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第5章第6節 洋画家吉田博と立山3作品


明治42年(1909年)夏の立山で大井冷光が出会った人物のうち、後世に名が知られる人物といえば、日本画家の石崎光瑤、俳人の河東碧梧桐、洋画家の吉田博、山案内人の宇治長次郎などが挙げられる。このうち最も濃密なかかわりを持ったのは吉田博(1876-1950、当時32歳)である。[1]

吉田は8月2日に東京を発ち、5日に室堂にやって来た。[2]当初は約10日間滞在の予定だった。冷光が運営している立山接待所に寝泊まりし、よほど気に入ったのか、結局3週間も寝食をともにすることになる。特筆すべきは最後の5日間だ。冷光と吉田は、宇治長次郎の案内で黒部谷の平(だいら)ノ小屋とザラ峠を探訪し、立山温泉から室堂に戻って、別の案内人を得て大日岳・称名ヶ滝を探検する。

吉田博という洋画家

本題に入る前に、吉田が当時の洋画界でどんな位置にいたのかを記しておこう。[3]明治時代後期の洋画界は、フランス印象派の影響を受けた黒田清輝(1866-1924)らの新派「白馬会」(明治29年創立)と、明治美術会を引き継ぐ旧派「太平洋画会」(明治34年創立)という2つの勢力が競う構図にあった。吉田は太平洋画会の中心メンバーの1人である。白馬会の画家たちが官費留学をするのに対して、吉田は明治32年、23歳のとき仲間の中川八郎とともに渡米し自身の絵を売って資金を稼ぎながら欧米を遊学した。強い在野精神から、10歳年長で東京美術学校西洋画科教授の黒田清輝に対して対抗意識を燃やし、「黒田清輝を殴った男」と噂されるほどであったという。海外修業は3回でのべ約5年になった。明治40年2月に帰国してからの活躍は目覚ましかった。同年10月、初めての公設公募展として開かれた文部省美術展覧会(第1回文展)に水彩画3点を出品し、いずれも入選した。そのうち《新月》は3等賞という評価を受け、文部省買い上げとなった。翌41年の第2回文展でも、水彩《雨後の夕》が2等賞(最高賞)を受賞し、《峡谷》が文部省買い上げになった。[4]明治40年9月には、博文館から著書『寫生旅行 アメリカアフリカヨーロッパ』を出版している。また、山岳画家として注目され、明治42年5月の山岳会大会にスイスアルプスの水彩画など18点を出品したことは既に記した。

室堂での出会い

冷光と吉田が出会ったのは、明治42年8月5日の夕方、場所は立山室堂である。

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