【資料】大井冷光「お伽多根萬記」『富山日報』(1910年)

「お伽多根萬記」(一)   冷光

◎久留島氏今回の本縣下のお伽講演は十五日間前後四十回で、聴いた少年少女の数は實に二万二千人有餘名、教師や家庭の人々も亦千名以上に達した。

◎其大部分は富山市内及縣下東半部各地で新川三郡のの主なる町は殆んど亘り尽して最後に婦負郡の四方町と東砺波郡の福野町に迄及んだ。

◎福野町丈は校舎が狭く恵比寿座と云ふ芝居小屋で講演會を開かれたが其他は悉く學校舎であった、されば始終久留島氏の此行に同行した僕は、行く先々の學校で見學した處も多かったから、其間に得た深い印象の二三を記して見たい。

◎之れは久留島氏も云はれたが事だが一般に學校衛生の進歩して居るのに驚いた、まだ十年前僕等が高等科に通ふて居る頃は尚ほ盛んに學校で鼻垂れを多く見たものだ、教室を入るとプンと子供の日向臭い匂ひが鼻を突いたものだが、今度は此臭気を感じた學校は甚だ尠なかった。

◎入善町から泊町迄俥で行った途中古黒部と云ふ村を通ると小さな尋常校があった、恰度教師が全校児童を一室に集めて居る處を俥上から見た久留島氏はヒョイと立ち寄って不容易な場所で少時間の講演をなさった。見ると二百名餘りの百姓家の子供さん達許り、ずいぶんみじめな姿の児もあったが、然し例の臭気は甚だ薄い、其上鼻の下の汚れて居る児の尠ないのに感心した。

◎次には児童が標準語を巧みにあやつる事だ、『です』だの『であります』だの云ふ言葉を聴衆の前に立って如何にも無雑作に操って、名詞や動詞に方言を交へぬ處は記者等の小學時代を顧みて舌を巻かざるを得なかった唯残って居るのは母音教育の不備で、イとエ、ヒとヘの混用では児童は勿論教師でさへ多くは平気でやられるのは、記者が今自分で苦しんで居るせいか殊に著しく耳障りに感じた。

(二)冷光

◎待ちに待ったお伽講演會は愈よ開かれる、講堂に集まった幾百千の少年少女は、新来の久留島氏の姿を思ひ思ひに想像し、評し合って待ち構えて居る、やがて校長の案内で久留島氏が着席する、此時オルガンの音がブーと鳴って一同起立、又ブーと鳴って敬禮をする、もう其三度目のブーを聞かなくても宜しい、其學校の規律は承知した、少年少女諸君の訓練を拝見する事が出来た。

◎或る學校では講堂の板の間にヒシヒシ押し合って座って居たが、意外にも三節の敬禮が一糸乱れずに行はれた、又或る學校では一人一人立派な椅子に腰を掛けて居たが、ブーとなるとゴトゴーゴト、ガヤガヤガヤで終ったのもあった。

◎同時に又唱歌教育の主意を伝閑にされて居る學校であるか否かを知るに尼る、唱歌は発聲機や耳の発達を計るもの、音楽の観念をつけたらよいもの位に思って居る學校では必ず三節の敬禮に統一がない、規律の厳正が保たれない、あれで官祭祝日の式がどうして出来様かと感じられた位だ。

◎久留島氏は講演の前に唱歌を所望された。それは熱い間に待ち疲れて居る少年少女に発聲させて倦怠を慰する為であったらしい、……又同時に一方唱歌教育の重く見て居られる原因もあったらうが後で其れに就いての意見を聞く筈のをツイ聞き損ねたのは遺憾であった。

◎處がこの唱歌教育に就いては同氏先づ驚かれ、僕も亦尠からず意外に思ったのは一校の生徒が一度に合唱の出来る唱歌の無い學校の多かった事だ(君ケ代は勿論出来やうが)又三四年前迄は産に行はれた壮快な戦争唱歌の俄かに廃った事だ、或る高等科併置の學校で陸海軍に因んだどんな唱歌でも宜しいから聞きたいと所望すると、その級にもそんな唱歌の教へては居ないと云ふ返辞を受けた處さへあった。

(三)冷光

◎校訓校歌のある學校は魂の据った學校で、之れを有たない學校は一般にまだ訓育上の方針の纏まりの付かぬ學校のやうな感じがした、と同時に其學校の統一の有無を看取出来るやうでもあった、而し之れは僕丈の即断であるかも知れぬ。

◎統一と云へば、講演會や學芸會を見た中で随分この統一の出来ぬザワザワした會合があった、唱歌をやるにも講話をやるにも斡旋役・校長と弾奏者と講演者とがてんでに慌ててばかり居て立派に貼り出された順序書も一度毎にごたつく、果ては閉會際になると閉會の辞を云ふのか、唱歌をやるのかそれともオルガンで敬禮をするのか訳が解らずに終ったのもあった。

◎これは最初會を司る者、即ち開會中は絶対の権威を有する者を設けなかったからだ、其司會者は必ずしも校長でなくても宜しい、寧ろ少年にやらせるのがお伽講演會にふさはしからふ、又有益でもあらふ兎に角一旦之れを司會者とした以上は開會の辞から閉會迄すべての番組の進行は悉く司會者に一任せねばならぬ、教師は僅かに非常の場合の相談にのみ応ずる事にせねばならぬ。

◎此點で一番整って居たのは四方町校のお伽講演會であった一司會者は校長席の脇に構えた高等二年級の一少年であったが、談話、独唱、対話、合唱と十数番のプログラムと一度も滞りなく搬んだのには久留島氏も珍しく感服して居られた、尤も同校の唱歌教育は著しく進歩して居た。

◎其上此四方校で僕に取っては忘れられぬ記念を得た、他でもない尋常一年級の対話だ、題は『長者屋敷』大変に姿勢の正しい幼年の酉松が呉羽山の長者屋敷へ寶を掘りに行くと兎の旗を持った幼女の兎さんが出る、狼の旗を持った幼年の狼さんが出る。

◎最後に出たのは房々した糞の處にリボンの蝶々を結んで蝶々を結んで友仙メレンスの筒袖の上に雪白の前垂をした幼女、唯それ丈の姿で自然に出来上った可愛らしい神様、それが鈴を振る様な聲で『これ酉松』と呼ぶと今迄直立不動の姿勢の酉松が俄かに敬禮の姿勢を取ると云ふ出来栄え、嗚呼僕は片田舎と思って居た四方町で斯くまで整った対話を見せられるとは思はなかった、同時に世の対話に弊害を気遣ふ教育者には是非一度之を見せたいとも思った。それにしても拙作をあゝまで完全になさった諸先生の苦心を感謝したい。

(四)冷光

◎東水橋校はひどく老朽した校舎であったが、校長は十三年の勤続者と聞いて床しく、横綱梅ケ谷が其學校で育てられたと聞いて更に愉快に感られた、嗚呼唯の角力取り梅ケ谷、それが如何ばかりの教訓を同校児童に與て居るだらうか…此學校には校歌があった

◎滑川町高等校の応接室に入ると學校舎創立の際の功労者の大肖像が五六枚掲げられてあった、何れも同町の地位名望者らしい顔の中にタッタ一人十一二の花の如き少女の肖像が雑って居た、不審に思って訊ねると深井ハツエと、尋常四年級在學中病死した少女であったが、死際に豫て貯蓄して居た何円かの金を全部學校建築費の方へ寄附して呉れと遺言したものだと云ふ、活きた教訓は貴いと思った。

◎泊町校には広い學校園があった、分類が緻密で其上培養上の意匠も甘い、随分種類が沢山あったが僕は唯主任結城訓導の案内中、お辞儀草を指して「此草は生徒が家に持って帰って『お母さん、この草は云ふ事を聞きます』などゝ冗談の種にするさうで沢山持って帰ります」と云はれたのにが嬉しかった

◎『お母さん御覧、此草は私の云ふ事を聞きます、それお辞儀をするでせう』と子供が云ふと『なる程これは妙な草だねえ』と母が答へる『これは魔法の草ですよ』と云ふと『さうかい、魔法の草でもお前の吩咐けをすぐに聞くのが感心だねい』と答へる、そこで子供も成程これからお母さんの云ふ事も此のお辞儀草の如くにならねばならぬと意識する、此に至って正に教訓お伽噺の領分となる。

(五)冷光

◎上市校は立派な校舎であった、集まった少年少女は千六百餘名、このお伽講演會が同校同窓會上市部會の兄さん達の発起で開かれ、會の準備万端又兄さん達の尽力になったのだ。

◎影に廻っては万端卒業生の兄さん達が世話を焼き乍ら、開會中に在校の弟さん達が司會者と為って凡てを処理する、今日丈は學校の教師諸君もお客様だ、傍の見る目も心地よかった。

◎入善町の講演會又同町の三徳會と云ふ卒業生の兄さん達の発起で、會長米沢元健氏初め大角、田原等幹事諸君の斡旋は申分ない位、尤も此校では在校の少年少女は凡て教師と一所にお客様だったが、然し聞けば開會の辞を陳べられた老校長は實に前記三徳會員諸氏を薫陶した人ださうな。

◎東岩瀬は二回目の婦人會は珍らしい盛會であった、何んでも集った母姉諸君實に五百名、殊にも杖に縋った寺参詣さへ六ケ敷さうなお婆さんが中々に尠くなかった、そして講師の話が大変に解る、笑ふ、泣く、首肯く。

◎どうしてこんなに進歩したものかと學校の教師に尋ねたら、學校の學芸會を開く時分に出席を奨励した結果、今では會毎に児童数の八分以上は出席するとの事、如何な富山市の諸學校でも此の真似は出来まい。

◎富山で沢山の講演があった中で學校と家庭とが會し合っての集會は五番町のはなし會と南田町校の講和會前者は家庭側の主催、後者は學校の発起で校下の援助、双方共、唯のお伽噺を聴く丈の會に終わらなかったのは愉快だった。

(六)冷光

◎久留島氏のお伽講演は必ず何等かの暗示を含んで居た『だから悪いことは出来ない』とか『此點が教訓になるぞ』など云ふ説明こそ無かったが聴いた後で興味以外に必ず何か頭脳に残された。

◎その残り様が如何にも穏やかでほんのりと来る、入浴後のボッとした心地となる、校長から命令的の紹介を固たな々眼を角にして迎えた児でも同氏の講演の五分と進まぬ中にもう、講師に釣り込まれて仕舞って居る、講師に同化して居る、講師又児童に同化されてしまって居る。

◎或る校長が云はれた、富山市の児童の乱酔状態にある者、郡部の児童の半睡状態にある者、何れも骨の折れるが半睡状態の方は幾分か御〓易いとの事久留島氏東京の中央の小學児童と田舎の小學児童とを比較して殊に其感が深いと云はれた。

◎然し僕の實験した處では富山市内の初年級がお伽噺を聞いたのと、古黒部の小學児童が之を聞いたのと彼等が感興に何等相異の點が無いと思った、ト同時に乱酔も半睡も教師が之を感ずると否とに於て児童の幸と不幸のわかれ目になると思った。

◎嗚呼學校と家庭との連鎖の事業、國民性涵養の最好手段、我がお伽講演上の唯一の要點は、児童と同化するの外ないと知った。(完)

【解説】『富山日報』明治43年7月26日~31日1面、6回連載。富山お伽倶楽部の発会式が明治43年7月3日に開かれた。式に招かれた東京のお伽倶楽部の主宰者、久留島武彦はこれに合わせて約2週間、富山県内各地を巡回講演した。その同行記が「お伽多根萬記」である。これによると、久留島の講演は計40回、のべ22000人の少年少女が集まったという。1日に2-3回の講演で1回平均で550人ということになる。

同行記は、久留島の行動を記したものではなく、冷光自らが取材を通して感じたことを綴っている。主な関心は、子供をめぐって学校と家庭がどうあるべきかであった。久留島と会話をかわすなかで、唱歌教育や校歌校訓の意義などについて思索を深めたことがうかがえる。

最後の一文で、お伽倶楽部の事業目的を「學校と家庭との連鎖」と記している。当然のことながら、久留島のお伽倶楽部で謳われていた「児童のため家庭および学校の補助機関となって清新の趣味と知識を与える」という趣旨と符合する。そして、久留島の講演に同行した成果として、子供を前にして講演するとき最も重要なポイントは「児童と同化する」ことだと自分に言い聞かせている。冷光はこのときたどり着いた児童本位の考え方を終生貫くことになる。

(2013-05-11 22:49:00)

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