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第3章 上高地無情

絶賛一転 濃霧に

石崎光瑤の槍ヶ岳への旅はいよいよ後半である。大町から明科まで馬車で行き、そこから汽車で松本に出た。再び馬車に乗り、島々村の宿舎、清水屋に着いたのは午後4時半であった。

富山を出て6日目、朝7時に島々[標高730m]を出発し、上高地[1500m]を目指す。「僅か六里(約24キロ)」だが、途中徳本とくごう峠[2135m]を越えなければならなかった。荷担ぎは一人である。

徳本峠越えは、現代では古の道ともクラシックルートとも呼ばれて見直されているが、光瑤が通った明治43年は上高地に向かう人が通る主要ルートだった。

現代だと約9時間である。光瑤の連載記事は「第六日」「第七日」に分かれているが、途中で宿泊したという記述がない。スケッチに時間をかけて2日かかって通過した可能性もある。今後さらに検討が必要である。

島々を出てはじめは林道を行く。浮き足立つというと少々語弊もあろうが、光瑤の筆は絶賛の連続である。

梓川の奔瀬が岩を噛んで泡立つ波が乳白な色を漲らして流れる。これを脚下に瞰下して行進する。島々の安曇製紙会社へ水をやる長大な筧が虹の様に川向こうの絶壁に設けられて清冽な水が溢れ落ちて玻璃はりの玉簾を懸け列ねてゐる。山の半腹に造られた道は自然の威力に前途を防圧されて行けなくなると橋を架して向岸へ転ずる道を造ってある。小さな美しい橋が無数に架けられてある。

『高岡新報』明治43年8月25日2面

山苺を口にして進み、遠雷を耳にする。白壁の滝を過ぎて午前10時30分、休憩した。白壁の滝は現在の瀬戸上橋付近の瀬戸ノ滝[標高1120m]付近か。休憩場所は現在の岩魚留小屋[標高1260m]あたりと推定される。

植物採集禁止の立札があった。前年に地元の小林区署が立てた「白亜の禁札」で、光瑤は「甚だしく美感を害ねて一種厭ふ可き悪感」を覚えるものの、利益を求めた乱獲に対して警告を発する。そして立山のクロユリもめったに見られなくなったと嘆き、「殺風景でも不調和でも我立山にも此種の禁札を建てて厳密に採集を取り締まって」保護してほしいと書いている。

夏草の種々咲き零落こぼれし渓流の飛沫是をうるほし、燦然として真珠の如くきらめく紅宝石ルビーの如く輝く。加ふるに左右の沢には、仰ぎ見る緑葉打繁る。緑の隧道を現はれて隠れ隠れては現はれて落ち来る優美なる飛瀑鞺鞳どうたふとして、白布の如く垂れ、或は滾々こんこん洒々白雨の如きもあり。水晶簾のごときものあり。一陣の清風連巒れんらんの緑を一搖して此処に至り瀑は横様に霧となって空に飛散し急雨の如くに路に落ち涼風衣袂いべいに充ちて、如何にもアルプス登山路として申分のない美景に富むだ路である。

『高岡新報』明治43年8月26日2面
徳本峠付近から見えるはずの山並み
昔の絵葉書(撮影年不明)

しかしここから旅は暗転する。徳本峠[標高2135m]に着くころあたりは濃霧に包まれた。峠からすこし下りたところが池見橋と呼ばれる場所だった。晴れていれば「霊峰穂高山」と「宮川池」[明神池]が明鏡のように見えるはずなのに、何も見えなかった。行間に落胆ぶりがうかがえる。「霊峰穂高山」とは現在でいう明神岳[2931m]か。

快晴の折であると、宝冠にちりばめた白金プラチナの條から真珠の数、衣の襞の美妙な曲線迄が双眸の間に収められ頗る荘厳であって日本アルプスの第一閃光とも云ふ可き其容姿に初めて接する時は、島々から長々しい、谷合ひ道中をしてあきあきした徳本峠の片面を、登り切って此処迄降り疲れ切った心が、強烈な電気を与えられた肉の様に、ハッと引き締め直されて瞬間的自然の荘厳と絶対なる感が犇々ひしひしせまって来るとの事を聞いたが、無情なる雨伯は我に此壮観を免さなかった。

『高岡新報』明治43年8月27日2面
「徳本峠より見たる穂高の一角と梓川の上流」
『高岡新報』明治43年8月22日付2面

峠沢橋・落合橋・千々折橋・黒沢橋を過ぎて、河童橋を渡り、上高地温泉に着いたのは午後4時20分だった。河童橋は前年までははね橋だったがこの年は吊り橋に架け換えられていた。

六十幾里の長程を遠しとせず千山万谷を踏破し来って、愈々明日ぞ、多歳憧憬れし名山槍の峰頭を極めんものぞと思へば、将に訪ふ可き渓流の壮、森林の幽、植物の艶、絶巓の気象、四囲の展望等交々我脳裡に往来し、眠に就いたのは夜半に近い頃であった。

『高岡新報』明治43年8月27日2面


《梓川に架せる河童橋》『高岡新報』8月27日2面
石崎光瑤撮影
《河童橋より望見せる雨後の穂高山》『高岡新報』8月30日2面
石崎光瑤撮影


幽玄の田代池

明治41年夏の立山一ノ越で、龍王岳東稜線の延長上に遠く見てスケッチしたあの尖峰、槍ヶ岳。ついに極めるチャンスが来たのだ。

午前3時に目が覚めた。外は雨だった。登山は見合わせになった。

上高地温泉は標高1500m。越中から信濃へ抜ける街道があった半世紀ほど前、つまり江戸時代末の1860年ごろ一時300人も滞留することもある賑わいを見せたが、盗賊が出るようになり長らく廃れていた。それが登山者が増えて5年前に宿舎が整備され、明治43年の時点では2階建てで14室(平均6畳)があった。

この日、向かいの部屋には白馬会の4人の洋画家がいた。

午前10時頃に雨がやみ、写真の愛好家4、5人とともに田代池に行くことになった。神代を偲ばせる霊域を進む。途中、十数頭の馬が放牧されていた。さらに行くと百頭ほどの牛がいて、競うように写真を撮った。周囲約2キロの田代池は、シラビソの森に囲まれ幽趣が漂っていた。

左上《上高地の放馬》8月31日2面   右上《田代池畔の牛》 9月1日2面
左下《田代池の一部》 9月2日2面  右下《田代池の一部》9月3日2面
いずれも石崎光瑤撮影

光瑤は8月4日、高岡新報社に宛ててはがきを書いた。そこに辻村伊助・三枝威之介・中村清太郎・河田黙と偶然会ったと記している。しかし連載記事本文には4人の名前は出てこない。よって、田代池に撮影旅行に行ったグループが、この4人であったかどうかは分からない。

大小数多き離島が散在して、蒼翠たる栂、白桧の古木是を飾り、凝て明鏡の如き池の面に皆其影を倒写してゐる。霞沢の奇峰乱山も、卯の花威を着た穂高の偉貌も炎々として九天に冲し、虚空に立ち騰る積雲と見紛がふ。焼岳の噴烟も皆此玲朧たる玻璃面に影を投げて居る

『高岡新報』明治43年9月2日2面

光瑤は「アイスクリームの様な冷烈な清い水」や、体長60センチもある岩魚など、田代池の情景をかなり細かく描写しているがここでは略する。

その日午後4時、温泉に戻った。時折青空がのぞき、焼岳の白煙が流れるのを見て、翌日は焼岳[標高2455m]に登ることにした。

梓川と焼岳  戦前の絵葉書(発行年不明;作者不明)

8月29日付の紙面には、「山岳文学の泰斗 烏水先生の雲表に記されてある」として、戦国の武将、三木みつき秀綱夫妻の悲話を紹介している。小島烏水の『雲表』(明治40年7月10日発行)から「梓川の上流」という紀行文の一節の引用である。[1]

焼岳噴火口で命拾い


連載記事では第10日とあるその日、朝7時に温泉を出て中尾峠[2130m]に向かった。途中、噴煙が空を覆い、あたりが「恐ろしい濃い赤色に急変した」。11時に中尾峠に着いた。晴れていれば円錐形の笠ヶ岳[2898m]が見える。しばらく待ったが展望できなかった。

「中尾峠(焼岳噴火の惨害)」石崎光瑤撮影
『高岡新報』明治43年9月4日2面

中尾峠で撮った1枚の写真が紙面に掲載されている。9日4日付の「中尾峠(焼岳噴火の惨害)」で、連載最後の写真である。

光瑤たちはさらに森の中を突き進んでいった。火山灰ののったササの葉をたたきながら300ないし400メートルほど進むと、惨憺たる光景が広がった。

二抱えもあらうと思はるる幾千本の大森林に近き二年前の大噴火の惨害を蒙り悉く、焦爛して白骨の如く赤裸々たる褐色焦土と対照して凄惨の極に達してゐる。是より爛砂の急斜面を更に四五町進めば凄惨なる光景は愈々其度を加へて、絶頂より奔騰落下したる巨木大石或は逆さまに根を天に冲せるもの、或はさしも大樹の石を抱きしまま覆りたるもの、崩壊し、粉砕し、転た噴火当時の勢力の畏る可く強大猛烈なりし偲はしめて已まない。

『高岡新報』明治43年9月3日2面

活火山とあって時折地盤が振動し、恐怖を感じる。同行の一人は下山しようと言うが、光瑤は「消極的な勇気」を奮って登り、午後1時30分、登頂を果たした。猛烈に熱気を噴き出す旧噴火口が見えた。鳶口を力杖にして一歩ずつ噴火口の中へ下りて行った。

焼岳火口  戦前の絵葉書(発行年不明;撮影者不明)

案内人と腰の細引をつないで、危険を冒して噴出口をのぞこうとした。その瞬間だった。突然鳴動が起こり、ガスが噴出した。「眼は針にて刺されし如く疼痛し、呼吸器へは竹串でも突き込まれしとばかり苦痛を覚え」、倒れそうになったが、何とか助けてもらい難を免れた。一日に6、7回、こうしたことがあるのだという。

光瑤はそれでも懲りずに新噴火口も見に行った。旧噴火口は恐怖を感じるが、新噴火口は壮観だという。写真を撮ろうとしたが上手くいかなかった。記事では、あとで老猟師の上條嘉門治から焼岳噴火の話も聞きとり書き留めている。

《焼岳焦林の霧》
石崎光瑤撮影
『世界写真図説 雪』(明治44年7月)

午後3時下山開始。その途中、「焦林へ濃霧が来てるのが頗る寂寞の状が溢れて」いるので撮影した。それは、「焼岳の焦状」という題名で『高山深谷』第2輯に収められたらしい。これは、『世界写真図説 雪』に載っている「焼岳焦林の霧」という縦構図の写真と同じものであろう。

その後「韋駄天の如くに駆け下り」たが雨に降られ、午後5時温泉に戻った。

翌朝もまた無情の雨だった。

植物の研究にピンセットを執り薬瓶と首引きの理科の人。農商務省の地図を拡げて作戦に余念なき絶頂派。窓から雨の霞を写生する洋画家。客は多けれども粛然たる斗りでどうしても温泉宿とは思へない。階下の爐辺には宮川池の老猟師嘉門治が遊びに来て綱を繕って居る。

『高岡新報』明治43年9月6日2面

雨のため滞留を余儀なくされ、光瑤は上條嘉門治[嘉門次]について書き留めたほか、信濃・立山・白馬の人夫賃についても書いているが、ここでは略する。実際に、嘉門治が光瑤の案内人をつとめたかどうかは不明である。

雨をつき強行決断

紙面のうえでは第12日、朝2時ごろ起床。「何時迄籠城するも際限が無いから、万難を排して槍へ強行する」ことに決めた。出発時間は書いていない。[2]

河童橋を渡り、嘉門治の小屋で休み、そこから先、梓川を徒渉して進んで行った。現代の槍沢ルートである。明神岳の背面から奥穂高が見えた。10時50分、熊裏沢に着いた。[3]蝶ヶ岳は雲で見えない。川は次第に細くなり滝が連続する。雨が降り出し、大降りになった。

山も谷も白い銀箭に射すくめられて仕舞った。狼狽して茣蓙を拡げ宇宙の鷺宜しくと云ふ姿で、雨に洗はれた石から石へ飛び移って行く。

『高岡新報』明治43年9月9日2面

晴れていれば槍の穂先が見えるはずだが、二ノ俣[標高1710m]を左に進む。降りしきる雨に風も加わって眺望どころではない。哀れな姿で案内人の尻に従って歩くうちに赤沢の岩小屋[標高1955m]まで来た。午後2時だった。

霧の故で薄暮の様な中に、折々雷鳴が聞える。流石の人夫も自分も此悪天候に翻弄されて、何だか天外へ流人にでもなった様な気がして、魂が滅入り込む一方である。併し此処迄来て引返すのは残念である。と云って是では頂上へ登った処で空々漠々何の得る処もなく此雨が不幸にして継続すると帰りに梓川の徒渉が危険である。大分人夫との間に熟議を凝らしたが、遂に大勇断を以て絶頂に登攀する事に決心した。

『高岡新報』明治43年9月9日2面

本当に勇断と言えるのであろうか。気象に敏感な現代の登山者であれば、登頂断念こそが勇断だと言うであろう。

夏の槍沢ルート 晴れていれば槍の穂先を眺められたはずが……
昔の絵葉書(発行年不明;石崎光瑤撮影)

坊主岩小屋で雪かき出す

雨水が笠を通して首筋に入り込み腹にまで伝う。2時間ただひたすら登った。高山植物が見えだした。悪天候の中でもチングルマ、コバノイワカガミ、ハクサンイチゲ、オホバキスミン、シテタマノキ、ガンコウラン、タカネキンバイを記憶に刻んだ。空気が薄くなり、苦しくなってきたが、午後5時50分、坊主小屋[2692m]にたどりついた。播隆上人らが1828年に使ったとされる岩小屋である。

悲壮感に満ちた自虐的な記述が続く。

石室の裡には雪が夥だしい。人夫と共に懸命で夫を運び出す。薄暗い陰湿な岩室へ這入って雪を抱えて出ては雨の下を潜る。風は横様に面を叩いて頬の感覚も失する位だ。山狂なればこそ若し是を都会の人に見せんが、立ち処に拉し去って巣鴨病院へ押し込みるであらうと黙笑した。油紙を張るやら毛布を敷くやらドーにか今夜眠る可き宿舎の準備はできた。晩餐を食って八時頃から身を横たへたが濡れし衣服の高寒を導き易く遂に終夜マンヂリとも出来なかった。

『高岡新報』明治43年9月10日2面

空が白みはじめる。また無情の雨だった。午前7時ごろに朝食を済ませると、雨は少し小降りに。案内人にカメラを担いでもらい、悲壮な意気で出発した。殺生小屋の前を過ぎ、いよいよ「積年の宿望なりし槍の鍔之に手を掛けて第一歩を巨人の肩に投じた」。最後の登りは約90メートル。

もはや宿望を遂げるためだけに進むようなものである。ここから先、光瑤の筆は極まる。

無情の雲霧のとざすありて、下に鍔元を見ず上に穂先を望み得ず。何らの恨事ぞや。チェンバーレンをして悪絶嶮絶天下無比と呼ばしめ、腰に命綱を結び合にて登攀せし。四十五度の急峰を有する槍の尖端今登り尽くして、二万五百尺の峰頭更に六尺の身長を加ふ。四款しかんの眺望を免さずと雖も此時の感懐云ひしらぬ嬉しさが胸に溢れる。噫々れど想へ。雲山七十幾里に垂々たらたらとする長程を遠しとせず渾身の勢力を傾け尽して、其夢褌[夢魂]にえがきし霊峰の頂に立つもの。なんぞ知らん、此如山神の冷酷なる手に翻弄され斯く計り何等得る処無くして空しく敗残の軍を収めて山を下らんとは。上層の雲は雲をひ、世は全く永しへに葬られたるかの様、紀念の為にせめて一枚なりともと、カメラ組しも仇なれや驀然として疾風鷲の如くに下り来り、急雨又至らんとするに臨み、遂に断念し恨の熱涙を呑んで此峰頭をくだった。

『高岡新報』明治43年9月10日2面、11日2面

読めば読むほど、光瑤の複雑な心情に共感してしまう。300キロ近く遠路をはるばる歩いて登頂を果たした喜び。その一方で、せめて一枚の写真をと、カメラを組み立てようとするがそれも風雨によって断念せざるを得なかった悔しさ。山の神はなぜここまで冷酷なのか。

灯りがともる頃、辛うじて上高地に下山した。梓川は一面濁流に覆われ、温泉の浴室も浸水していた。浴衣に着替えてさっぱりすると寝入ってしまった。

翌日も豪雨。松本から届いた新聞には地方の水害の惨状が出ていた。一日遅かったら槍ヶ岳に登ることはできなかったろう。

光瑤は連載の最後をこう結んだ。

自分は蜀を得なかったが隴を得たに満足したが、近年稀な悪天候の障害に遭遇して何等の得る処なく全くの敗軍の将となり徒らに竜頭蛇尾に完結したのは「千歳せんざいの恨事」であった。

『高岡新報』明治43年9月11日2面

第4章 変わる山旅

[1]光瑤は、島々でも「ローマンチックな物語」を書きとめている。『山水無尽蔵』(明治39年7月3日発行)など烏水の本を読んでいたものとみられ、槍ヶ岳登山そのものも影響を受けた可能性がある。

[2]午前2時起床とはいくら何でも早い。光瑤「早起の弁」『国画』2巻9号(1942年9月)を参照されたい。

[3]熊裏沢は不明。現在の徳沢か。


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