【資料】竹貫佳水「少年文學の新聲」『新文學』(1913年)

少年文學の新聲
        竹貫佳水

少年文學に携はらんとして、作家が第一に考慮しなければならぬ事は、云ふ迄もなく少年を理解する事である。これが他の文藝であつた場合には、作家と讀者との、共通した趣味思想の上に生きて居るが、少年文學に於てはさうでない。即ち作家は其の作物を提供せんとする前に、先づ其の作物が、讀者の胸に共鳴し了解されん事に就て、苦心と技功を要さなければならない、故に作家は先づ讀者としての少年を理解し、能ふべくんば同化する事に努めなければならないのである。

然れども単に讀者の興味に迎合し、少年の甘心を買はうとする事は眞の同化の意義ではない。子供に菓子を與へて、喜ぶ顔を見ながら喜ぶと云ふ事が、決して少年文學の真意義ではあるまいと思ふ。

さらば何物を以て、其の作品の内容を滿たしたら可いのであらうか。かう思ひ來ると少年文學は頗る安易なるのゝやうに見えて居て事實頗る困難なものとなつて來る。少年を理解する事に續いて起つて來る作者の苦心は實に、此の内容如何に對する問題でなければならない。――斷はつて置くが此の論は創作に就てゞあつて、雑案や改作や、又は通俗的の讀物は問題外である。――

此の場合作者にとつて、最も手近であつて、都合の好いものが一つある。即ち教訓と云ふ事である。大人たる作者に比して、讀者は全く無經驗無意識の少年である。隨つて作家が讀者に向つて、所謂善い事、所謂タメなる事を教へやうとする事は、さう大して困難でもないし、又それが少年文學の真意義であるかのやうに信じ、或は要求する事が、之までの社會では當然の事であつたらしい。

かうして我が少年文學が、所謂道徳教化の糧として其の道具に使はれて来たのも、随分長い間であつた。自分の最も論じてみたいのは實に此の一事である。

尤も廣意義から云つてみれば、あらゆる藝術は、それを鑑賞する者の上に何等か教ふる處のある事は云ふまでもないが、此處に云つたのは其れとは全く異つて居て、道德概念を意味した所謂教訓を指したのである。此の教訓が作品に含められた場合に、觀善懲悪の姿となつて現はれて來る。由來善とか惡とか云ふ事は人間の定めたもので、絶對なものではないことは云ふ迄もないが、殊に少年にとつては、此の倫理の價値なるものは、大人の考へるよりは、遙かに微弱なものである。實に少年が有する恩想は單純にして而かも豊富なること、大人に比して幾層か自然に近い眞生命に生きて居る事を覺らなければならぬ。

西洋人が日本のお伽噺を評して、偽を教へるものであると云つたといふ事を開いた。さうして又、彼の『猿蟹合戦』を例にとつて、日本人は子供の時から探偵術を教へるのだらうかと云つたさうである。之はアイロニーに富んだ西洋人の皮肉と見てしまへばそれ迄であるが、聞き脱してならない言葉である。洵にあの内容から、仇敵に對する復讐に備へた計略に關する興味と惡が遂に善に滅ぼされたと云ふ教訓を取除いて、後に何が殘るだらう。思つてみれば、勸善懲悪を以て教化の資としようとして、却つて戦慄すべき好奇心を少年の胸に呼起させるやうな矛盾が認められる。教化の點から云つてみても、よし其結果は善事を教ふるものであらうとも、偽と方便とは子供にとつて有害である。しかも多くの作物は、此の内容を以て少年文學の芸壇を飾らうとしてゐなかつたであらうか。又社會もそれを以て、少年文學の眞相と信じて居はしなかつたであらうか?

さらば、何を以て少年文學の眞義にしたらいゝか。

結論に入るに先達つて、更らに別樣の問題を解決して置きたい。それは少年の讀物の程度と種類に就てゞある。

無論其の年代に依つて、作から受ける興味も、作を理解する力も異なつて來る。『お月樣幾つ』を歌ひながら、宇宙の靈感に觸れる時代も、『坊やはいゝ子だ』によつて、子守の脊に小さき夢を結ぶ時代も、『遠くの島のお姫樣』の噺を聽きながら、母樣の懐に稚ない憧憬を燃やす時代も、冒險談や立志小説に、少年の血を沸かす時代、藝術上から見る時には、凡べて一線上に繋がるものである。否々、お伽噺や子守唄が、軈て音樂となり劇となるのである。併し。それには年代毎に階程の差がある事は當然の事實である。――但し其の階程の差は、決して藝術の優劣深淺の差ではない。その價値に於ては何れも絶對なるものである。青年にならんが爲めの少年ではないのであつて、隨つて其の藝術鑑賞の度合に於ても、決して高低を施すべきものではない。

兎に角年代に依つて、讀物の種類も變つて行かなければならぬ。事實お伽噺の可憐な空想は、或程度まで發育した少年にはだんだん距離が遠くなつて行く。例へてみればお伽噺はミルクのやうなものである。けれども嬰兒に菌が生える頃になるともう如何に甘くとも、その流動體に滿足して居られなくなつて來る。何か齒障りの堅い物が喰べたくなる。そこでカステラが出来る。お煎餅が出来る。

果然お伽噺に續いて、少年文學の圈内には冒險譚が生れ立志小説が出た。けれども冒險小説なるものは、由來架空談である。又立志小説の主人公は、大抵貧兒の成功談であつて、必らず悲惨な運命の中に生きて行つて、末に所謂成功をするやうに、大方相場が決つて居る。何れも作者の頭に宿した理想的の人物である。謂はゞアヤツリ人形である。それが如何に面白く又他の智識を涵養する役には立つとしても、頗る非現實的であつて形はあつても生きて居ない。血が通つて居ない。どう少年文學の真意義を存したものとは云ひ兼る。

それから之は主に少女物に多いやうあるが。所謂情調小説とでも名付くべき一種の樣式が近頃生れて来たけれどもそれも要するに感じ易き讀者の情を挑發して興味を引くに止まるやうに思はれて、どうも眞實の意義に缺けて居るやうな氣がして、満足出來ない。

最近の實例を擧げて見ると實業の日本社が發行した『愛子叢書』は、一面此の缺陷を充うとしたらしいやうにも思ふが、徒らに名家の名 べる、衆目を引かうとしたかのやうに思はれる。殊に其の執筆者にどれだけ少年を理解し研究する誠意があるかを偲ぶ時、多くの期待をかけたくないのである。

さらば何を以て此の缺陷を充たしたら可いのだらう。空虚は依然として空虚である。

空虚! 爰に於て、論者は本論の最後に到着しなければならぬ。

再び繰返して云ふ、少年文學の眞意義は徒らに讀者の甘心を買ふ事ではない。道德教化の糧となる事ではない。架空なる想像に興味を繋ぐ事ではない。理想化したアヤツリ人形を見せる事ではない。新らしき少年文學は、誠實なる作家の努力に依つて少年の現實に立脚して藝術の使命を果すにある、作者は先づ道德の假面を脱さなければならぬ。教訓を含めなければ子供に對されぬかのやうに思つて居た偽善的態度から離れなければならぬ。而して汝の作る處のものは眞實であらねばならぬ。

冒険譚も立志小説も、教訓お伽噺も、決して否定する譯ではない、否、それも進歩の一階程を創設したものと見れば、それだけの尊敬は拂はなければならぬ。唯それを以て萬能なりと信じて、新時代の建設に資すべき方針に出なかつた過去の少年文學を思ふ時、更らに權威あり意義ある作品を以て前述の缺陷を充たし、其處に新らしき少年文學の進路が開けて來るのではあるまいか。

【編注】『新文學』8巻6号(1913年5月)。大井冷光、松美佐雄とともに1912年8月設立した少年文学研究会を読み解くうえで、重要な評論記事。同会の第一創作集『お伽の森』の「巻首に」は設立趣意書にあたるものだが、この記事はそれと比較して読む必要がある。

(2020-12-20 22:35:54)

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