【資料】大井冷光の『かなりや』――童謡運動に先駆け、子どもの歌ブームを演出した児童雑誌編集者
2018年7月は童謡100年で盛り上がることだろう。『赤い鳥』の創刊日(大正7年7月1日)からちょうど100年、なかでも最初に曲が付けられた《かなりや》(西條八十作詞・成田為三作曲)に注目が集まるのではないか。
童謡100年を考える材料に
1か月前の今ここで、大井冷光の『かなりや』を紹介したい。
大井冷光は、時事新報社が発行していた児童雑誌『少年』『少女』の編集者で、大正7年6月16日日曜日に、あの帝劇で「少女音楽大会」を開き、2000人の聴衆を集めて成功させた人である。
帝劇の『赤い鳥』音楽会で《かなりや》が初めて歌われたのは大正8年6月22日なので、それより1年前に帝劇で大規模な子どもの音楽会があったのである。
1918(大正7)年7月1日の『赤い鳥』創刊から童謡運動が始まったと見ている人が多いだろうが、それは正しいとは限らない。
大正3年か4年頃には都市部に子どもの歌ブームが起こり、小学校の唱歌教師たちが調査を行っている。その調査に目を付けて、雑誌編集者の大井冷光は子どもの歌に関する連載を組み、大正7年6月16日に国内初の大規模な子どもの歌のステージを作ったのである。
大正7年ごろまで、子どもの歌は「創作唱歌」「新唱歌」などの名称で呼ばれていたが、鈴木三重吉らが「童謡」という言葉を当てて差別化を図った。
それで「童謡」という言葉が社会に流通していくけれども、作曲家にとっては「唱歌」も「童謡」も作曲の手法が違うわけではなくまったく差異はなかったのである。だから、「唱歌」「童謡」「わらべ唄」という用語はあいまいになってしまった。
子どもの心をつかむ『かなりや』 八十か冷光か
さて、大井冷光の『かなりや』である。これは、子ども向けのエッセイで、雑誌『トヤマ』51号の附録「トヤマ少年」(明治45年3月21日発行)に掲載された。冷光自身の子ども時代を書いたものでその意味でも史料的価値はある。文章にやや難はあるが、内容は味わい深く、子どもの心を惹きつける。
著名な西條八十の《かなりや》と比べるのはいかがなものかという人もいようが、西條の《かなりや》は何となく怖いイメージがあり、子どもの心に寄り添った歌詞であるとは私は思わない。その点、冷光はさすがに巌谷小波や久留島武彦から期待されただけある。
子どもの心をつかむ、とはどういうことなのか。興味ある人は、この冷光のエッセイと八十の童謡を比べて、深く考えてみてほしい。
◇
金絲雀
大井冷光
お母さんがまだすぐ家の前にあつた小學校の裁縫の先生をしていらつしゃる頃でした、僕を連れてはよく富山の餌指町にあつた吉田といふ仕立屋においでになりましたが、それは僕のお母さんのお師匠さんの家なんです。
その吉田さんのすぐお隣は綿屋さんでその店に金絲雀を飼つてありましたが、菜種の花の咲く頃の事その金絲雀が赤ちやんを産んだのでお母さんが一羽私の爲めに譲つて貰ふ約束をして下さつたのですたしか、その兄弟が三羽位あつたやうにおぼえてゐますが兎に角お母さんと吉田のお母さん……その頃は先生といつてゐたでせう……と三人で見に行つてまだ生毛の取れない黄色の白つぽい雛鳥をあれこれと雄雌の評議をして尤も雄らしいのを貰ひました、その時僕がこの白いぽいのを気遣つてどうしたら黄色くなるでせうと綿屋のお父さんに訊ねたらハコベや麻種をやればよいといつたやうにおぼえてゐます、それを小いさな籠に入れて貫ひ家へ歸路には僕がお母さんに抱かれながらその籠を抱いて俥に乗つた時のうれしさはどんなでしたらふ、さうです、新庄を離れて常盤橋まで行くあいだに幾つかの幅より長さの短い橋があつて、それが往来より三寸も五寸も高くなつてをります、そこを俥夫がグイと輓き上げるとお尻がトン持ちあがる。そのはづみに籠も揺れるものだから、中の雛鳥が吃驚して羽ばたきをして身体を小さくする、その度に僕の胸も羽ばたきをしたことが今もはつきり見えるやうです。
その頃は家に洗濯婆さんか来てゐました、顔の大きい鼻の端に黒子のあつた婆さんでしたが、それは親類先から見えてゐたのでお母さんも僕も「婆さん婆さん」と様付けにしてゐました、その婆さんに加勢をして貰らつて金絲雀の世話をするのでしたが、綿屋のお父さんの言つた通り粟に麻種を混てやると金絲雀はおいしい麻種ばかりを喰べて粟はバラリバラリと外へこぼしました、はてはその粟で水をあびるやうなことをして部屋中に撒きちらすといふので婆さんはよく小言をいつたものです。
恁してその金絲雀は半年ばかりすると大分羽の色も黄色くなり躰も大きくなつて来ましたから、もうおつつき囀りさうなものだと、いういう囀るやうな世話をするが、どうしても囀りません唯時々申し譯丈にチユエンチユエンと優しい音色を洩すばかりです、どうも僕はじれつたくてたまりません、學校のお友達や出入りの小作などが見てこれは雄だうふといひます、殊に洗濯婆さんが雌説を主張して部屋をよごす不平の材料とするのだおしまひにお母さんまでがその説に賛成なさる、僕もうその雌だといはれる時ほど口惜しいことはありませんでした。
處が學校から歸るとお婆さんが妙なことを報告しました、それは廣間の鴨居の上に懸つてゐた籠の底がどうしたはずみか下へ落ちると、金絲雀が飛び下りて畳の上にこぼれた餌を啄いでゐたのでそつと捕へて籠にかえしたといふことでした。
その前からも籠を出しても逃げたすはしないこととは思つてみましたがこの報告で一層その自信を強くしました。
それからある時私は炬燵の上に籠を置いて入口の戸を開き入口の處にハコべを置いてやると金絲雀は入口へまで来てヒヨイとそれを啄へて奥へ歸ります、次ぎに入口から一尺程はなれてハコべを置いて見ると、そこまでチヨイチヨイと飛び出して来てチヨイと啄へるとサツサと籠の中へかえつてしまひます。
その間にまたこういふことも發見しました。お婆さんが時折糸車を取り出してブーブーとかなをひくとその聲を一緒に金絲雀が微かな聲でさひづつてゐます、それから僕がその頃流行つた玩具で、管竹の兩方に竹皮をあてゝ、中央の穴を口に當てゝ鼻聲を出すと竹皮に響いて面白い音が出ます、僕がそれを鳴して唱歌を謡ひだすと、やはり金絲雀が微かなごく 低いこゑで一しよに囀りだします、それはどんなに低くつても小さくつてもよろしい僕に取つては非常に嬉しい、力強い聲となつたのであります。
さうこうするうちにだんだん馴れた金絲雀はやがて、僕が隣村の收入役さんの息子さんから貰つた松の鉢植を床に置きその枝に餌桶をつけてその枝に止ると一時間でも二時間でもその枝をとびあるいて遊ぶやうになりました。
恁してお母さんとそのお婆さんと、僕との三人暮しの淋しい家庭の幾年かをこの一羽の金絲雀が僕の友達となり唯一の玩具ともなつてくれましたが、十一才の正月その金絲雀の遊んだ床にはお母さんの遺牌を飾られ、間もなくその家をすてゝ僕は金絲雀と一緒に三里距つた伯母の家へ引き取られるやうになりした、行つて三月ばかりすると大事な僕の幼な友達の金絲雀が伯母の家の四畳半の箪笥の上で日中何物にか襲はれ生血を吸れてあれ非業の最後を遂げてしまつたのです、お母さんを失つて涙の味をいやほど知つてゐた僕もその可愛い金絲雀の屍を抱いては思はず涙を呑みました。
あの時分の家は取り拂はれ前にあつた學校もなくなりました、唯金絲雀を止めた小松丈はその後伯母の家へ移し植ゑて近年までありましたが今はその伯母の家までが取りはらはれてありません。(完)
◇
自宅で飼っていたカナリアについて、冷光は大正5年の『少女』39号の編輯だよりに書いている。これも全文引用しておこう。
(2023-06-22 22:01:51)
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