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剱岳測量史を新聞報道から問う

新田次郎の『劒岳・点の記』はあくまでも小説であって、かなりの部分は作り話です。史実は違っています。この点を突き詰めた論考です。専門性が極めて高く、強く興味を持つ人だけにお勧めします。資料費補填のために、恐縮ですが、有料記事とさせてください。


(1)歪められる史実

先ごろテレビで放送された映画『劒岳 点の記』に見入ってしまった。2009年に封切られた時はたんに娯楽として見たが、それから7年たち、今回は史実といかに違うのかという視点で見た。そして最後の字幕部分が「この作品を原作者に捧ぐ」だったことにひどくがっかりした。

記憶はあいまいなものだ。最初に映画を見たとき、仕事一徹の測量手、柴崎芳太郎に捧げた、つまり柴崎たちを顕彰するためにつくられたものだと思い込んでいた。

小説を書いた新田次郎氏や映画を撮った木村大作監督をこれから批判しようというのではない。創作は創作として評価されればいい。そうではなく、それらの創作によって、史実がいかに歪められつつあるかを問題提起したい。

剱岳測量登山にまつわる史実の歪み。それを危惧するきっかけは、図書館でたまたま手にした1冊の本である。2015年9月に発行された石原あえか氏の『近代測量史への旅』。副題が「ゲーテ時代の自然景観図から明治日本の三角測量まで」とある。ゲーテと測量とをつないだところが石原氏の得意らしいが、専門のドイツ文学から近代測量史に踏み込む著作はかなり異色だ。出版社による内容紹介によると、「ヨーロッパが最新の測地技術で地球を測定
し、正確な地図作成をめざした時代を、同時代日本との学術交流と併せて描く。多数の新資料&未公開図版でたどる科学文化史」とある。

全5章333ページのうち、剱岳測量の柴崎芳太郎に関連した頁は第五章「日本におけるプロイセン式三角測量」の最終節の4ページである。つまりこの著作を締めくくる話題として柴崎芳太郎と剱岳のことを取り上げた。

しかし、石原氏の記述は、これまでの剱岳測量史研究とくらべて、あまりにも脚色されている。例えば次の記述。

軍部は趣味として登山する山岳会の面々、すなわち一般市民が、測量部より前に剱岳に登頂することを容認できなかった。精神的プレッシャーばかり大きく、必要な財源は本当に最低限しか支給されないまま、柴崎を筆頭に測夫・生田信やガイドの宇治長次郎らたったの六名で構成された一行は剱岳山頂を目ざした。

(石原あえか『近代測量史への旅』p247)

史実と創作を混同していないか。小説や映画に感化されすぎてはいないか。軍部が「容認できなかった」と断定するなら、根拠を記述すべきである。「本当に最低限」の支給だと言いきるなら、結局いくらの経費がかかる仕事だったのか、史料を提示すべきである。「六名で目ざした」と書くならその根拠はどこにあるのか。科学文化史という看板を掲げようという人が、ここまで安易に書いてしまってよいのか。

(2)『近代測量史への旅』の誤認

あらかじめ断っておくが、石原あえか氏の『近代測量史への旅』をすべて読むつもりはない。つまみ読んで批評するのは失礼であろうが、それでも書いておかないわけにはいかない。

石原氏は「柴崎測量隊は剱岳の〈脱神秘化〉に成功した」と書く。西洋との比較から〈脱神秘化〉という言葉をここで持ち出したようである。しかしそれは、我田引水的で一面的な見方ではないか。

柴崎たちが頂上で錫杖頭や鉄剣や木炭の破片などを見つけたことで剱岳の山岳信仰にまつわる神秘はその度を増したのである。

剱岳の錫杖頭は発見から100年後の2007年になって蛍光エックス線分析という科学的調査がなされたが、それでも製造年代や産地を特定できなかった。[1] 柴崎たちは、測量機器を使って標高をほぼ正確に割り出すという科学的な成果を挙げた。その一方で、神秘的な謎に直面し、それは現代においても解明されず引き継がれているのだ。

石原氏の「〈脱神秘化〉に成功」という表現は、言葉ばかりが先行していて考察が浅い。もう一つ決定的な誤認を指摘しよう。

史上命令だった剱岳登頂を成功させた柴崎だったが、平安時代に剱岳に登った先人がいた証拠に戸惑った測量局は、柴崎と同僚たちに箝口令を敷いた。柴崎はこの命令を生涯守ったので、彼の死とともに彼が知り得た情報は一切語られぬまま、すべて一緒に墓に葬られてしまったかに見えた。しかし測量局の同僚や日本山岳会会員たちが、柴崎の苦難に満ちた剱岳測量の物語を語り継いだ。

(石原あえか『近代測量史への旅』p248)

測量局ではない測量部が正しい。測量部に戸惑ったといえるだけの証拠がどこにあるのか。箝口令を敷いたという事実があるのか。まったく言葉が上滑りしている。ここまでくると捏造という批判も免れまい。

柴崎は明治40年7月28日に登頂したあと、31日に立山温泉で新聞3紙の取材を受けた。そして3紙のうち少なくとも『富山日報』は8月5日6日の朝刊で報道した。そこでは錫杖頭の線画が掲載され、測量標を建てたことよりもむしろ錫杖頭が見つかった事実に重点を置く内容になっている。

柴崎が新聞記者の取材に応じ、記者が「劍山攀登冒険譚」という記事を書いたからこそ、剱岳登頂にかかわる史実は後世に語り継がれたのだ。同僚や山岳会が語り継いだというのは美化しすぎである。

陸地測量部内の情報誌『三五会会報』には、「劍山攀登冒険譚」が転載された。柴崎は明治40年に出張から東京に戻ると部内の帰朝報告で話し、その内容が『三五会会報』に記録されている。箝口令を発したのならわざわざ柴崎に報告させるわけはないし記録に残すというのも矛盾である。箝口令というのはありえない。

「墓に葬られてしまったかに見えた」という記述は情緒的すぎる。柴崎芳太郎はたしかに寡黙な人だったらしい。が、「おれは真実を死ぬまで話さない」とでも発言しているとでもいうのか。石原氏は安易な表現を慎むべきである。

石原氏は、新田次郎の『劒岳 点の記』が科学史の記憶に貢献した、と書いている。表現が大げさすぎないか。『劒岳 点の記』は人びとの関心を山岳測量史に向けることに貢献したのだ。山岳測量史を正確に伝えることに貢献したわけではない。創作と史実の混同が危惧される状況になっている。その責任は新田氏にあるわけでない。小説や映画と距離を保ちながら史実を追究しなければならない学者や専門家たちにあるのだ。石原氏の勘違いもはなはだしい。

『近代測量史への旅』の参考文献を見ると、石原氏は率先して一次情報に接した形跡がない。小説や映画を読んで鑑賞して、その関連本を読んだ知識から「柴崎測量官と剱岳測量」という一文を書いたにすぎない。インターネット上の書評や映画評ならそれでも許されよう。しかし学術界に身をおく専門家が科学文化史を掲げて書くことは許されない。猛省すべきである。

[1]『富山新聞』2008年8月18日。「蛍光X線による分析は、立山博物館の依頼を受けた元興寺文化財研究所(奈良市)が行った。報告書によると、錫杖頭から検出した銅、鉛、スズの元素から青銅製であることが確認されたものの、奈良時代の青銅に特有のアンチモニーは検出されなかった。また、金メッキの有無を示す金の成分も確認できなかった。報告書は『制作年代、制作地とも直接、示唆する情報は得られなかった』としている」という。2011年7月には、富山県埋蔵文化財センターが剱岳頂上の錫杖発見地を初めて調査したが、「三角点や社の設置などで地形の変化が激しかったため位置の特定に至らなかった」という。学術研究が後手に回り、なんとも残念なことである。

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