君の獨舞台と調ふべきであらうと思はれます。
其野人振り
是も横山健堂君からの談でありますが、先年同君が其郷里に丸山君を招待して長府町の或寺院の天井一杯に石楠木を描いて貰つた事がありました。向ふでは、東京から洋畫界の大家丸山先生の御巡遊と謂ふので、下の関の春帆楼で市の一流の紳士紳商が金三十五円也の會費で丸山君の歓迎宴を開いて呉れたそうです。而して席定まるや、一流の美枝十数名、腕によりをかけてイト華やかな舞踊を御覧に入れ出したそうであります。スルト來賓として床柱を背負つた吾晩霞先生はソツポ向いて鼻クソをほじりながら、オレは飯だ々々と謂ひ出された時は、紹介者たりし横山君も此時許りは汗が背に滝のやうであつたと嘆息して居りましたが、吾丸山君は山家育の無骨漢で何人の前にも偽はらずに其の本性の直情径行をやり出すので、野人丸山君の面目躍如たる者があつて宴に伝ふべき逸話であると思ひます。
吉田博君のヒーローイズム
吉田君は同じ山岳畫家でも植物や、花をねらつて居りません。主として山頂に於ける雲煙の変化や山容の自然の姿を探求して居られるが、同君も若かりし頃はナカナカのヒーローで、何んでも高い山を見ると其テツペンを登り切らないと腹の虫が収まらないと言ふ一種の高山病乃至雷鳥の生れ代はりと謂ふか、トモ角毎年高山に寝泊りして來ないと生甲斐がないそうであります。標高や、富士なぞは自分の家の庭位に考へて居る様です。何時かも驚ろいたのですが、穂高とか鎗のテツペンとかによい姿の這松があつたから、來年上つて來て持帰るのに枯れないやうに其の根廻しをやつて來たよなぞと謂つて居りました。又何時ぞや富士を描きに山頂に幾日も泊つて居つた時、或夜御湯に這入りたくなつたとて山頂から二三合下の室堂までドテラ着たまゝ風呂浴びに下りて來たなんと言ふのでした。ドーモ人間業ではありません。富士山ではモ一つ君の逸話があります。富士の標高一万二千何尺とか言ふ、其の一番テツペンの剣ヶ峯の尖端を金槌でもつて五寸程ブツカイ夕とやら。而して其富士の標高を狂はしたとか言ふのですが、是は本當かどうか本人に聞いて下さい。
次の談は同君がズツト若い二十歳前後の頃の事でしやうが、友人と共に浅間山の寫生に行つた時のこと。あの凄じき噴煙立ち上ぼる噴火口のへりに御尻をつき出してウンコを垂れて來たそうであります。當節の薄志弱行の輩は噴火口を身投げ場と考へて居りますが、吾吉田君には、大噴火ロも屁のカツパであつたのであります。近年三原山は此弱虫共の死場所として大繁昌して居りますが、夫と謂ふも最初に飛込むだのが頗る美人であつたので大変な人気になり、其の模倣性が蔓延して、斯くも大勢の人命がナクナツテ居るので実に人道上捨て置けないと思はれます。ソコで私は考へました。最初に美人が飛込むで三原山が亡者の為めに美化されたのだ、コイツは一トツ反對に醜化しなくてはイカン、それには吉田君に御苦労サマでもモ一度噴火口に行つてウンコを垂れて貰ふことです、而して其事がニュースに伝はるとキ夕ナガツテ誰もが飛込まなくなること請合であります。最も御神火と称して崇拝してゐる大島の人達は怒るでしやうし、第一東京湾汽船會社が儲からなくなるからキツト喜ばないと思ひますが人命には代へられません。此事の実現を一トツ吉田君に御願ひしたいと思ふて居ります。
文展審査員として
吾吉田君は明治の末年から大正にかけての所謂文展華やかなりし頃は数度審査員に出られ、大いに吾野党の為めに官学派を向ふに廻はして戦はれたのであります。実に鹿子木君と吉田君は吾太平洋畫會の為めには血みどろの戦をせられた勇将であります。其時分の洋畫界は官学派の上野美術学校と其出身者の白馬會と、吾々太平洋畫會を中心とせる野党の一つしか団体がないので、毎年此白馬會と太平洋畫會との對立的激戦は実に華やかな者でありました。而して白馬會の頭は黒田清輝と言ふ智謀才略に長けた総督と岩村透など言ふ能弁の脇士が居つて吾々野党を随分苦しめたのであります。其時吾か野党には小山・浅井・松岡なぞ云ふ老先輩が居られたのでしたが、イツモ最も奮闘されたのは鹿子木・吉田両君でありまして、特に吉田君は最もよく戦つたと鹿子木君からも聞えて居ります。而して或審査員の集まつた席で、吉田君は黒田を擲ると言ふ。黒田はさあナグレと謂ふて肌を抜いだとか言ふゴシツプが伝つて居ります。何しろアノ頃の黒田の勢力は素晴らしい者であつたのでイヽ加減皆が翻弄されて居つたとのことですが、其主将に向つて拳骨を握つたと言ふのですから、吉田君の硬骨振りも又賞讃に値する様です。
兎も角、吾々の老大會員達の意気は皆獨立不屈、芸術に於ても唯もう其信ずる所に一路邁進を続けて居るので、ピカソが素晴らしいの、マチスがどうのと、何と謂ふても鼻であしらつて見向きもしないヒーロー許りであるのであります。私は吾々の老友達もモウ人生の大道をイヽ加減歩み尽くして、モーソロソロ過去を語つてもよい年輩になつたと思はれるので、此機會に敬愛すべき吾老友のエピソードを記述して置くのもアナガチ無益の事と思はれないので想出したる一、二を茲に記述した次第であります。
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【編注】『太平洋』第3号、昭和12年2月25日、太平洋美術学校文芸部)
吉田博「偉大な不折の画業」(昭和18年)
中村不折君の畫業の尊さは終始一貫、初一念を貫いてきたところにあると思ふ。日本の傳統、東洋の古典を不折獨自の筆で生かす、これが彼の真骨頂で、他から何を言はれようとそれら毀誉褒貶を全く度外視し七十八歳の今日まで描き抜き生き抜いて來た。こゝに彼の藝術が時流を超越して光るのを見るのである。
不折君は幼少から既に繪を好み描き始めてゐたが、初めて油繪を物したのは二十六歳だときく。それ以前小山正太郎の不同舎に入門、不同舎流の古めかしい寫生圖に専念して、むしろ風景畫家として知られてをつた。しかし明治三十四年三十六歳にして初めてフランス留學するや、それから帰朝までの四年間をほとんど全部人体とコンポジションの考査研究に没頭、その余暇にはリュクサンブールやルーヴル博物館に行つて古代の名畫の前で暮したといふが
果然、歸朝第一作には有名な大作「建国剏業」を描き、それからは専ら人物畫を主とするやうになつた。しかし、かく西洋の技法、西洋の古典を學んできたが、彼の選ぶ題材は留學前と少しも變らずあくまで東洋古典であり、その後の傑作「羅漢圖」「廓然無聖」「賺蘭亭図」などに見られる如く、一として西洋に毒されることなく、ますます獨自の境地に没入、遂にそこをつきぬけ今日に至つたのであつた。明治、大正、昭和とわが畫壇もいろいろと變遷しまた同時に次第に上すべりしてゐるこの際、堂々初一念の畫道に邁進、深く真理の泉を掘下げて行った不折の畫業は尊ばれねばならぬと思ふ。
なほ彼は周知の通り六朝風の書をよくするが、書道の學術的研究においては、その右に出るものなく、またその膨大な蒐集によって邸内に書道博物館を開設、廣く一般に公開してゐる。この方面の功績れも没すべからさるものがある。(筆者は太平洋畫會員)
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【編注】「偉大な不折の画業」『朝日新聞』1943年6月8日。吉田博による中村不折(1866-1943)の追悼記事。中村不折は、吉田博より10歳年上で、不同舎の先輩後輩の関係。吉田博の油彩画《精華》は中村不折の影響を受けているものと推測されるが、詳細はまだ不明。「一として西洋に毒されることなく、ますます独自の境地」の「毒される」に注目したい。この感覚は、吉田博もまたそうであったと見てよい。中村不折は明治34年8月19日にパリ着。吉田はその前年にパリ万博、米国を回って34年7月に帰国だから、パリでは中村不折と会っていない。中江彬「中村不折とパリの画塾」『人文学論集』2004年、大阪府立大学人文学会編。
「吉田博君の思い出」『造形』(1958年・石川寅治)
吉田博君の思い出 ――信念と力行の人―― 石川寅治
亡くなった吉田君は、私にとつて、久と得難い画友であり益友であつた。私とは性格もちがつていたので、若い頃にはお互に意見を異にして随分議論をたたかわしたり、時には喧嘩さえもしたものだが、今から考えればそういう刺激があればこそ、人間はみな成長する者で、何も彼もが懐しい思い出として私の脳裏に深くしみ込み未だに忘れられない。それは生温い月並な友情といつたようなものでなく、厳しいうちに心と心の触れ合った真実の友情だつたと私は思つている。
吉田君はじつさい偉い人であつた。いわば雄偉とでも形容すべき人物で、その意志の強さと実践力のあることは全く非凡であつた。私が「信念と力行の人」というのは決して誇張ではなく、後にも先にもこれほど個性的な画家を私は知らない。世間から誤解された面もあったようだが、生前は勿論のこと、今日でも吉田君にたいする私の敬愛は少しも変らない。「造形」からその特集が出るということなので、思い出の一端を綴つて吉田君の偉大さを世に紹介しておきたいと思う。
「私が吉田君に初めて会ったのはたしか明治二十五六年の頃でその時私は十八歳、吉田君は一つ下の十七歳ぐらいだつたろうか。少し前に私は小山正太郎先生主宰の不同社に入門していたわけだが、或る日その吉田君が木綿の和服姿で小山先生の門を叩いたのである。この頃の吉田君は未だ子供子供したヤセ型の少年で、彼は大きなスケッチ・ブックをもつて来て小山先生に教えを乞うたのであつた。ところで、二百以上もあるそのスケッチを見て驚いたのはまず小山先生であり私の如きは余りの達者さにこれは敵わぬと聊か惧れをなした位であつた。スケッチは何れも真剣そのもの、描写力のすぐれたもので、後年の吉田君の力倆を十分うかがわせるに足る才能が芽生えていたのである。
その後間もなく吉田君は画家を志望して上京したのであるが、それ以来私とは切つても切れない不同社の僚友となり、互に励まし合つた。彼には精悍の気が漲り、その負けず嫌いが人一倍の勉強振りを示した。私など、どれぐらいそれに啓発されたか知れないし、彼にたいする敬愛は日と共に深くなるばかりであつた。
其中に、新しい僚友として中川八郎、満谷国四郎、鹿子木孟郎、小杉未醒、永地秀太、高村真夫等という連中が吾々二人の仲間に加わり、やがてそれが太平洋画会創立にまで発展した。そして吉田君はここでもまた凄まじい勉強家の筆頭であつた。彼はこの太平洋発足の時など、いろいろと理想を述べて吾々の間に意見の相違があつたが、信念の人である彼は容易に自説を曲げるようなことをしなかつた。それはとにかく論議の後に、芽出度く会が創設され、終戦直後まで吉田君を推進力として四十年もの長きにわたり、会は隆々として成長したのである。
戦後、周知の通り太平洋画会が分裂して、計らずも吉田君と私とは遂に袂を分つに至つたわけだが、個人の立場として、彼と私との友情に変化がある筈はなく、画壇全体から見て、惜しい人を失ったものだと詢に残念である。
吉田君は前にも云つたように信念の人であつたが、その実行力はさらに超凡であつた。たとえば極く若い頃、横浜のアメリカ人向水彩画を売る店のために達筆な水彩画を沢山描いて苦学したり、後年また一家の経済を支えるに充分なほど盛に油絵を描いたりした。また数度の海外絵行脚をやって大成功をした。画友の中川、満谷、鹿子木等の諸君は、みな吉田君に呼ばれて外遊したのであつた。かくして山岳画家としてのその功績は前後に例がなく、一方では版画家として世界的名声をはせるにいたつた。
私は幾度か吉田君と写生旅行をしたことがある。思い出は尽きないが、その中でも特に面白く、且つ吉田君に感服したのは明治四十三年の琉球写生旅行であつた。それは其年の二月のことで、拙宅へ吉田、中川の両君が来られ、スキ焼で気焔をあげた後で忽ちその計画が実行に移された。恰度好都合なことには、大阪朝日新聞が、吾々三人が各三十点ずつの絵を描いて紙面を賑わす約束で旅費を出して呉れた。またもう一つ有難いことには同時に大阪商船会社が琉球まで一等パスをくれて、この企を側面から援助したのである。
かくして、吾々三人は勇躍して壮途に出たのであるが、すべて理想通りに運び、出来上った各自の作品が一緒に東京、大阪の両三越で展観され殆んど全部が買約大成功を収めるようなことになった。この旅行の間でも一番馬力をかけたのは吉田君で、彼は旅先で五十号を二枚も仕上げるほどの精進振りであった。実際驚嘆するより他ないのである。
とにかく吉田君という人は、言うことも成すことも男らしく堂々として実に立派であった。妥協性はなかったかも知れないが、稀にみる傑物であったことは、最も親しかつた私の保証するところである。(洋画家・示現会会員・日展監事)
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【編注】『造形』(No.39、昭和33年6月)所収。石川寅治(明治8年4月5日~昭和39年8月1日)。
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